栞のお絵描き
「あれは私が幼稚園に通っていた頃のことでした………」
その日私は、風邪で幼稚園を休んでいました。寒くなるとよくあることでしたが、年長組になっても慣れることはありませんでした。自分の思い通りにならない体を歯がゆく思ったものです。
前の年までは、私が休むときはお姉ちゃんも一緒に休んで家に居てくれたので、全然寂しくありませんでした。本を読んでくれたり、ベッドで一緒にトランプの相手をしてくれたりしたからです。でもその年からお姉ちゃんは小学校に上がったので、そう簡単に休めなくなっていました。お父さんもお母さんも働きに出ていたので、私は一人で退屈でした。テレビは面白い番組をやっていません。本も読めない字が多すぎて諦めました。いざ寝ようと思っても、さすがにずっと寝ているので目が冴えています。
外は風が少し寒そうだけど晴れていて、しかもゆうべ降った雪がたくさん積もっています。幼稚園では雪だるまを作ったり雪合戦をしたりしているでしょう。それを思うとなんだか悲しくなってきました。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴りました。とてもゆっくりと、です。「ピーーーーンーーーーポーーーーンーーーー」ぐらいだったでしょうか。でも、私は玄関を開けるつもりはありませんでした。お母さんから、「お昼に訪ねてくるのはセールスの人くらいだから相手にしなくてもいいわよ」と言われていたからです。それに、時刻は昼の1時半でした。友達はまだ幼稚園にいるはずです。やっぱりセールスの人でしょう。
その呼び鈴はもう1度鳴りました。前のときと同じスローペースです。ですが、私が出ないでいると、もう鳴ることはありませんでした。
自分がドアを開けなかったくせに、そのときになって私は少し寂しく感じました。でも、もうどうしようもありません。私は再び無理に寝ようとしました。
すると今度は、もっと驚くことがありました。私の部屋の窓を誰かがノックするのです。私の部屋は一階にあるので、さっきのお客さんがこちらにまわってきて私を見つけたのでしょう。もう居留守はできません。私は困ったような嬉しいような、複雑な気持ちで窓に向かいました。ストーブで白く曇った窓を手で拭うと、そこにあったのは意外にもよく知った顔でした。
「先生!」
そこにいたのは幼稚園で年長組の担当をしている澤田先生でした。澤田先生は今年から幼稚園の先生になった女の先生です。幼稚園では私たちと一緒に遅くまで遊んでくれるので、年長組だけでなく、年少組の子たちからも人気がありました。先生はメガネを掛けているので、ボール遊びのとき、よくメガネを壊しています。今年になって、もう3つも壊れました。だんだん地味なメガネに変わっていくのは、お金が足りなくなるからだそうです。でも、先生はそのことで怒ったことがありません。
先生はふかふかしたコートを着ていましたが、それでも吐き出す息は真っ白でした。私は慌ててベッドから起きあがり、窓を開けます。
「こんにちは、栞ちゃん」
「あ…こんにちは…」
寒さを気にしていないかのような先生に、私はなんだか普通すぎる挨拶を返します。
あ、さっきは居留守を使ってしまいました。そのことを謝らなくてはいけません。
「先生、さっきのチャイム…」
「あ、やっぱり変だった? 栞ちゃんを起こしたくないし、でも玄関も開いてないから、ゆっくりチャイムを鳴らしたんだけど…」
先生は少し勘違いしたみたいです。さっきのチャイムが少し変だったことを慌てて説明してくれます。でも、よく考えてみると、チャイムを鳴らしたら結局同じことだと思います。先生もそれに気づいていたのでしょう二人で笑いあいました。
「大丈夫です、起きてましたから」
「あ、ほんと? 良かったわ」
先生は本当にほっとしたようでした。
「そうそう、栞ちゃんの様子を見にきたのよ。具合はどう?」
「あ…だいじょう…くしゅんっ!」
音を立てて部屋になだれ込む外の空気を吸い込んで、私はくしゃみをしてしまいました。
「あ…ごめんなさい。私が病気を重くさせちゃダメよね。えっと…上がってもいいかしら?」
「はい。えと、じゃあ玄関の方に…」
「よいしょ…っと」
先生はそこで靴を脱ぎ、窓から直接部屋に入ってきました。メガネがあっという間に曇って、真っ白になります。
「ちょっとお行儀悪かったかしら? でも、この方が早いでしょう?」
「はい!」
私がよくやる方法で先生が部屋に入って来たので、なんだか嬉しくなりました。いつも「ちゃんと玄関から入りなさい!」と言うお母さんに見せたら、どう思うでしょうか。
澤田先生は入ってきた窓を閉めて、こちらに向き直りました。
「さっきはごめんなさい。これでもう寒くないわよね?」
「あ、そこの椅子に座ってください…」
そう言いながら私もベッドに戻り、腰から下だけ布団に入れます。
「ん? どうかした?」
少しくちごもる私に、先生が尋ねました。
「幼稚園はもう終わったんですか?」
