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ジョンの物語1



 私は現在、「アスペルガー症候群」の疑いで、国立精神・神経センターで診察を受けており、診断を待っています。まだ診断されたわけではないので、「アスペルガー」を前提としたページをアップするのもどうかと思いましたが、一応、皆さんの参考のために、この様な生育歴の場合には「アスペルガー」の場合も考えられますということをページに載せておいたほうがよいかと思いましたので、以下に子供の頃の記憶をまとめました。私としては、結構、社会にかなり適応してきたほうだと思いますので、今日まで気が付きませんでしたが、ここに来て破綻してきました。やはりもっと早く、社会に適応するトレーニングをしておいたほうが良かったのではないかと疑問もあります。

 なお、平成16年3月29日国立精神・神経神経センターの先生から「アスペルガー障害」の診断結果を受けました。

 私の伯父は典型的な「アスペルガー」だと思いますので、「ジョンの伯父の物語」もご参考にしてください。


子供の頃の記憶                           

・生後から3歳まで

1.この間のことは特に聞いていない。出産時の異常についても母子手帳には記録が何もない。癇が強く、孫太郎虫を飲ませたが、効き目はなかったという話は聞いた。

・3歳以前

1.主に活動の場所は自宅の庭。晴れている場合は庭に出て遊んだ。板塀に登ったり、井戸があったので、のぞいたりして遊んでいた。妹も生まれていなかったので、1人でのんびりと遊んで、楽しい毎日であった。

2.家の中では積木やおもちゃで遊んだ。

3.妹が生まれる前に、父が1冊の本を買ってきて私に読んでくれたが、内容は、下に兄弟ができても、だだをこねないでいい子にしていましょう、という内容だった。妹が生まれるとき、母の陣痛が始まって、急いでタクシーを呼び、市立病院へかけつけた。父と3歳の私が付き添って、やっと母が入院した。私たちは妹が生まれる前、夜まで待ったが、生まれなかったので、2人で帰宅した。私が帰宅をいやがって、母のそばから離れなかったかどうか、それは記憶がない。妹は次の日の朝に生まれた。私は3歳であった。

5.妹が生まれた後に私は赤ちゃん返りをした。

・3歳から5歳まで

1.私は友達と遊ぶことも1人で遊ぶこともあった。

2.1歳年上の近所の子どもと遊ぶときはメンコなどで遊ぶこともあった。その子どもの自宅に上がりこんで、おにごっこなど派手に遊んだりした。しかし、その子どもはかなりいたずらが激しく、あるときは、私を足長バチの巣のところへ連れて行き、急に私を巣に向けて押し倒して逃げていった。私はお陰で、頭じゅうをハチに刺されて、近所の外科に連れていかれてアンモニアを塗られた。あるときは、その子どもの待ち伏せにあって、顔に鳥もちをくっつけられて大変な目にあった。

近所の同じ年齢の子どもとも遊んだ。私は、当時、幻燈機と称する映写機を持っていて、子ども向けのフィルムを持ってその子どもの家へ行き、夕方、その家で映写して見せていた。しかし、ある時、その子どもの父親から、もう映写機は持って来ないでくれと言われて、行かなくなった。

公園で遊ぶときは、野球をして遊んだ、私は、父親がミットを買ってくれたので持っていた。子どもたちは、ミットが使いたかったので、私を仲間にいれたが、私の役割は主に守備だった。私が近所で遊んでいたのは、その2〜3人だったが、私の母は、時折、その年上の子どもの家に、その子どものやったいたずらに対して抗議に行った。次第に、近所の子どもたちとは遊ばなくなって、一人で遊ぶようになった。町内は私の格好の遊び場であり、他人の家の生垣を抜けて、塀の上を伝って来ると、自分の家に通じる道に出るとか、楽しみ方は沢山あった。

