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ジョンのアダルトチルドレン


 言い訳になりますが、日本人の90%は「アダルトチルドレン」と言われています。土居 健郎の「甘えの構造」に日本人の特性が書かれていますが、欧米人と異なって、日本人は、多くは自主独立ではないのです。集団における同一性を重視します。自分は他人と異なることを好みません。
 このことは、私の成長に影響を与えました。良い子でいることは、周囲の期待に応えることであり、私が生き延びる術であったのです。今日の自分を形成する複合的な要因はいろいろありますが、私がアスペルガー障害である要素を十分考慮した上でも、自己を型にはめるには十分過ぎる材料があったと思います。

 難しく書きましたが、もっと親しみやすい文体に変えます。患者の環境を知る方法として、ジェノグラムというものがあります。患者の尊属すなわち父親、母親にいたるまでの先祖の記録です。私の場合、前の母の父と母(母方の祖父と祖母)は前の母が中学に進学するまでに亡くなっています。母は、叔父の奥さんである叔母に引き取られて養育されました。母の叔母は自分の夫が第二婦人と共に出て行きました。母は養母に引き取られたために、養母の家で頑張って働いたそうです。しかし、養母には実の娘がいて、2人は比較されたそうです。引き取った血のつながりのない養女(私の母)は働き者、娘は、家の資産をもとに都会へ遊びに、買い物に行くということで、叔母は娘を責めました。いきおい、母は、養母の娘からいじめを受けます。しかし、母は出て行くところがありません。母が身に付けたのは「忍耐」でした。前の母は、結婚前に会ったこともない父と結婚しました。戦後のことですから、結婚は親が決めるのが普通でした。

 父は非常に厳しい人だったので、非暴力でしたが、頑固でした。父の父(祖父)は父が小学生の時に亡くなりました。父は次男でしたが、父の実家の法的な手続きは全て父が行なっていました。父の兄はトラウマがあり、一家をまとめるには荷が重すぎたのだと思います。前の母は父と結婚しましたが、昔でしたから、「男子厨房に入らず」で父は亭主関白でした。厳しい父と母は口論になりますが、父は自分の理論は正しいということで、母に当たりますが、それは知らないうちに、言葉の暴力となります。母は「進歩のない者はだめな人間だ。」と言われて、泣いて幼い私に話しました。父の決め手は「家から出て行け」でした。戻る家のない母には最もきつい言葉であったと思います。そのため、私は、家内にこの言葉だけは言ったことがありません。

 母は、私が13歳の時に亡くなりました。心筋梗塞でした。ある夜、別の部屋で寝ていた妹が「お母さんが死んだ。」と泣きながら、父に連れられて布団と共に私の部屋に来ました。妹は母の亡がらを目撃していますので、現実としてとらえています。しかし、私はそんなことが起きるはずがないと思っていますので、「そんなことはないよ、早く寝なさい」と言って妹をなだめるのですが、自分ではどうしようか、と考えている訳です。妹は小学4年生、母は38歳でした。そのうちに、親戚は集合して来るし、私は、出ていけないし、心臓マッサージで蘇生しないかと考えているうちに、寝てしまいました。
 翌日、起きると、親戚中が集合していましたが、私は母にまだ会っていません。母の納棺というところで、父が冷たくなった母のところへ私と妹を連れて行きました。父は私と妹に最後の別れをしろと言いますが、妹は拒否します。となると、家督である長男の私が周囲の期待に応えなければ、あの子達は冷たいというそしりを受けることになるので、私は、母の肩に手を置いて、「お母さん」という期待通りのポーズをすることになります。これで、周囲を取り囲む親戚中は、自分の期待通り、子供達は、「先立たれた母親に泣いて別れを惜しんだ」という結果を得て満足するわけです。「そうだろ、そうだろ、悲しいだろう。」という訳で一見落着する訳です。私たちはそれどころではないわけですが、彼らには関係ありません。もし、その場で取り乱していれば、そんなもんじゃ治まらない訳ですから。後日、私の主治医の先生の言うところによると「あなたのお父さんは、家族4人で別れの場面を作るべきでしたね。別れるということがしっかり認識できていないと、次に進めないのですから。」とおっしゃいましたが、後日談です。それが、私の型にはまった人間としての1日目でした。私は、母が死んでいながら眠ってしまった自分を責めました。肉親に死なれると必ず人は自分を責めるそうです。日本の自殺者は年間3万人ですが、それによって、トラウマを受ける数は15万人と推定されています。私は、母の死に封印をし、その後、そのことに触れることはありませんでした。大切な「悲しみのセレモニー」と言われる、別れを行なっていません。自分の中ではまだ整理されていません。

