春、うららかなる刻
                    Leiji     




  一

 ジーンズのポケットから財布を取り出す俺。
 お袋が生きていたころに買った財布。もう小銭入れのファスナーも堅くなってしまっている。
 なんとかその中から、黄色に鈍く光るコインを一枚取り出す。
「あれ、あたしのは?」
 言わずもがななことを聞いてくる、俺の隣の梓。
「おいおい、これくらい自分で払えって。他人のカネで願掛けしたって、ご利益ないと思うぞ?」
「うーん……、耕一にしてはいいこと言う。うん、そうだそうだ」
 そんなことを言って、梓はちょっと舌を出す。そして自分の赤い財布から、五円玉をつまみ出した。
「じゃ……」
「うん」
 うなずきあって、二人で同時に賽銭箱にコインを投げ込む。
 そして色あせた紅白だんだらの綱を二人してつかみ、二・三度それを揺らした。
 がらがらと、ろくに響かない金属音が鳴る。
 
 ぱん、ぱんと二度、俺は拍手を打つ。
 目を閉じる俺。となりで一拍遅れて響く音。
 しばらくそのままで、いくつか浮かんだ願い事を心中でつぶやく。
 最後に、一番大事な願いごとをもう一度。
 梓が……、合格していますように。

 もう十分祈り飽きたと思ったあたりで、俺は目を開ける。
 となりの梓に視線をやれば、ややヒマそうな視線にぶつかる。
 どうも俺が、長々と願掛けをしすぎたらしい。
 なんとなくばつが悪いような気がして、照れ隠しに笑みを浮かべる俺。
 そんな俺に、やはり軽い笑みで応える梓。
 ここは俺の大学への道の途中の、寂れた小さな神社。
 彼女の受験当日の朝にも、ひとりで願掛けしておいたのはまだ内緒にしてある。
 
 俺の通う大学を、梓は受けた。
「俺のそばにいてくれる」ということを望んでくれたんだな、とは思う。 そう考えると彼女の大学選択
は俺にとっては結構面映いことなんだが、正直言って嬉しいといえば嬉しいことだ。
 そして、梓は家もなるべく俺のウチの近くを選んでくれるつもりのようだ。
 昨日の夜も、そう言って俺に抱きついてきたっけ……。 こんなに感情をぶつけてくるような奴だった
とは、ちょっと俺も意外だとは思う。
 いや、梓と一緒に一日を過ごすたびに、俺が「新しい梓」を見つけていると言ったほうがいいのか。
 今になって考えると、初めてこいつと会ったガキンチョのころ、一緒に風呂に入るときまでこいつが女
だと気付かなかったのが嘘のようだ。
 そして、「例の事件」(梓のためにも、あまり思い出したくはないことだ)までの「男女の区別無いケ
ンカ友達の関係」でこいつを見ていたことも、どこか嘘だったようにすら思えてくる。
「例の事件」をきっかけに、俺と梓はいわゆる「カレシカノジョ」の関係になった。 
 お互いの関係が一線を超えたのは、彼女にしてみれば最悪のかたちではあった。 だからすべての事件
が終わったあと、俺は彼女に訊こうと思っていた。
「元の関係にもどりたいか」、と。
 けれど、結局その言葉を俺はまだ口にせずに済んでいる。
 梓は、俺を拒まなかった。いや、受け入れてくれた。
 あの事件のあと、二人で迎えた最初の夜に、梓は言った。
「あたしのことは気にしなくていいから。あたしのことで耕一を縛りたくない、耕一の好きなように、結
論出してほしい。忘れろって言うなら……、それでも……」と。
 ヒトとして、いちばん大切な「部分」を踏み荒らされ、自分の心中も吐露してしまって、それでも真顔
で俺のことを気遣ってくれる、梓。
 そんな彼女に応えようと、俺は素直に彼女のことばを聞いた。
 そして素直に、自分の心の求めるところに従った。
 始まりの酷さよりも、手に入れられるところのものの価値を優先しよう、と。
 そうして俺と梓の関係は、一歩進んだんだ。

「高校を卒業したあとは隆山から出よう」と、前々から公言していた梓だったけど、それ以降彼女は明ら
かに変わった。
 結構モノになっていた陸上での進学の誘いもないことはなかったのを、みな振り切った。
 ちょっと志望校のレベルを上げた。
 妙にピンポイントに、大学の下調べを始めた。
 もちろん(こういう言い方も、ちょっと独り善がりっぽくて気がひけるんだが)、その意味するところ
はひとつ、だ。
 これからの人生を、できるだけ俺のそばで送ることを選んでくれている。
 ついでに言うと、以前だったらけっこう本気でケンカしていた(ように見えた)千鶴さんに対しても、
ちょっと妙な余裕を見せてるようにも、……思えたりするんだが。

