「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」(2テモ3:16)と、訳されているギリシア語文、「パサ・グラフィー・テオプネフストス」は、よく言われる“聖書が書かれた時のいきさつ”を教えているというよりも、全聖書が、実際にその時点で「神の息が込められている」、つまり全聖書の中に「神の息」(死者を生かす力)が吹き込まれている、という事実を表現するものです。ですから、実際に旧・新約聖書が、神の息を込められた書として読む者の前にあり、その内蔵された「神の息」を読者に吹きかけてしまわずには置かない書物であることを意味します。

 この「書物」の読み方は、それこそ人(団体)により様々ですが、場合によってはキリストの福音の信仰が、まったく別のものにすり替えられて、「ほかの福音」(ガラ1:6)と呼ばれるものに腐敗することもあります。ある団体のヤコブ書の注解を読みますと「キリストの購いの犠牲を信じていると主張し、自分はクリスチャンであると言う人でも、行動によってその信仰を表明しない人は、実際にはクリスチャンではありません」と、キリストへの信頼だけでは不十分との脅しをかけています。その内容からも分かるように「ほかの福音」は、神の義をいただくために、何か自分の側での資格や功績がないと不安でいたたまれない心理状態を生み出し、自分でも気づかない内に“救い主への信頼だけでは安心できない道”に迷い込ませるのです。

 自由人キリスト教会は、一人ひとりがどの教派・教団からも独立した、つまりあらゆる宗教文化・口伝律法に拘束されない自由な個として集い、「福音を読みとる」ことを第一義に聖書を読みます。それは“福音が何であって何でないか”を悟ることがなければ「信仰+行い=救い」という、キリストの死と復活を無駄にする愚かな道を歩む危険があるからです。当教会では、一人ひとりが福音への開眼を果たすことにより、結果各人が“イエス・キリストへの信頼一筋の道”淡々と歩んでいます1。もし、あなたがクリスチャンの「行い」に疲れたり、悩み・疑問を持っておられるなら、あるいは淡々と歩む人生を望んでおられるなら、当ホームページ(自由人キリスト教会の存在)が、一助になるかもしれません・・・。



1. 「悲しいとか嬉しいとかにかかわらず、魂の深みで地下水が湧き出すように、こんこんと流れているような喜びのもと日々過ごす」という意味です。