 世の中に、親に早世された人はゴマンといます。ではなぜ、私は明るくなれなかったのでしょうか。母が亡くなった後、母の養母は私に「勉強することが、お母さんの供養になると言いました。」今思えば、私が非行化しないようにと思ったのだと思います。しかし、私は、亡くなった母の名誉を守るため、勉強に勉強を重ねました。母が自ら編み出した「忍耐」は私に世代間伝達しています。幸か不幸か、私は、その後、忍耐のおかげで、弱音を吐かず、周囲の期待に応える高性能な型にはまった人間を演じることになる訳です。

  しばらくして、父は今の母と結婚しました。今の母はご主人に交通事故で先立たれました。今の母は小学校の教師をしていました。母は血のつながりのない私と妹を目一杯の努力で育ててくれました。一生懸命だったと思います。今も健在ですが、感謝しています。母は一生懸命のあまり、父が、私に勉強しろと言えば、同じように、勉強しろと言いました。母も、自分が預かった以上は、育児に失敗すれば、世間から、嫁ぎ先の親戚から何を言われるか分かりません。教師であったため、育児に失敗できないというプレッシャーもあったかもしれません。今でも思い出しますが、本当に大変でした。それが原因で、腰痛にもなり、母の腰痛は私が作ったようなものです。

 当時、大学に進学するには、4当5落と言われ、4時間の睡眠の場合は合格するが、5時間の睡眠の場合は不合格になるといわれていた時代でした。
  普通、家族は、父親、母親と機能が別れていて、2つの機能がそろって成り立ちます。例えば、父親がいなければ、母親がその機能を補うとか、おじいさんが代行するとか、寮に入っていれば、寮母さんが母親代わりになりとか、子供に対して、周囲から、家族の機能が提供される時、子供の発達に問題は起こりません。むしろ、ばねになる場合もあると思います。ノーベル賞を受賞した田中耕一さんはお母さんが亡くなりましたが、おばあさんがその代わりの機能を果たしたのだと思っています。
  私の実家は、父親と再婚の母親とがいて恵まれましたが、実際は、父親が2人でした。私の家庭を見ていると、家内は、次女が精神的障害があったからかもしれませんが、努めて、次女に「適当でいいのよ。頑張らなくたって、風邪の時は学校休んでもいいんだから。」と言っています。

  あいにくと、私は、父と母から「勉強しろ」と言われ、母から「適当でいいのよ。頑張らなくたって。」と言われたことはありませんでした。要するに、私は恵まれ過ぎたのです。親もおり、食べることもでき、ネグレクトされることもなく、殴られることもなく、両親から大きな期待をかけられ、大切に、ただ勉強することが私の仕事となりました。できあがったのは、勉強する型にはまった人間でした。親に守られていましたから、苦労することはありませんでした。従って、愛、感情、人の気持ちといったものとは係わりなく、よって挫折ということとは無縁でした。私は、亡くなった母のことについては封印していましたから、何か家族で悩みを共通し、絆を強めたこともありません。もし、私が非行化し(普通はそうなるらしいのですが、私は周囲の期待に応える良い子でしたから、そんなことはありませんでしたが)ていれば、何か悩みがあるということで、家族は結束したかもしれません。

  父親は私が受験1回目で不合格になった時、1日か2日寝込んでしまいました。よほど期待が大きかったのでしょう。父親は、昔としては、珍しく大学に入学していました。大正生まれの人間が大学へ行くことは希でした。どこの大学も定員に達することはなく、まして国立大学は、がらがらだったそうです。父は東京大学を受験しましたが、不合格になり、別の大学へ入学しました。がらがらだった国立大学に入学できなかった父は、私に期待をかけたのでした。私は、地方に住んでいましたが、父の期待に添うべく、地方の優秀と言われる大学を目指しました。

  周囲の期待に応える型にはまった人間は、次々に期待を満足させ、自慢の子供になりました。しかし、周囲の期待に応えるためには、失敗は許されません。常に120%の出力で稼動しなければなりません。緊張が要求され、睡眠時間を削っての仕事になります。まして、自分の気持ちなど、相手にしている時間はありません。だから、私は、自分の気持ちに封印したまま、「悲しみの儀式」などとっくの昔に置き去っていました。