 かくして梓は受験に臨んだ。
 それが二週間前のことだ。
 そして、今日がその合格発表の日。

  二

 大学までの道のりは、電車を乗り継いで大体30分弱。
 前に二人で下見に行ったときは、隣に座ろうとして照れる梓が拝めたのを思い出すが、今日はその電車
もけっこうな混雑ぶりだ。
「耕一、今日はちょっと混んでるね」
「ああ、この間よりは時間早いし、それに見た感じ……」
 そこで俺は周囲を見回してみせる。
「いかにも受験生くさい連中が多いからな。あらかた、俺たちと同じ用事で乗ってるんじゃねーか?」
「あ、やっぱり?」
「おう。ぱっと見で分かるだろ?」
 しかし、
「うーん、ちょっとあたしにはわかんないや」
 と、梓は首をかしげる。
「ふ、まだまだ青いな。あそこのふたりなんか……」
 俺があごで指し示す先には、一組の男女。
「……二人で手をつないで、妙に緊張してて目が泳いでる。付き合い始めたばかりのカップルにしては、
はっきり言ってなれなれしすぎるし、かといって手を繋いでるだけで緊張するほど、相手に慣れてないわ
けでもないみたいだ。多分俺の察するところ、二人そろって受験したクチだな」
「……他人の分にはやたらと細かいね、耕一」
 調子に乗ってあることないこと吹いていた俺への梓の視線は、いつの間にかけっこう冷たくなっていた
りする。ちょっとせきばらいしてごまかす俺。
 梓は二人を見ながらつぶやく。
「どっちも受かってると……、いいよね」
「ああ」
「きっと、『一緒に合格しようね』って言って、二人でずっとがんばってきたんだろう、って思う。どっ
ちも落ちてたらショックだろうし、もしどちらか一方が落ちてたら……」
「……」
「……せっかくいっしょになれるって、頑張ってきたのに……」
 そういう梓の横顔にも、微妙な緊張が浮かんできている。俺は梓の手をとった。
「落ち着けよ、梓。他人は他人、お前はお前だ」
「うん……」
「もう試験なんか、とっくの昔に終わってるんだしな。ぱーっと掲示見て、でもって受かってりゃよしだ
し、落ちてたらそのときはそのときで後期に賭けりゃいいんだから……」
「うん……」
 梓のあいづちにも、いつもの元気がない。
「やるだけのことはやった、んだろ?」
「う、うん……」
「自信、ないのか?」
「ううん、そんなんじゃなくて……」
「じゃ、もうちょっと元気出したらどうだ? 緊張してどうこうなるもんじゃないだろ、もういまさら。
コドモじゃあるまいし、抱っこしてもらわないと落ち着かないってんじゃ……」
「お願い」
「……って、おい」
 正直、梓のこの言葉にはちょっと驚いた。
 普段のコイツはもっと強気だとか、こんなに簡単に緊張しないとか、そんな次元のレベルの話でも驚い
たことは驚いた。
 ただ、俺が驚いたのはそれだけのことではもちろんない。
 梓が、これだけストレートに俺に甘えてきたこと。俺を驚かせたのはむしろそっちのほうだった。
 ちょっと考えてみると、俺は梓に頼りっぱなしだ。
 受験のためにコイツが上京してきてから、梓の健康管理をしてやる……どころか、俺のほうが食事の改
善というメリットを享受してるし、ふだんは高い電話賃を恐れて手短に切り上げるしかないおしゃべりも、
コイツが俺の手の届くところにいるおかげで、思う存分できた。そしてそれに加えて夜のお楽しみまで…
…あわわわわ。
 ともかく、俺が梓にしてやれたことなんて特に思いつかないのに、いま、こうして梓は俺に甘えてくれ
ている。それが俺には意外で、そして……正直、嬉しかった。
 自分の言っていることが、どこかつじつまが合わないことは分かる。梓が俺のところに来たことが、梓
の受験にとってプラスになったとはとうてい思えない。それなのに梓が俺に甘えてくるわけで、それはつ
まり……。
 そこまで胸中で考えが言葉になったところで、俺は梓を抱き寄せた。
 目を閉じて、俺に身を預けてくる梓。世間的に見れば「バカップル」もいいところなんだろうけれど、
俺にとってはそんな世間の目などどうでもよかった。
 見たけりゃ、勝手に見ろ。それ以上に、俺が梓を落ち着かせてみせる。
「耕一ぃ……」
「なんだ?」
「あのね、もし落ちてたら……」
「安心しろ、何年でも待っててやるから」
「……うん」
 そんな、他人に聞かされるとこっぱずかしいやりとりも、周囲の人間には聞こえやしない。
 ここは俺の別世界、なんだからな。

