秋の目覚め

                   Leiji


   一

 秋も深まる季節。
 隆山温泉街の背後の山々も、もう無彩色の季節への準備を始めている。
 その山々の一角を切り開いて造られた墓地がある。隆山の有力者たちが、その生涯の最後を飾るために用意したモニュメントの群れだ。
 そして、そのなかでもひときわ群を抜いた存在感を示す、漆黒の墓。
 周囲の空間すら威圧するかのような黒。
 そこに刻まれた苗字を、この隆山で知らないものはいない。
 隆山温泉街の中興の祖、一代で隆山の街を実質的に支配するまでにのしあがった男の、その一族を示す文字だ。

 彼岸か盆でもないかぎりめったに人も訪れないこの場所に、一人の若い女が訪れたのは、そんなある晩秋の一日だった。
 濡羽色の髪のその女は、その場所に訪れるものの大半がそうするように、この周囲と不釣合いな塊に目をやった。そしてその前に足を運ぶ。
 表情ひとつ変えず、女は軽くその大きなものに手を合わせ、そして再び歩き出した。

 女が再び足を止めたのは、その墓地のはずれのほうにある、まだ真新しい墓の前だった。この墓にも、さきほどの巨物と同じ一族の名が刻まれている。
 しかし、この墓にはそれほどのサイズはなかった。ちかくの同種のものと比べても、あまり目立ったところもない。
 女はその墓に、手にしていた花束を供えた。
 そしてちかくの手水場から水を汲んできて、柄杓で墓に水をやる。さっきと違い、女の表情は和らいでいた。どこかいとおしげにも見えたほどに。
 墓石をひととおり湿らせたあとで、女は墓の前に膝をつく。そして目を閉じ、手を合わせた。
 海風が吹いてくる。供えられた花の花弁が、女の髪が、その風に揺れた。
 女は呟いていた。


 叔父様? …私です。
 あれからもう三ヶ月が経つのですね。私も少しづつ、いまの暮らしになじんできたようです。
 叔父様が亡くなられてから、こちらは大変なことが続きました。叔父様の件で警察が来たり、同じ頃に梓と耕一さんが、誘拐事件に巻き込まれたり。
 ほんとうに、大変なことが続きました。
 お仕事のほうも、足立さんのおかげでなんとかうまくいっています。
 そんなふうにいろいろ気ぜわしくしてるうちに、もう三ヶ月が過ぎちゃいました。

 ときどき、叔父様の夢も見ます。
 いつも不思議なんですけど、夢の中の私は、叔父様が亡くなられたことを知ってるんです。
 叔父様があの晩、無事に帰ってきてくださる、そんな「奇跡」の夢ばかり見ます。
 そんな日の朝は、いつも私は、何故か泣きながら目を覚ますんです。

 ごめんなさい、せっかくお邪魔したのに湿っぽい話ばかりで。
 今日来たのはこんなことを話したかったんじゃないんです。
 梓の受験の話、覚えていらっしゃいます? ええ、志望校が決まったらしいんです。
 それが可笑しいの、なんていうか、恋する乙女は怖い、っていうか…。

 え? 説明しろ、ですって?
 この間来たときに、説明しませんでした? 梓と耕一さんのこと。
 夏の事件があってから、不思議と二人が付き合いだしたみたいなんです、って、言いませんでした?

 それで、この間梓があちらに下見に行ったんです。その時のことなんですけど………




   二

 ぴんぽーん、ぴんぽーん。
 朝の早くから、玄関のチャイムが鳴る。

 ぴんぽーん、ぴんぽーん。
 …うるさい。

 そもそも昨日はゼミの連中と飲んでて、帰ってきてからすぐに寝たんだっけ。翌朝になんかあるからって言って、さきに抜けさせてもらって…。

 ぴんぽーん、ぴんぽーん。

 あぁ、しつこいなぁ。新聞の勧誘とかだったら勘弁して欲しいよなあ…。
 そんなことを俺は思いながら、布団を頭まで引き上げる。これくらいの季節だと、この都会でもいいかげん朝は寒くて嫌になる…。
 ぬくぬくとした空間を作り直したところで、俺は枕もとにある(はずの)目覚し時計に手を伸ばした。
 十時…半かぁ。たしかさっき六時半で、ちょっと早いかなと思って寝なおしたから…。

 って、それまずいじゃないか!