  (私は、父や、今の母に愛されていたと思います。しかし、条件付「愛」だったかもしれません。合格したら「愛」してあげる。業績が上がったら「愛」してあげる。というものだったかもしれません。)

  その結果、私は常にストレスにさらされることになります。まして、会社というところは、業績と給料は交換です。現在、リストラによって、自殺者が3万人を超えたと問題になっていますが、昔から1万人はいました。それでは、差である2万人は問題であっても、もともとの1万人は問題ではなかったのでしょうか。
  120%の力を要求され、常に緊張を要求され、強いストレスを要求され、周囲の期待に応えるいい子は、まさに爆弾と言わないでなんと言ったらいいのでしょか。
  成長する過程で、「適当でいいのよ。頑張らなくたって。」と許されて育った人は幸いです。普通はそうなのです。私のように、周囲の期待に応えてしまう方が不自然と考えなければなりません。このようにして、非常に危険なエリートサラリーマンは出来上がってしまいました。
  大変迷惑をしたのは、家内でした。夫は常にストレス状態、何かささいなことがあれば閉じこもってしまう。場合によっては、その弱点に触れてしまうと、言葉の暴力は洪水のように出てくる。家内にはとても苦労をかけました。今でもかけていると思います。そんな家庭の子供に異常が出ない方がおかしいです。

  家内は、次女があまりに激しく泣くため、何度、次女をアパートのベランダから落としてしまおうかと思ったそうです。夫である私は、家内の何の支えにもならなかったのです。私は自分のことで精一杯だったからです。自殺者とはなりませんでしたが、サラリーマンが自分のことで精一杯というのは、どこでも同じなのだと思います。しかし、奥さんは心の支えをご主人に求めている訳です。他の男性に求める場合は、不倫に発展します。
  こんな話がありました。家内は、私との口論に疲れ果て、ある時、電車に飛び込んで自殺すると言い出しました、次女は寝ているし、置いていくわけにはいかないので、次女を抱いて、家内を追いかけましたが、追いつかないので、警察を呼びました。間もなく、警察官が、2人来られて、やっと止められました。私は警察に感謝して、警察署長さんに翌日お礼状を書きました。家内を追いつめたのは私です。

  次女が2歳になると精神的な障害が出てきました。小児科の先生がいいました。「お父さんが緊張を持っていると、奥さんや子供さんの心の安らぎがなくなり、子供が家庭の緊張に反応して、異常を起こします。」「例え、会社が倒産したとしても、会社の緊張を家庭内に持ち込まないでください。」「一番良いのは、お父さんが自分で失敗して見せることです。」ということで、私は、努めて、緊張を家庭内に持ち込まないように努力し、また、先生の治療も受け、次女の障害は6年かかって落ち着きました。
  家庭内、家内、次女、長女を巻き込んだ、一家心中も考えた、次女の精神的な傷害にまつわる、私の苦悩についても、私の精神的な問題を形成していると思いますが、これは極めて凄惨な、長時間の話であり、書くには、心の準備が必要と思います。次女には本当に済まなかったと思っています。後日、改めたいと思います。

 世の中には、不思議に思う方もおられるかもしれません、どうしこれほど幸せな人生を送っているのに「アダルトチルドレン」なの?と。私はある人の話を聞いたことがあります。その方は、某有名超難関大学の出身なのですが、境界型人格障害になってしまい、仕事もうまくいかなくなり、お子さんは摂食障害になってしまったそうです。その方は、数年会社を休職され復職されましたが、その間に、奥さんは、ご主人から離れて、自活していたのではないかと思います。暴力や子供への影響を心配したのだと思います。奥さんは居場所をご主人には知らせませんでした。私は、ご主人が、障害を克服され、また同じ家庭を作ることを祈っています。ご主人は厳しいお父さんに育てられたそうです。

 暴力、ネグレクト、差別が「アダルトチルドレン」を作るのではありません。恵まれていても、家族が機能を失うと「アダルトチルドレン」が生まれます。そして、最悪の場合、夫婦の別れ、子供のトラウマが生まれます。このような悲惨なケースは一見幸せな家庭からも生まれます。家族の機能を取り戻すことが如何に大切で難しいか、経験者の私がよく知っています。
 勿論、暴力、ネグレクト、差別が「アダルトチルドレン」を生むことは防止が必要であることは、当然ですが。
  マザーテレサがニューヨークへ行ったとき、「マザー、ニューヨークには貧困なんてありませんよ」と言われた時、答えて言いました「みなさん、ニューヨークには愛の貧困(lack of love )があります」と。



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