  三

 目的の駅を出て、ちょっと歩けばもう大学の校門だ。
 守衛所前を通り抜けた目と鼻の先にやたらたくさんの人間が集まっているのが、まだ校門をくぐってす
らいないこの位置からでもはっきりと分かる。
 電車の中からずっとつないでいた手。その手に、わずかに力がこもる。
 俺は梓に、落ち着いたか、と声をかけようとした。
 その機先を制して、梓が俺に向き直る。
「耕一、行こ」
「……ああ」
 相変わらず、つないだ手には力がこもっている。けれど梓は立ち止まらない。俺の手を引くかのように、
やや大股で人ごみに向かっていく。
 ちょっと遅れかけた俺に、振り返って微笑む梓。
 応えて俺もちょっと笑みを返す。
 そして俺たちは、人ごみのなかに足を踏み入れていった。

 梓の受験番号は56489。先頭の数字で学部が分かる。
 そして、5から始まる数字がならんだ板の前に、もみくちゃにされながら俺たちは進む。
 俺の前の奴が、一人、また一人と人ごみを抜けていく。
 その顔に浮かんでいる表情は、すれ違うときの一瞬だけでも充分分かる。一目でわかる喜びか、それと
も一目で分かる絶望か。
 暗い顔をした奴らは、そのまま力なく校門を出て行く。一方、嬉しそうな顔をした奴の回りには、あっ
という間に体育会系の連中が集まってくる。そしてあちこちで始まる(半強制)胴上げ……。
 せめて、梓の表情が曇ることだけは……あってほしくない。
 贅沢な願いかもしれないが、俺は本気でそれを思った。
 内心その言葉を繰り返しながら、俺は掲示板の番号を目で追っていく。
 59472、476、482、486、491……。
 数えていく数字は、一瞬でその「番号」を飛び越えていった。
 あまりに……あっけない結末。
 頭から、血の気が引いていくのが自分でも分かってしまう。
 目の前がかすんできた。視点が定まらない。抑えようとしても、手がどうしても震えてしまう。
 俺のために、梓はこっちに来ることを決めてくれたのに……。
 あんなに、俺は梓が合格してくれることを願ったのに……。
 梓も、合格して俺と同じ時間を過ごすことを望んでくれたのに……。
 目の前がどんどん暗くなっていく。
 どんどん、どんどん……。

 ちょい、ちょい。
 ずっと握りっぱなしの俺の手が、だれかに引っ張られる。
 もちろんその相手は、人ごみの中の梓だ。
「こういち、どこ行くんだよ?」
「……あ、梓……」
「耕一? どうしたのさ?」
 ダメだ。事実をまだ知らない梓。俺と過ごす未来を夢見てくれた梓。
 コイツに残酷な現実を告げることなんて、俺には……できないよ。
 まずい、俺の方が涙出てきた。
 こんなんじゃ……隠しとおせるわけがない。
 いや、隠してどうする、俺。
 コイツのことが好きなんだろ。だったら、本当のことを言えないでどうするよ。
 言うんだ、俺。
 そして、そのあとで言ってやらなくちゃいけないんだ。
 いくらでも待っててやる、と。それが俺の、柏木梓を好きになった俺にできる、たった一つのことで……。

「耕一、確かめてよ」
 ……は?
「あたしさ、ほら、今さ、ちょっと……むちゃくちゃどきどきしててさ、きちんと数字数えられたかどうか、
ちょっと自信ないから……。耕一も確かめてほしいんだ、あたしの番号」
 そうか、見てしまったのか。
 しかたがないよな。これも時の運だ。でもまだチャンスはこれで終わりってわけじゃなくて……。
「こっち、こっち……」
 人ごみの中を、俺は梓に手を引かれて力なく進んでいく。
 進んでいく。さっき俺が確認した番号のあるあたりを……あっさり通過して、さらに先のほうへ。
「あ、……あれ?」
 とまどっている俺。俺を引っ張ってきた梓は、もうすこしだけ人ごみを抜け、そこで止まった。
「ほら、あそこ。564の列……」
「……」
「ね、ど、どう? あたし……」
「う、」
「う……」
「「受かってる」」

