a making of vampire
松本 裕太
23時30分。
仕事帰りの人間も普段より数段少なく、まして千鳥足のサラリーマンなど皆無だ。みな周囲に疑わしげな視線を向け、だが決して他人と視線を合わせず、俯きがちに歩いていく。
殺人犯が我物顔に闊歩するという事実は、街だけでなく、そこに住む人の心も変えつつある。
その数少ない通行人に交じって、1人の少女が歩いている。近くにある高校の生徒だということは、その制服で分かる。
警察からすれば不用心極まりないことで、家に帰るよう注意した警察官も、この数時間で1人や2人ではない。
だが彼女は、そんな忠告を柳に風とやりすごし、今に至っている。
足取りは確かで、だが目的地もなく。
瞳には強い意志が宿り、だが視線は彷徨い続ける。
この夜、弓塚さつきが9人目の犠牲者とならなかったのは、果たして『幸運』と呼べるのだろうか。
志貴と別れてその視界から自分の姿が消えるまで、さつきの自制心は続いた。逆に言えば、路地を曲がってしまったとき、彼女の緊張の糸が綺麗に切れた。
灰色のコンクリート塀にすがりつき、それでも自分の身体を支えられずに、彼女はアスファルトにへたり込んだ。数秒遅れて倒れるかばんの音を、ひどく遠くのように感じた。
『そうだね。俺に出来る範囲なら、手を貸すよ』
ただ、その言葉だけが近かった。
遠野志貴は、その綺麗な顔立ちと誰にでも分け隔てなく優しい態度で、中学でも高校でも男女を問わず人気があった。堅苦しい優等生でもなければ、目立った反抗をするわけでもない。文化祭や体育祭では変な企画も立てるが、日常の授業は真面目に受けている。
彼はいつも自然だった。どこに居ても違和感がない、暖かい空気のような人間だった。
教師も生徒も、育ての親ですら、そんな彼に疑問を抱かなかった。
たった2人、友人である乾有彦と、弓塚さつきを除いては。
最初は、どこにでもある片想いだった。
さつきはただ、その内気さ故に何の行動も起こせず、クラスメイトとして志貴を見ているだけだったし、志貴はそれまでどおりの志貴であり続けた。
だが、やがてさつきは気がつく。彼が、異常なほど自然であることに。
人の手が届かない密林。踊るような大砂漠。広大な草原。
現代社会に住む人間が、それを『自然』と感じるかどうか。人工物に慣れきった目に、それはかえって不自然なものとして映るのではないか。
中学の理科の時間。プリズムを使って光を曲げる実験を行ったとき、さつきは志貴を思い出した。
志貴は透明な結晶の中に居る。
外には綺麗な姿を映し出すけれど、それは光を捻じ曲げた結果として現れる虚像だ。
その中の本当の姿に触れているのは、彼のもっとも近しい友人である有彦だけだった。
だから、彼女は見つめ続けた。その完璧な結晶に、わずかな傷がないかどうか。自分が入っていける隙間がないかどうか。
阻まれていた彼女の気持ちが動き出したのは、その『傷』を――正確には『傷』の噂を――聞いたからだった。
『…遠野志貴が深夜の街を歩いている…』
噂好きの女子生徒の間で広まった、信憑性のない話。殺人鬼が闊歩する状況を考えれば、まずあり得ないこと。
だが、さつきはそれにすがった。
深夜の街を歩く志貴は、プリズムの中の本当の志貴かもしれないと思ったから。
昨日、さつきは夜の彷徨を始めた。
殺人事件を恐れる気持ちは、完全に消えていた。
結局は志貴を見つけることが出来なかったけれど、ほんの少しだけ志貴に近づけた気がした。
今日は声を掛けることが出来た。
挨拶以上の言葉を交わすことが出来た。
一緒に帰り道を歩くことが出来た。
そして、約束。
「あ…はは…ははは……」