「ああ、そのこと? 大丈夫、サボったわけじゃないのよ。今はお昼寝の時間だから、幼稚園のみんなはちょっと他の先生に見ててもらってるの」
「あ、そうか…」
確かに今はお昼寝の時間です。
「園長先生から、栞ちゃんは去年も少しお休みが多かったって聞いてたから、ちょっとだけ心配したのよ」
「あ、はい、冬になると特に…。でも、今日はもう大丈夫です」
「そう? まだ少し顔色が悪いけど」
自分ではよく分かりませんでした。
「…ってね。私はお医者さんじゃないし、自分も元気が取り柄だから病気のことはあんまり分からないんだ」
「……うらやましいです」
「え?」
私はずっと体が弱かったから。寒い日に外に出ることも出来ません。このまえテレビで「おきなわ」という所に住んでいる子供たちは雪に触れたことがありません、と言ってたけど、私も同じです。ガラスの外は雪で埋まっているのに、私には雪だるまを作ることも雪合戦をすることも無理です。
「あ…ごめんなさい。ちょっと…調子に乗っちゃったみたい」
いつも笑顔の先生が少し落ち込んだ様子でした。
「あ…全然気にしてませんから…えっと…」
「あ、あの、私のほうこそ余計なこと言って…」
なんだか2人ともおろおろしてしまいます。二人とも言葉に詰まったあと、なんとなく目が合ってしまいました。
「……」
「……」
先生も私もひどく気まずくて。恥ずかしくて。だから、二人とも少し笑ってしまいました。
「ふふ、何やってるのかしらね、私たち」
「何やってるんでしょう」
重い空気がちょっとほぐれた気がしました。先生が大きく息を吐き出します。
「…話を戻すわね。栞ちゃんのお体のことだけど」
「はい…」
「私思うんだけどね。体は丈夫な方がいいし、病気を治すのは大事なことよ。でも、そのことばっかり考えてるのも辛いんじゃないかしら」
「…?」
「病気を治そう治そうとしてると、栞ちゃんが追い詰められちゃう気がする」
先生の言いたいことは分かります。お父さんもお母さんもお医者さんも、『もっと気楽に考えなさい』と言ってくれます。でも。
「でも、でも。私はお姉ちゃんと雪だるまを作りたいです。幼稚園のみんなと雪合戦したいです」
「うん。そうやって今手に入らないものを追いかけるのも大事。でも、いま目の前にあるものを好きになるのも大事なの」
「…?」
先生の言うことは少し難しくて、私にはよく分かりません。
「たとえばね、これとか」
立ち上がった先生は、私の枕元にあるスケッチブックを手に取りました。
「栞ちゃん、絵を描くの好きなのよね」
「…はい…」
「外に出て遊ぶ人は、雪だるまを作ったり雪合戦したりできる。でも栞ちゃんは、ここから雪が積もったお庭を見て、絵に描くことができるでしょう?」
「はい、でも、私下手だから…」
先生はにこっと笑いました。幼稚園のみんなが大好きな笑顔です。
「そんなこと気にしなくてもいいと思うわよ。だって、みんなが雪だるまを作るのも雪合戦をするのも、上手だからするんじゃなくて、好きだからするんだもの」
そう言えば、雪だるま作り名人とかプロ雪合戦とか、聞いたことありません。
「良かったら、今度先生を描いてくれると嬉しいな」
「はい、お願いします」
「こちらこそ。できるだけ美人に描いてね」
「こんな話です」
栞の長い話が終わった。
よく晴れた春の午後。俺たちは二人で公園にいた。
「いい話だな。感動したぞ」
「台詞が棒読みです」
「そんなことないぞ」
「…本当ですか?」
それは確かだ。子供の頃の栞がどうだったか少しだけ分かったし、話に出てきた先生も良い人だと思う。思うのだが。
「で、それがきっかけで絵がもっと好きになったんだろ?」
「はい」
「それで、話の最後に約束してた先生の絵、ちゃんと描いたのか?」
「もちろんです。とても喜んでくれました」
栞が嬉しそうに話す。顔はさっきの『回想モード』だ。
「で、栞の絵はその頃から進歩を止めたんだな」
「そんなことないです。日々進歩してますよ」
「…そのペースで進歩すれば、30億年ぐらい後には世界一の画家になれるぞ」
「祐一さん、嫌いです」
言いながら栞もくすくす笑っている。怒ってはいないようだ。
「じゃあ、休憩は終わりにしましょうか」
…と思ったら、すぐに反撃が来た。
「なあ栞、もう止めないか? その描きかけの絵、さっき見せてもらったが、どうやっても人の形にはならないぞ」
「大丈夫です。これから仕上げですから」
「ほら、あそこの店でアイスでも買ってこないか」
「さあ、元の位置に座ってください。今度は動かないでくださいね」
話がかみ合っていない。…わざとだとしたらなかなかの腕前だ。
「安心してください。あと2時間ぐらいあれば完成します」
どうやら、あくびもくしゃみも許されない拷問はまだ続くようだ。
澤田先生、顔も知らんがとりあえず恨んでやる。
【あとがき】
「澤田先生」のイメージは、天野こずえさんの漫画から拝借しました。
キャラクターは少し変わりましたが。