 56489。確かに、梓の受験番号だ。

「う、受かってるよ、梓!」
「通ってるよね、耕一!」
 受かってる。梓が受かってる。
 俺は梓の手を引いて、人ごみから抜けだした。
 守衛所の前まで戻ったところで、俺は梓と顔を見合わせる。
 白い肌にほんのりと紅がさしてきている、梓の頬。理由は人ごみでもみくちゃにされたから、だけではない
のは、言うまでもない。俺も、心臓の鼓動が早くなってきているのが分かる。きっと俺の頬も、梓のそれと同
じように心中を映しているのだろう。
「耕一……」
「梓……、おめでとう。これで、ずっと……一緒だな」
 高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、俺は前から言ってやりたかった言葉を口にした。
「……ありがとっ!」
 強く言い切って、俺の首に飛びつく梓。受け止める俺。
 と、いつのまにか体育会の連中が、俺のとなりに来ていた。
「どうでした?」と、結果を尋ねてくる。
 俺はその問いに、にやりと笑い、親指を立てた。その瞬間、連中が歓声を上げる。
 そして、その声と入れ違いにかかる「胴上げ」コールの連発。
「え、え、え……?」
 戸惑っている梓。
「胴上げだよ。やってもらえって」
「え、う……うん。オネガイシマス」
 と、梓が口にするや否や、連中は梓を抱えあげて胴上げを始める。
 一度、二度、三度、と彼女の身体が宙を舞い、そして連中の拍手と祝福の言葉。
 ひととおり終わったあと、さすがにちょっと照れて、梓は俺のところに帰ってきた。

 と、連中はさらに俺の周りをも取り囲む。
「え、その、俺は」
 在学生だから、と言おうとした俺を制して、連中の一人が梓に話しかける。
「ね、彼は?」
「へへ、……彼氏、です」
 照れまくりながら、馬鹿正直に答える梓。
 そしてその答えを聞くや否や、連中は歓声をあげて……、俺を、胴、上げ、しはじめやがった。
「いやだから俺は在校生……」
「幸せもん、幸せもん!!」
 なんだか、胴上げ中のコールにも微妙な悪意がこもっている気もしないでもない。
 二度、三度、四度、と宙に跳ね上げられる俺。
 梓に目をやれば、そんな俺の状態を見て無邪気に笑ってやがる。
 まったく、もう。

  四

 数時間後、再び俺の部屋。

 がちゃ、と音を立てて、梓が受話器を置く。柏木家で吉報を待っていた、初音ちゃんへの報告が済んだよ
うだ。
「お、終わったか?」
 ベッドに腰を下ろしている俺は、電話のある玄関口に声をかけた。
「うん」
 部屋に入りながら、梓が答える。
「なんて?」
「ん、楓も初音も、おめでとう、って」
 そういいながら、俺のとなりに腰を下ろす梓。
「そっか……。千鶴さんは?」
「千鶴姉はまだ仕事。でも言伝はしといてくれるって、さ」
「そっか……」
 そのことばを口にして、俺は後ろに身体を投げ出す。
 一瞬遅れて、梓も俺のとなりに身体を投げ出した。
 寝転がりながら顔を合わせる俺たち。
 俺を見つめる梓、その口元にちょっとした愛らしさを感じた俺に、自然と笑みが浮かぶ。
 そしてその笑みに、梓が笑みで応える。
 昨日までの、どこか追いつめられたような切迫感を持つ笑みじゃない。
 本当に、素直に浮かぶ微笑み。
 いろんな表情がある梓。その中でも、俺が一番好きな表情だ。
 どちらからともなく、相手の身体に腕を伸ばす。
 そして……、ただただ抱きしめあった。

 ぽつりと、俺の腕のなかの梓がつぶやく。
「これで、一緒だよね」
「ああ、この街で暮らすんだ。……梓と一緒に、な」
「うん……」
「嬉しいか?」
「嬉しいよ。耕一は?」
「俺も……、梓がそばにいてくれるのが嬉しい」
「……」
「……」
 しばらく、お互いに言葉はない。
 あいての身体のやわらかさとぬくもりを、単純に感じ合う。それだけの時間。

 眠気とすら勘違いできそうな、この深い安堵の感情に包まれながら、俺たちはずっと抱き合っていた。
 半分眠ったような梓、半分眠ったような俺。
 そして、その意識のかけらのなかで、梓は言った。
「な、ずっといっしょだよな……」
 俺も、もやのかかった意識で応える。
「ああ、ずっと、ずーっと、いっしょにいようぜ……」

 その言葉がほんの数ヶ月後にまったく別の意味で思い出されてくるとは、俺も梓も思ってはいなかった。
 ただ、ふたりがずっと一緒にすごすこと、そのことだけをずっと考えていた。
 ひとつの山を越え、目前に迫っていたさらなる山の存在にも気づかずに、ひたすら互いを求め合いながら。


                                      (続)


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