道路に座り込み、さつきは笑っていた。志貴のことを思って涙したことがある。その涙に酔ってしまおうとした自分自身を切り刻みたくなったこともある。だが、笑えたことは初めてだった。たとえその笑みが、彼女の側を通り過ぎる年若い主婦の恐怖を誘うようなものだったとしても。
「はは…あは…」
鼓膜の側でリフレインが響くなか、彼女は立ち上がる。その瞳の色は変わらず常軌を逸していたが、注意深く見れば気づけた者がいるかもしれない。泥の中に光る宝石のような、微かな光。
「行かなきゃ……志貴くんのところに…」
彼女は中断された帰路を歩みだす。だがそれは、いつもの習慣を反復しているに過ぎない。最後の目的地が自身の家などでないことは明らかだった。
24時。
繁華街からやや外れるこの街では、駅前のファーストフード店などを除いてネオンすら眠り始める時間だ。まして今は、8人もの人間を手にかけた猟奇殺人犯が闊歩している。普通の者なら、1人で出歩こうなどと思うはずもない。
普通の者なら。
日が落ちてからの数時間を1人で彷徨うこの少女は、既に『普通』とは言い難い。
弓塚さつきの姿は、
「遠野くん…どこ……?」
弓塚さつきが町をさまよい始めて、既に6時間が経過していた。彼女がすがるのは、女子生徒の間の噂話だけ。
だが彼女はそれを信じた。志貴自身も、彼女の理性もそれを否定していたが、それでも彼女は信じていた。『考えること』と『信じること』の境をあいまいにしたまま、彼女は歩いた。さすがに肉体の疲労までは隠せないが、瞳だけは逆に輝きを増しつつあるようだった。
「遠野くん……遠野くん……」
「…………呼んだかい?」
大通りを過ぎ、小さな路地に差し掛かったとき。
そばを通り過ぎるサラリーマンすら気に留めない微かな囁きに、はるか後方から答えが返る。その事実に違和感を覚えることもなく、彼女は喜色満面で振り返った。
「遠野くん?」
だが。
そこにいたのは、年の頃こそ遠野志貴と似ていなくもなかったが、容姿も体格もまったくの別人だった。
和服の男性を見慣れていない彼女は、白の着流しに身を包むその青年の姿を、かつて見た祖父の死装束のようだと思う。
「あなた…誰…?」
不審そうな表情を隠しもしないさつきに、その少年は答える。
「ひでえなあ。今、あんたが呼んだから『出てきた』んじゃねえか。トオノシキ、ってな」
「違う。遠野くんはあなたじゃない」
「……おいおい。俺が『トオノシキ』じゃなかったら、いったい誰だって言うんだよ」
芝居がかった様子で両手を挙げ天を仰ぐ。
「知らない。でも、私が探している遠野くんはあなたじゃない」
無表情に話すさつきは気づかない。目の前にいる人類の天敵、食物連鎖の上位者を絶望的なほど怒らせてしまったことを。
「………」
「じゃあ、私は行くから」
「……待てよ」
夜を震わせる低い声。さきほどまでの軽い口調から一変したその声は、『言語』という形をした咆哮だった。
「………」
遠野志貴に囚われた彼女の理性は、いまだに働かない。ただ、人間という種に残された最低限の本能が、彼女に危険を告げていただけだった。
あるいは、それは幸せなことだったかもしれない。振り返った彼女に捕食者が飛びかかり、僅か数秒で自分が変質していく過程を直視せずにすんだのだから。
「……きろ…」
「……」
「…起きろ……」
毎朝毎朝、一日の始まりを告げる母親の呼びかけとは正反対の、冷ややかな声。だが、さつきは目を覚ます。新しい朝を、受け入れる。「…はい……」
シキは目を丸くする。自分で呼びかけておいて驚くのも妙な話だが、これは無駄と分かってもやめられない習慣のようなものだから仕方がない。
むしろ、彼に血を送られてすぐに目を覚まし、まして返事までする人間が居るとは思わなかったからだ。
「マジかよ……」