 一気に目が覚める。
 かけ布団を蹴飛ばし、俺は慌てて玄関へ向かう。途中で床に置いてあったなにかに足をひっかけたおかげで、半分ころびながらドアノブに手をかけた。
 がちゃん!
 勢いよくドアを開ける俺。というか、ドアに倒れこんだ、というべきか。
「わ、あぶないってば!」
 そんな俺に飛んでくる、案の定の罵声。
 勢いが止まらず、俺はそのまま三和土(たたき)に倒れこむ。
 どしゃ。
 置いてあった革靴やスニーカーを押しつぶしていた俺の身体。
 その勢いのままに、いきなり開かれたドア。
 そして、そのドアの一撃をからくもかわした来訪者。
 とどめの、来訪者の一言。
「……なーにやってんのさ、耕一」
 顔を上げると、秋の陽光を背後に受け、あきれ返った表情の梓が俺の顔を覗き込んでいた。


「あたし、これでも昨日何度か電話したんだぜ? 夜行で行くから、九時にはそっち着くって。留守電にも入ってるはずだろ?」
「いや、だから、昨日は飲んでて…」
「だいたい先週の時点で、今日あたしが来るってことは分かってたはずだ」
「…確かに」
「それなのに台所も片付いてない。部屋は散らかりっぱなし。洗濯物はたまってるし、挙句の果てにあたしが来たらまだ寝てるたぁ、どういうことよ」
「…面目ない」
 しょうがない。そんな表情でこっちを見やる梓。
 …台所の食器を洗いながら。
 口うるさくなんのかんの言うけれど、それでも手伝ってくれるのはこいつのいいところだ。
 気のせいか、俺から見るあいつの横顔には、そんなに怒ってる様子もない。むしろ笑みすら浮かんでる気もする。
 そして、それを眺めてる俺。自分でも、なぜか表情が緩んできているのが分かった。
「耕一? こっち片付いたら、あたし洗濯物片付けるから。その間に部屋の片付け、しといてよ?」
「りょーかい」
「午前中で片付けるからね。そうじゃないと、なんのために来たのか分からなくなるし」
「ああっと、大学の下見、か」
「そ。一応さ、二・三校回りたいしね」
「だな。頑張れじゅけんせー」
「そう思うなら、はるばる上京してきた従妹に家事なんかさせないようにしろよ、な」
 う、やぶへびだったか。
「次から気をつけます…」
「…次から、ね。まあ、期待しとくからさ。それよりそっちも手、動かしてる?」
「それなりには」
「片付かないとあたしが勝手に処分しちまうぞ? いろいろと」
「…がんばります。全力を尽くします」
「よろしい」


  三

 そんなこんなで二時間強。
 野郎の一人暮らしの風格に満ち溢れていた俺の部屋が、たったこれだけの時間でここまでこぎれいになるとはな。これでいつ客が来てもなんの問題もないだろう。
 本気になった俺はやっぱ凄い。うむ。
「そう思うんなら、あたしが来るまでにその凄さ、発揮しとけよな…」
「ぬう。手伝ってくれた以上文句も言えぬ」
「『手伝った』のはアンタ。主力はあたしだったじゃない」
「返す言葉もありません」
 なんか、言ってて情けなくなってきた…。
「ま、いっか。それよりせっかく片付いたんだし、行こう? 学校、案内してくれるんだろ?」
「…了解」


 普段なら大学にはバイクで行くところだが、梓のぶんのメットがないので今日は電車だ。
 土曜日の電車、それもこんな昼下がりのそれには、いつもの通勤ラッシュのような殺気はない。他の客たちも、秋の日の光の暖かさからか、うとうとしてる人が目立つ。
 俺は適当に、空いているシートに腰を下ろした。梓も俺のとなりに腰を…かけてこないな。
「どうした?」
 俺は、目の前で妙にもじもじしている梓に声をかける。
「あ、あの…さ」
「なんだよ」
「隣、…さ、座って、いい?」
 何を言ってるんだか、空いてるんだから座れよ。そう言おうとしたとき、俺は梓の視線が微妙に脇にそれているのに気がついた。
 …あぁ、なるほど、そういうことね。
 梓の視線の先には、ぴったり肩を寄せ合って、お互いうとうとしているカップルがいた。梓がこういうのに興味を示すとは。柏木家では見られない一面だなあ、うん。
 俺は左腕を、シートの背もたれの上端にそって伸ばす。ここに座れよ、の合図だ。
 今度は嬉しそうに、梓がその場所に腰を下ろす。
 俺はその梓の肩に、伸ばした腕を回した。
 ほとんど力をいれなかったその動きで、梓が俺の肩にもたれかかってくる。
 触れ合う身体の柔らかさ、そして彼女の匂い。
 いい昼下がりだ。