3.5歳の時、1年間幼稚園に通った。幼稚園では、1〜2人の友達ができた。しかし、遊び時間に遊ぶときは、1人で遊ぶことが多かった。私は、当時としては、体が大きかったので、がき大将だった。そのためいじめられることはなかった。しかし、体が弱く、かぜばかりひいていたので、幼稚園を休むことが多かった。

・小学校1、2年

1.小学校の入学式の折、上級生による楽器の演奏や合唱による歓迎が催された。新入生は、列になってイスに座っていた。私はどうも前が見にくかったので、イスを横にずらして列から外して見ようと思い、列から外れて座っていた。すると、後ろから私の名前を呼ぶ声がしてたので、振り返った。母親が、盛んに、列に戻れと合図をしていたので、やむを得なく戻った。

2.小学校1、2年の担任の先生は、躾に非常に厳しい女の先生であった。授業中に立って歩いてしばしば注意を受けた。自習時間になると、非常に手持ち無沙汰になって、近くの同級生にちょっかいを出した。はじめは、小さな騒ぎだったが、徐々に拡大し、最後には、クラス中で大騒ぎで、ワイワイやりはじめ、大声が飛び交うようになった。しばしば、他のクラスの先生から注意を受けた。担任が、私の母に言う言葉は決まっていた。「成績はまあまあなんですけどね。(私は、1年から5年生まで、中の中であった。)授業中の態度が問題ですので、改めて頂きませんと困ります。学校は、勉強を教えればいいという場所ではなくて、行儀も身につけないといけませんので。」近所のおばさんが私のことについて言ったのは、「ほんとに損だね、成績はいいのに、先生にお行儀を注意されるのだから、でも高学年になれば、お行儀は問題なくなるから、大丈夫だよ。」母も困っていた。

3.私が小学1、2年の頃、父は私に普通の人間になりなさいと何度か注意した。周りの人と同じ様に振舞いなさいと私に言った。私は、普通に振舞っていたつもりだったので、言っている意味が分からなかったが、今、考えると、授業中の立ち歩き、自習時間に騒ぐことを注意したのかと思うが、その他にも、他の子供と違った行動があったのかもしれない。

4.ある時、最初で最後の窃盗をやった。昔、駄菓子屋と言って、菓子から日曜雑貨、お酒まで扱っている店があった。どの菓子を買おうかと迷っていると、「ウイスキーボンボン」が私の目にとまった。そのときは、なぜか非常に魅力的に見えた。もちろん高額で小学生には資金がないし、内容からして、子供の食べるものではなかった。とっさに、持ち逃げしようとしたとき、私の名を呼ぶ、経営者のおばさんの声がした。「代金はどうするの?」とっさに答えたのは、「後で母が払いに来ます。」というものだった。私は、窃盗行為におびえていたが、私はその日の夕方までにすっかりそのことを忘れていた。夕方、母から、駄菓子屋のおばさんから「ウイスキーボンボン」の代金を請求されたと言われて、何か欲しいものがあったら、言いなさいと注意された。このことは、両親が私のことを考えて、責めないことにしたのか、単なる私の連絡ミスと考えたのか、本当の所は分からない。

5.小学校1、2年の頃は、友達は何人かいた。しかし、3年生、4年生を通じて、頻繁に遊びまわったことはなく、時折、知っている友達たちと遊ぶ程度だったと思う。

6.やはり、小学校1、2年といっても平和な日ばかりではない。私の父は法学部を卒業していた。特に、父から法律の話を聞いた訳ではなかったが、同級生とのやりとりの仲でもその影響はあった。いざ口論となると、私は攻撃に対応するため、公権力を頼りにした。反論するにもいちいち「そんなこと言ったって、そんなこと法律的に許されないんだぞ。」と自分の正当性を法律に求めた。そのころの弱き自分の強い味方は「法律」だった。しかし、私は「法律」の内容は知らなかった。そのことで、よけいに友達は増えなかった。1、2人ぐらいしか友達はいなかった。