「……」
「返事ぐらいしろよ」
「…はい……」
「いや、『はい』だけじゃなくてだな…」
「……?」
瞳に力はなく、口はだらしなく開かれたまま。起き上がったとはいえ、今のさつきは意志が回復していない。ただ主の言うがままに動くだけの、文字通りの人形だった。
それに気づいたシキは、ある尋問を行う。人外の血に異常なほど適性がある、この新人吸血鬼に興味を持って。
「おい、お前…えっと…名前は何だ?」
「さつき………弓塚さつき…」
「よし。…さつき、お前に聞きたいことがある。お前、遠野志貴の知り合いか?」
「はい」
今まででいちばん素早く、答えを返す。
「どういう関係だ? 友人か、それとも恋人か?」
「……いいえ。ただの…クラスメイト」
シキがその言葉に悲しみの色を感じ取るのは、ただの気のせいか。
「そうか。で、クラスメイトがどうして志貴を探してたんだ?」
「遠野くん…夜になると街を歩いてるって…聞いたから…」
「…答えになってねえぞ。それでどうしてお前が志貴を探さなきゃならないんだ?」
「……遠野くんの…彼だけの…世界を……知りたかった…」
漠然とした答えに、シキは考え込む。だが、先刻のさつきの様子を考え合わせれば、答えは明らかだ。
シキは幼くして日常の世界から隔離されたため、子供が持つ単純な喜怒哀楽の感情だけで生きてきた。齢相応の微妙な感情は持ち合わせてはいない。だが、さつきの気持ちについては、そんな自分の中にも答えがあった。
恋慕。
どれだけ欲しても決して手に入れられない、遠い遠い相手への思い。
「…そうか…そういうことか…」
納得し、少し不満そうな表情を見せる。
一方さつきは、質問が途絶えたその時間を解放と受け取ったのか、シキに背を向けて立ち去ろうとする。
「おい。どこに行くんだ」
「…遠野くん。探さなきゃ」
後悔する。答えの分かりきった質問を投げかけたことを。
「俺は……てめえを好いたヤツをけしかけて楽しむほど、性格悪くはないつもりだがな」
脳裏には、1人の少女の顔が浮かぶ。彼女なら、この状況も喜んで利用するのだろうか。
「………ふん」
くだらない。結局は、こいつが決めることだ。そう決める。
「おい、さつき」
「…はい……」
「お前は、人とは違うモノになった」
「………分かりません…」
「分からなくてもいいから聞け。お前は人じゃない。だが、志貴はヒトだ。殺人鬼だろうが何だろうが、あいつは人だ」
シキは同時に、自分にも伝える。それが、さつきをシキに、志貴を秋葉に変えても同じだということを。
「……」
「お前が選べ。この街から逃げて人の血をすすりながら生きていくか、それともその変わり果てた姿で志貴と会うか」
「遠野くんに会いたい」
弓塚さつきは、自分に与えられた最後の選択を、何のためらいもなく決断した。
「…じゃあ行け。お前が志貴を闇に引きずり込むか、志貴がお前を殺すか。どうなるかは分からねえがな」
「…はい……」
さつきは歩き始める。この路地を抜け、ヒトの世界へ。
そして。
あと数歩で大通りに出るというところで、彼女が振り返る。月光と街灯に照らされ、影がぼやけた。
視線の先には、シキの顔。
「ありがとう…」
これ以上ないほど簡単な言葉。だが、その意味をシキの頭が理解する頃には、さつきの姿は消えていた。
「………」
薄汚れた路地にひどく不似合いな、透明な言葉。
「…ばーか」
彼が呟くのは、子供のまま大きくなった彼にふさわしい、だがやはり同じ純度で透明な言葉。
「………」
ビルの谷間から覗く月を見上げる。日が差さない部屋では叶わなかったその程度の自由を満喫しながら、彼は思う。
遠い昔になくした筈の何か。
自分はそれを探したいのだろうか。忘れ去りたいのだろうか。