 駅から商店街を抜け、歩いて十五分くらいのところに俺の通う大学はある。俺と梓は、そのあいだとりとめのないおしゃべりを続けていた。
 大学の門をくぐるや、梓が急にきょろきょろし始める。「下見」してるらしい。
「あの建物は?」
「事務棟。授業料とか成績発表とかする嫌なところだ」
「あの建物は?」
「大講堂。入学式と卒業式のためにあるところだ。あとわけわからん講演会な」
「あの建物は?」
「本館。授業とかやるところだ」
「あれは?」
「図書館」
「あれは?」
「生協」
「あれは?」 
「サークル棟…って、なあ、梓?」
「なに?」
 なかばはしゃぎ気味の梓が、こっちを振り返る。すっかり上機嫌だ。
「なんだったら、建物の中、見ていくか?」
「え、いいの?」
 といいつつも、梓の食いつきは上々だ。
「いいっていいって。どうせ今日は土曜で休みだし、学園祭が近いから鍵もかかってないし」
「ほんとにいいの? 守衛さんに怒られるとか」
「なに言ってるんだか。俺、この学校の学生だぜ? 自分の学校の校舎に入ってなにが悪いのさ」
「…あたしは?」
「知らねー」

 そんな馬鹿な会話を繰り返しながら、俺たちは本館の建物に入る。
 カベのあちこちに、いろんなサークルのビラが貼ってあるのが珍しいらしく、梓はしばしばそれを立ち止まって読んでいた。俺もそういえば、初めて大学に来たときにはびっくりしたよなあ。高校のカベなんて、ビラ貼るどころか汚しただけで教師にとっつかまるようなモンだったってのに。
 適当に梓を連れて、建物の中を回る。
 そして、入り口の鍵がかかっていない教室を見つけた。
「梓? こっちこっち」
「どしたの、耕一?」
「こっちが実際に授業とかをやる教室だ」
 そういって梓を案内する。
「ここが教室?」
「おう。ここで俺たちマジメな大学生が、毎日ありがたい教授陣の講義を聞かせていただいているのだ」
「…本気で言ってる?」
「あんまり言ってない。ありがたいかどうかはよく分からんし、なにより自分がそこまでマジメじゃない」
「やっぱり、ね。しょせん耕一だし」
 まったく、一言多いヤツだ。
「…ところで、大学の教室って、なんでこんなに殺風景なの?」
「殺風景?」
 突然話題を変える梓に、マヌケな返答を俺は返した。
「うん、殺風景。だってさ、高校までは花とか飾ってあったり、なんかいろいろあったじゃない? なんかここ見てると、ただ単に椅子と机と黒板があるだけ、みたいな気がして…」
「『気がして』というより、そのままだがな」
「だれかが持ってきたり、とかは?」
「しない。絶対しない」
「そうなの?」
「当然。だいたい授業で使う教室って、みんな違うしな」
「そうなんだ…」
「そう。言っておくが、クラスとかもないぞ」
「そうなの?」
「当たり前だ。そんなのあったらろくに授業もサボれないじゃないか?」
 その俺の言葉に、梓は俺をまじまじと見つめる。
 そして一言。
「納得した」
 …一言多いんだって。

 そんなこんなで、俺たちは校舎を出る。
「…で、感想は?」
「うーん…せっかく案内してくれた耕一には悪いけど、ちょっとがっかりしたな…。もっときれいなところかと思ってたもの」
「ま、大学ってのはそういうところだ、ってことさ。ウチのゼミの教授も、研究予算すら出ないって口癖にしてるくらいだしなぁ。ましてそんな美化予算なんて、なかなか…」
「「はぁ…」」
 お互いのため息が重なる。
「なんか気分滅入ってきたなあ…。梓、場所、変えようぜ?」
「了解…」