7.大したことではないと自分では思っているが、担任の先生にとっては意外な問題だったかもしれない。テストの時、選択式問題の答案に回答の番号を記入した。当初、1番だと思って、1と記入した。しかし、読み直すと、2が答えだと分かった。丁度、小学1,2年生はたし算を習う時期である。私は授業で、1+1は2であると習った。そこで、そのテストも提出の時間がせまっていたので、消しゴムで消して「2」と書き直す時間はない。そこで、前に記入した「1」に「+1」と書き加えた。私にとって「1+1」は当然2であるが、しかし、担任の先生は、回答を返却する際に、「今回は特別に認めるが、今後はちゃんと「2」と書かなければ認めない。」と私に通告した。

8.実は先日、帰省した折、妹が私に関する重大な事実について覚えていることを話した。「お兄さんは子供の頃、大学病院で診察してもらったことがあると言っていたよね。」というのである。確かにそうだった。私が幼稚園か小学校1年ぐらいの時、父は当時の母の知り合いの大学病院の医師に診察してもらうため、私を大学病院まで連れていったのである。母の紹介もあって、私は診察時間外に薄暗い大学病院の診察室(昭和30年代大学病院はまだ木造だった。)へ私はなぜ診察してもらわなければならないのか分からずに連れていかれたので、熱があるとか、咳が出るとか、自覚がないまま、診察を受けた。後に、父に聞くと、私はどうもレスポンスがおかしかったようである。そこで、大学病院の医師の診断は「自立神経失調症だから、大人になれば自然に治る。」という診断だったそうである。私は別に自分の生活に支障がなかったので、その事はさして気にしなかったが、最も気にしたのは、私の周囲の人たちだったとは、今日まで知らなかった。

・小学校3、4年

1.この頃になると、知識も増えてくるので、様々な遊びをした。動物を飼育するようになり、かえるの卵をかえして、おたまじゃくしにして、かえるまで育てたり、いろいろな動物を飼った。私は結構徹底的にやる方なので、校門で売っているひよこを飼育して、ついににわとりにしたこともあった。

その反対に、折角、飼育していた鴨のつがいについては、飼育を親に任せて、あまり面倒を見ず、結局は死なせてしまい、悲しい思いをした。

2.コレクションもやった。切手の収集、ミニカーの収集、などかなりやったが、なんと言っても、模型の電車についてはかなりやった。HOゲージという精密電車模型であるが、当時は、今ほど経済が裕福ではなかったので、あまり派手に買い集めることはできなかったが、それでも、数台の電車、客車を集め、線路をかなり大量に買い集めた。私は、日がな一日鉄道模型に集中していた。

とにかく集中したのは、模型、工作関係であった。自分で工作部品、板、その他を買ってきて、自分のアイデアで工作を作った。夏休みの工作では、常にクラスの代表に選ばれていて、通信簿も工作だけはよかった。

プラモデルもかなり作った。当時は今ほど子供はお金を持っていなかったので、それほど大量に作った訳ではないが、相当作った。ある時、どうしても欲しいプラモデルがあり、値段が高かったので、やむを得ず、貯金を下ろすことにした。私名義の預金通帳と印鑑を母のタンスから持ち出して、銀行へ行き、窓口で預金を下ろす手続きをして、帰りに、プラモデルを買って帰った。両親は、私がよく通帳と印鑑を見つけ、引き出して来たことに驚いたが、不問にした。しかし、祖母は、子供が高額な買い物を一人でしたということに大変立腹し、だいぶしかられた。

3.この頃の私の記憶として、今でも具体的に何が悪かったのか分からないのだが、私の性格として、真面目であったことは間違いないのだが、とにかく、真面目に何かを主張すればするほど、他の生徒達から笑われた記憶がある。こちらは真面目に主張している、しかし、笑われる、さらに真面目に主張する、すると一層笑われるということで、非常にすっきりしない気持ちになったことは度々あった。

