〜 信頼する事に発し信頼する事に尽きる 〜

 この句は、古い訳文では「信仰より出でて信仰に進ましむ」(文語訳)でした。現代では、口語訳が「信仰に始まり信仰に至らせる」。新改訳が「信仰に始まり信仰に進ませる」と訳し、どうも従来の読み方を受け継いでいるようです。本来これは、神の義がどのように福音の中に啓示されているかを示す言葉ですが、これらの訳文の場合「不完全な初歩的信仰から始まって、より深い信仰に導かれて行く」というような、いわゆる“信仰の成長・成熟”(修養道)をイメージする意味にも聞こえます。もちろん「初歩的信仰から、より深い信仰へ導かれる」のは結構なことです。しかし、このイメージが救い主への信頼だけでは安心できない、“実績信頼信徒”を生み出しているのも事実です。そのような信徒が誕生する原因は、多くの場合、誤った福音理解に基づく熱心な牧会者(悪意は無い)、あるいは悪質な宗教家・団体による聖句の誤用ですが、例えば以下のように語られます。

 「私たちが義と認められるのは信仰によるのであり、行いによるのではありません。しかし、行いのない信仰は人に救いをもたらしません(ヤコ2:14)
1。救われた者は、そこに必ず救われた者としての『実』を結ぶ2のです。私たちは、今もなおたゆむことなく失われた魂を求めて働いておられる主の手・主の足となるべく召されています。主が私たちに委ねられた務めは、つまるところ主の福音がひとりでも多くの人のものとなるように、ありとあらゆる機会に、思いも言葉も行為も総動員して働くことにほかなりません。つまり、私たちは行いを生じる信仰によって義とされているのですから、もし人が良い行いを引き出さない信仰を持っているとすれば、それは悪魔の信仰と言うべきものです。間違いなく私たちは、行いによらず信仰によって救われます。決して、『行いの伴わない思い込みの信仰』によってではないのです!」

 指導者の口から以上のようなメッセージ(?)が語られると、当然のように、良い「実」を結ぼうとガンバリ出すのです。具体例を挙げれば、理想的なクリスチャンの夫(妻)として恥ずかしくない自分でいるか、という点を絶えずチェックして、結果「伴侶を救いに導いた!」と言っては、安心感や自負心を抱く。反対に、「自分の伴侶さえ救いに導けない・・・」ことを後ろめたく感じ、まるでそのことでキリストの十字架が無効になったかのように思いつめる。まさに、“救い主への信頼だけでは安心できない道”に迷い込んだ、実に悲惨な姿です。

 “キリスト信徒”の信仰は、当然のことながら十字架のイエス・キリストへの信頼で始まります。ただ、最後までキリストを信頼し続けるのはまれで、往々にして、別なものに切り替わりやすいことをパウロは痛感していたのでしょう(ガラ3)。この「別なもの」とは、イエス・キリストへの信頼ではなく、そのキリストを信じて立派に実績を上げている自分の「資格」や「清さ」への信頼です。つまり、最初はキリストへの信頼で始まったものが、途中から自分の信仰生活の実績への信頼に切り替わってしまったのです。自分がクリスチャンに相応しく、良い「実」を結んで神の栄光を現していると、うぬぼれていられる時はご機嫌ですが、ひとたび自分の成績に自信がなくなると不安に沈む、人と自分の信仰を見比べて一喜一憂するクリスチャンがいるのはこのためです。ところがパウロは、私たちの歩むべき道は徹頭徹尾キリストへの信頼、しかも初めも信頼なら終わりまで信頼、決して途中で別なものに切り替えてはいけない。あくまでもイエス・キリストへの信頼一筋で通して、それで安心して喜んでいて良いのだと教えたのです。

 原文のエク・ピステオス・イス・ピスティン
3を直訳すれば、「信仰から信仰へと」です。果たして、何がどんな意味で「信仰から信仰へと」なのでしょうか・・・・・・。ローマ書が執筆された時代のギリシア語の知識に乏しかった昔の翻訳者たちは、随分と苦労をされたようです。しかし、その後の語学の研究や文献の分析結果によりますと、抽象名詞を重ねて「何々から何々へと」という句は、当時の文章には珍しくなかったそうで、例えば「力から力へ」(LXX詩83:8)、「死から死へ」(2コリ2:16)、その他これと似た用例はみな、「終始徹底して〜で」とか、「ひとえに〜により、〜に尽きる」などの慣用句4だったことが分かっています。その研究結果を踏まえた上で翻訳したのか、新共同訳は「福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と、フランシスコ会訳の「その救いは、ひとえに信仰を通して与えられるということが福音に現れている」と共に、原文の意味をうまく引き出しています。

 ローマ書1章16-17節はあまりにも有名な箇所ですが、多くの場合「福音とはこういうものである」と、客観的な“定義”として受け止めます。しかし、神御自身が誰でもないこの私を「信仰で」生かそうとする、その執念が込められている事実を読み取ることができれば、私はその“福音”にどう応答すればよいのか?果たして「初めから終わりまで信仰を通して」で、お応えしているのか?ひたすら「救い主への信頼」で、お応えしているのか?という、チャレンジとして響いてきます。当ホームページトップにある訳文「信頼する事に発し信頼する事に尽きる」は、使徒パウロがここで言おうとする意味を分かりやすく伝えるための意訳です。パウロの想いが、あなたに伝わったのなら幸いです。



1. ここは、口では「信じている」と言いながら、実は一つの哲学(理屈)をごたごたとこねまわして優越感を楽しむ連中、つまり信仰と呼ぶに値しないものを持つ者に対して向けられた言葉(風刺・皮肉)です。ですから、著者が文書に込めた「風刺」や「皮肉」を読み取るセンスを持たなければ真意をつかむことはできません。ヤコブ書を読んで不安を覚えたり、律法主義に走ったりするのは多くの場合、このセンスの欠如による著者の意図の取り違えが原因です。当然のことながら、指導者にセンスが無ければ、聴衆が「信仰+行い=救い」の道に迷い込む危険は増すことになります。
2. 「実」という言葉は、まことに示唆に富んでいます。例えば「実(果実)というものは、樹木が鉢巻しめて顔を真っ赤にして必死で内から絞り出すものではなく、地面にしっかり植わって根を下ろしてさえいれば、結びたくなくても結んでしまうもの」です。このようなことに、気づけるか気づけないか・・・・・・。それによって、同じキリスト者であっても、その歩みはまったく異なるものとなるのです。
3. ギリシア語のカタカナ表記は、コイネー期の発音に最も近いとされる現代ギリシア語式です。
4. 二つの単語が結合して、それ全体である特定の意味を表すものです。