 
  四

 大学をでたあと、俺たちは駅に続く商店街を歩く。秋の日は早くも傾き始め、街を行き交う人たちの中にも「夕食の準備をしています」的な主婦の姿が多くなっていた。
 ふと横の梓を見ると、彼女は肩から下げていたデイパックの中を覗いていた。
「梓、どうした?」
「ん、…ちょっとね」
「それじゃ中は見にくいだろ? ちょっと持っててやるよ」
「さんきゅ、耕一」
 …そうこうして梓が取り出したのは、数枚のチラシ。
 見てみると、この商店街のスーパーやら惣菜屋やらのチラシだ。
「あれ? 梓、どこからそんなものを?」
「朝、アンタの部屋を片付けるの、手伝ったじゃない? あのときに、ちょっとね」
「抜け目のないやつ…」
「生活力の高さ、さ。伊達に8年ちかくも家事やってたわけじゃないよ」
なるほどね……。
 意外なところで目端が利くヤツ。内心、舌を巻いた。

 そんなわけで、俺は梓の指揮のもとで荷物運びに従事するはめに。梓曰く、
「いいモノ安くで選んでやってるんだから、感謝しなよ」。
 実際、梓が野菜やら肉やらを見て回る様子は実に手慣れていた。俺だったらなんの考えももたずに買い物カゴに放り込んでいくはずの食材の山のなかから、いい物をきっちりと、しかも手早く選び出していく。実に見事なもんだ。
「…なあ、いつもお前ってそんな感じで食材選んでるの?」
「そうだよ。っていうか、主婦なら誰でもしてるって」
「最近は、そうでもないと思うがなあ…」
「そんなことないさ。せっかく自分で料理するんだぜ? それに、料理は手をかけたぶんだけ美味くなるもんだからさ。いい料理の第一歩は、まず食材選びから。基本だよ?」
「そっか…。いつか教えてくれ」
「なんなら今すぐにでも教えるよ? たとえばこのキャベツだけどさ……」

 そんなやりとりを交わしている間に、俺はひとつ気がついたことがあった。
 いつも、俺が食材を買い込むときにどうして気をくばらないのか。
 理由はいろいろあるだろう。俺がただ単に、梓ほど家事に向いていないというだけの話かもしれない。ただ、間違いなく言えることがある。それは、「どうせ俺しか食わないんだから」という言葉が、常に俺の頭のなかをよぎっていた、ということだ。
 考えてみると、ここに来ている人のほとんどは、誰か他人のために買い物をしているわけだ。俺のように、自分ひとりだけのためにモノを買っていく人のほうが、すくなくともいまの時間は少数派だ。
 そして、今、梓は「俺のための」食材を選んでくれている。
 いつもは姉妹たちと、そして俺の親父のために。
 でも、今日はコイツは俺のために…。

「な、なんだよ耕一。なににやにやしてんのさ? 人の顔見て」
「…別に?」
「そう?」
「そう。それより、そのじゃがいもの見分け方はどうなってんのか、続きやってくれよ」
「あ、ああ。えーと、いいじゃがいもの見分け方は……」

 俺が両手に買い物袋をぶら下げる。
 梓は身軽にデイパックだけ。
 そんな組み合わせで俺たちは電車を下りた。
 駅から俺のアパートまでは、閑静な住宅街だ。とくに、こんな秋の日暮れの早い季節には人通りもあっという間に少なくなる。
 とびとびに道を照らす街灯の明かり。それが、かえってますます周囲の暗さを浮き立たせるようだ。そんな周囲の様子のせいか、さっきよりも梓は俺の近くを歩くようになった。
 肌を刺す、とまではいかなくても、この季節の空気は寒さを感じさせるには十分だ。
 俺の、荷物を持っている手も、もう半ば感覚はない。
「…寒いな。そっちはどう?」
 俺は梓に声をかける。
「そっちって、まだ雪なんか降ってないよ? それに海のそばだから、積もるのはまだ先の話だし…」
「…いや、隆山の話じゃなくて、おまえの話」
「あたし? あたしは…ほら、雪国の女だし、陸上やってるし。寒いのには慣れてるよ」
「そうか…寒いのは俺だけかぁ」
「そりゃあね。暖かい部屋でぬくぬくしてる学生さんには分かりませんよ…、っと」
 いつのまにか俺の後ろに回りこんでいた梓が、その手を俺の首筋に当ててくる。
「おわっ、冷たいぃっ! やめ、やめ、やめろってば!」
「へへん、どうよ。この手の破壊力は」
「わ、わ、分かったからやめろってば!」
「おらおら、このまま凍り付いてしまえー、っと…」
 必死に梓を振りほどく俺。
 ったく、なんだってんだよ突然、子供みたいに。…そう、梓に悪態をつこうとしたとき、俺の手に何かが触れた。
 …梓の手。
 俺の冷えた手に添えられたそれは、やっぱりつめたかった。
「…ね、良かったら持とうか?」
「いいよ。ここまで来たんだし、それに…」
「それに?」
「それに、無理させたくないし、な」
「なに言ってるのさ、いつもこれくらい持ってるってば」
「…いいから」
 しばらくの沈黙。
 そして俺たちはまた歩き出した。
 梓は、俺に手を添えつづけたままで。
 そして俺は、二人分の夕食の材料を抱えて。

  
  五

 梓の作る食事は美味い。
 当然のことながら、比較対象は千鶴さんではない。世間一般でふつうに食べられるメシのレベルは、確実に超えているといっても言いすぎじゃあないだろう。
「なにがいいって、まずこの味噌汁だよなぁ。具の材料はともかく、だしとか味噌とかは俺が作るときとおなじのを使ってるのに、なんでかぜんぜん味が違うんだよな」
「あはは、いや、そんなに誉めるなって」
 いつものように、鼻の頭を掻いて照れる梓。
「いやいやマジでうまいってば。それにこのメンチカツ、普段だったら出来合いのものなんかまずいから買わないのに、よくこんな美味いのを見つけて来れたよなぁ…」
「なに言ってるのさ、これだって普通のヤツさ。ただ、味噌汁にしたってそうだけど、温め方にコツがあるだけの話だよ。どうせ耕一、料理しながらテレビとか見てるんだろ? どういうわけか台所からテレビがよく見える位置にあるし、な」
「ぐ…」
 図星だ。
「それだと火の止め時を間違えるぜ? 味噌汁にしたってメンチカツにしたって、なんならインスタントラーメンにしても、火の止め時を間違えるだけでいっぺんで台無しになっちまう。料理ってのは、そういうもんさ」
「なるほど…」
「味も悪くなるし、出来上がりのみてくれもだれてくる。まして栄養分までなくなるときたもんだ。すこしは耕一も料理に真剣になりなよ。…自分のメシだろ?」
「……」返す言葉もない。
「ま、いいから食っちまおうぜ。冷めたらまずいのはどんな料理もいっしょだからさ?」
「了解」

 食後。
 梓は台所で、洗い物を片付けている。
「俺のうちなんだから自分でやるよ」とは言ったのだが、
「いいからやらせろって。どうせたいした手間じゃないしね」との一言で片付けられてしまっていた。そんなわけで、俺は食後のお茶を用意したあとはやることがない。しかたなく、ぼーっとテレビを眺めていた。
 画面には「吉田家の食卓」、なんか生活の得する知識の番組、らしい。とはいえ俺はただ眺めているだけ、内容なんてろくに頭に入ってはいない。梓が洗い物を終えるまでの、それだけの時間つぶしだ。

 と、突然その視界が暗くなる。
 そして背中にかかる、心地よい重み…。
「梓? 洗い物、終わったのか?」
「ん、終わったよ」
「そっか。ありがとうな」 
 そう言って、目隠しの手を俺はゆっくりほどいた。
 そしてその手を、なんとなく自分の手のひらではさむ。水仕事で冷えただろう梓の手、その冷たさと柔らかさが快かった。
「こ、…耕一?」
 手を離さない俺に、梓が声をかける。
 俺はそれでも梓の手を離さない。
「ち、ちょっと……」何するつもりなの、とでも言いたげな梓。
 俺は、その身体を抱き寄せた。
「耕一…」
 俺の腕の中で、梓が呟く。それに俺は応える代わりに、彼女を抱きしめた。
 彼女の着ている白いセーターの柔らかさか、それとも身体自身の柔らかさか。
 梓は拒まない。力を抜くでもなく、こわばったようでもない。ただ、あるがままに俺に抱気締められていたようだった。
 その匂い。どちらのものともとれない、心臓の鼓動。
 不思議と胸の奥から、強く強く沸きあがる衝動。
 
 俺の背中が、梓がまわした腕を感じた瞬間、俺のなかで何かが切れた。
 なにがそれまで俺をつなぎとめていたのか、それはわからない。
 相手が受験生だから? 「そんなことをしに」ここに来たわけじゃない? それとも、異性に餓えているように自分を見ていたから?
 どれもある程度までは正しく、ある程度以上は的はずれなのは間違いない。
 そして、俺は梓の唇を求めた。
 その衝動をなんとか形にしようとしたとき、俺にはそれしかとる手段はなかった。
 正しい衝動の現れだとは思えない。なにかもっと、この衝動をあらわすにふさわしい行動があるような、そんな思いは消えていない。それでも、目の前の梓をむさぼる行為に、俺は夢中になった。

 唇を割り、絡む舌。
 まるで果物にむしゃぶりついて渇きを癒すような、そんな熱情を俺は梓に向ける。
 ぎこちなく、でも確かに、梓もその熱情に応えてくる。
 梓を抱きしめる俺の腕に、さらなる力がこもる。
 …もう、自分を抑えたくない。
 梓の背に回した手を、そのままセーターのすそから中に滑り込ませる。その指先に、なめらかな背中の肌を感じた。
 止まらない。梓の肌の上を、俺の指が滑りつづける。

「ちょ、ちょっと、耕一…」
「…何だ?」
「あの、……」
 ほんのりと頬に紅を浮かべていた梓、その梓がさらに顔を赤く染めて口篭もる。
「…どうした?」
「あのさ、…その、するんだったら…電気、消して」
 分かった、という代わりに、俺は梓から身を離した。
「え? …耕一?」
 俺はその声に答えず、そのまま押入れから布団一式を取り出す。
 そしてそれを手早く敷き、そして梓のところに戻った。
 床にへたり込んでいたままの梓に、俺は声をかけ、手を伸ばす。
 その手に手を重ねた梓。俺はその梓を抱き上げた。
「抱っこ、…か」
 梓がつぶやく。
「嫌か?」
「…ううん、」
 とだけ答えて、梓は俺の胸に顔をすりつけた。
 ほんの二・三歩のあとで、俺は布団のところにまでたどり着く。
 そこで、梓を布団に下ろした。まるでこわれものを扱うときのように、細心の注意を払って。
「……じゃ、電気、消すぞ?」
「うん、…耕一」
 そして、部屋の明かりが消えた。


   六

 翌朝。
 俺が目を開けると、目に映ったのは梓の微笑んだ顔。
「あ……、おはよ」
「おはよう、耕一。…起こしちゃった?」
「いや、そんなことは、多分…ない。起こされたっていうより、起きたって感じだからな」
「そう?」
「そうだって。梓の方こそ、相変わらず早いよな」
「まあね。いつものクセだし」
「悪いな。せっかく俺がいるのに、相手できなくて」
「…ううん、別にかまわないよ? 耕一の寝顔、結構かわいかったし、ね」
「な、何を言ってるんだか…」
 なんだか急に恥ずかしくなり、俺はそっぽを向く。
「もう、照れなくてもいいのに? ほんとにかわいかったんだから、さ」
 そっぽを向いた俺の首根っこに、梓が抱きつく。
「ったく、お前も!」
 俺もじゃれ付いてくる梓に相手をする。
 お互いに一糸もまとわない、肌と肌だけの触れ合い。
 そのなかで俺は確かに、日ごろのもやもやした気持ちが薄れてゆくのを感じた。
 理不尽な親父の言動と死、ひとりで死んでいった母、そしてこの二人を共に葬ることにこだわった千鶴さん、そして…、少年の日の梓の面影、夏の再会、そして悪夢、あの事件で「強制的に」結ばれた、俺と梓との関係。
 それら、俺をなんとなく取り囲んでいたもやもやした想い。梓との触れ合いが、それから俺を確実に解放してくれていることを、俺は確信した。

 布団のなかでのじゃれ合いも長くは続かず。俺と梓はまた静かに身体を横たえている。
 さっきから梓は、俺のあごをなで続けている。
「梓、なにやってるのさ?」
「ん、……無精ひげ」
「あ、そうか。昨日から剃ってないし。剃らなきゃなあ…」
「それダメ」
「何で?」
「…好きなんだ、コレ」
「そうなのか?」
「…うん。なんか、オトコノヒトなんだなー、って感じだし」
「そう、か。…だったら、梓が居る間は剃らないようにするかな?」
「うん、それいい。あたし、そしたら耕一のここをずっと触ってられるし、ね」
 なんだかマジメに喜んでいる梓。喜ばれるのは気分がいいのだが、しかし…。
「なにがそんなに嬉しいのやら?」
「分かんないならべつにいいよ? あたしが好きなんだから、さ?」
「分からねえ…」

 そんな心地よい怠惰の時間も、そう長くは続かない。
 その日の昼すぎには、俺は梓を見送るために駅に来ていた。
 不思議と、一日前にはあれだけ出ていた軽口は、もうどちらからも出てこない。駅までの道のりを、梓はただ黙りこくっていた。
 そしてその間、互いにずっと手をつなぎ続けていた。途中で買った缶ジュース、それを飲むときでも互いに手を離すことはない。

 それでも、駅への道のりは容赦なく終わりに近づいていく。
 駅舎の前に着いたときに、梓は繋いでいた手を離した。そして、俺と一瞬視線を交わす。その瞳に涙があふれていたことに、俺は初めて気がついた。
 梓はそのまま俺に抱きつく。俺もその背を支え、頭をなでた。
 俺はもう、はっきりと気がついていた。
 梓が欲しい。
 ずっとこうしていたい。そばに居て欲しい。
 そして、どんなにそれを念じても、あと五分ほどで梓がこの街からいなくなってしまうという事実、それを俺が理解したとき、(不覚にも)俺の目にも熱いものがこみ上げてきた。

 冗談じゃない。男が泣けるかよ。

 
 販売機で買ったターミナル駅までの切符で、なんとか落ち着いた梓が改札をくぐる。
 俺とはここでお別れだ。
 隆山までついて行けない以上、ここで離れてもなんの違いもない。
 そのはず、だった。ちょっと前、一人で暮らしていたころの俺なら、そう言って今の俺を嘲笑っただろう。
 今の俺はそうとは思わない。
 いくばくの金で、梓をあと一時間そばに置いて置けるなら。よろこんで払いたかった。
 それをしなかったのは、俺の最後の良心。だらだらと長くそばに居るほうが、別れは辛い。
 その代わり、梓に言わなきゃいけないことがある。

「梓!」
 改札を抜け、ホームに向かおうとしていた梓が振り返る。
「耕一…」
 走りよってくる梓。俺の目前で、俺の言葉を待っている。
「梓、受験…がんばれよ。本当に、がんばれよ」
 それだけ言って、俺は…軽く梓にキスをした。
 一瞬あっけにとられていた梓。その顔にいくつもの表情が浮かんでは消える。
 そして、最後に残った表情。
 満面の笑顔だった。
 そして一声。
「頑張るよ。耕一、あたし、頑張るよ!」
 
 
  七

 叔父様、お話することはこれで全部です。
 梓はどうも、耕一さんとおなじ大学に行きたいみたいですね。

 それでひとつだけ、叔父様にお聞きしたいことがあるんです。
 私達柏木一族の「血の宿命」は、まだ耕一さんも梓も知りません。
 どうしたらいいんでしょう?
 私はあの子たちに、一族の責任をどう伝えればよいのでしょうか?


 …ええ、本当はもう分かっています。
 何故、「鬼の血」を引かない母が、父と共に死ぬことを選んだのか。
 八年前の私は、その事実を知ったときに母を恨みました。
 叔父様への感謝と引き換えに…。

 そんな私を、叔父様は責めはしなかった。同意もなされなかった。
 そんな理由、なんとなく…分かる気がします。
 
 そして、こんな呪われた一族が絶えることなく、これまで脈々と続いてきた理由も。

 だから、いつか耕一さんと梓がいっしょになる、そう決心したときには、私はすべてをあの二人に打ち明けます。
 それがあの二人に、最大の障害になることは間違いないでしょう。
 でも、梓は強い娘です。
 きっと耕一さんを支えてあげられるはず。

 八年前に突然両親を失って、親代わりの叔父様は私や楓や初音がとりまいていて。
 それでもあの娘はあんなに成長しました。
 そんな梓なら、きっとできるはずです。
 私がもうずっと前に諦めた生き方を貫くことが。


 ごめんなさいね、叔母様。
 せっかく一緒にいらっしゃる叔父様を、また横取りしてしまって…。

 今日はこれくらいで帰ります。
 また、なにかあったら報告に参りますね。叔父様、叔母様…。



 長らく墓の前に座っていた女性が立ち上がる。
 その表情には、もう迷いはなかった。

 墓地からの出口で、女性はもう一度立ち止まって振り返る。


 千鶴は、おだやかに微笑んだ。


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