4.たとえば、こういうことがあった。理科の時間に食塩と氷を混合したもので、試験管の水を凍らせる実験を行っていた。そのとき、容器に入れられた水は表面から凍り始めるか、底から凍り始めるかというどうでもいい問題が理科の時間に持ち上がった。生徒は、教科書に記載されている内容には興味を持つが、教科書に書いていない内容には興味を示さなかった。先生の主張は表面から凍るというものだった。これは単に、先生が水たまりの氷を見て表面から凍り始めると発想したに過ぎない。同級生はあまり気には止めなかったようだった。ところが理科少年の私には、どちらからだろうかという疑問が湧いた。そこで、大きいインスタントコーヒーのガラス瓶に氷と塩を混ぜて入れ、中に小さいガラス容器に入れた水を入れ、氷は表面から発生するか、底から発生するか実験を行った。恒温漕ではないので、正確な実験はできない。しかし、氷はたまたま表面から発生した。それをまとめて報告書に作成して提出すると、先生が非常に気に入った。先生は私にそのレポートを掲示しておく様に、私に指示した。私は得意になってそれを掲示しておいた。ところが、どうもクラスの雰囲気がよくない。私はなぜだか分からなかったが、しばらくした後、親しい友人が、「実は、君の実験は、先生のご機嫌取りだとみんなが思っている。やばいよ。」と忠告してくれた。私の動機は理科少年として純粋に確かめたかった、というものであったが、クラス中がそのように思っているとは気がつかなかった。私は日数がたってから、こっそりとレポートを外した。

・小学5、6年

1.この頃になると、友達もできて、5,6人の集団で野球をするようになり、本来の友達つきあいが始まる。休みの日があると欠かさず、野球をしていた記憶がある。しかし、残念ながら、あまりうまくはなかった。ボールがバットに当たらなかった。小学校の通信簿も体育だけは、今までもらったことのない「2」を頂いた。私としてはショックだった。しかし、今の小学生と違って、塾があるわけではなく、野球ができたことは、私にとって幸せだった。

2.問題発言がなくなった訳ではなかった。ある時、学級委員の選挙があった。私は別の委員に選出されていたが、学級委員長には私の友人が選出された。特に私が委員長に選出されたいという気持ちもなかったし私の友人と仲が悪かったという訳ではなかったが、その友人はなんとなく頼りない感じがした。そこで、「私はO君が学級委員長に選出されたのは、反対です。」という趣旨の発言をした。先生は晴天のへきれきといった顔をして、私の名を呼んで、「そもそも民主主義というのは、みんなの意見が反映されるということだ。多数決によって選ばれた委員長に対して気に入るとか気に入らないとかと言う議論は、民主主義に反する。」と原則から説明を始めた。

3.私は野球のほかに、近くの公園で、自転車、けんか独楽(こま)、ビー玉などで遊んだ。この頃にはだいぶ友達も増えて来た。

4.小学校の5、6年生になるとクラブ活動が始まる。私は化学クラブに所属していたが、私は既に、中学の理科の教科書を読んでいたので、「蓄電池」の実験が適当ではないかと考えていた。しかし、共同で実験を行う同級生は、「それは一体何か全く理解していなかった」。同級生の戸惑いは当然であるが、私は、一方的に蓄電池の説明をして、その上で、担当の先生に交渉に行った。先生も、まさかそのようなテーマが上がってこようとは予想していなかったようで、「できるならいいけど、できるの」と半信半疑であった。結局は、自分で空回りして終わったように記憶している。

・中学1年

1.学級委員の選出の折、このようなことがあった。S君を組織票によって学級委員長に選出しようといういたずらをH君が思いつき、クラス内の数人に協力をするように依頼した。私も、H君との関係上、依頼され、1票を入れることになった。投票の後、開票の際、開票が進むと担任の先生が、何かのきっかけで、S君への投票が組織票であることに気が付いた。「今回の投票で、S君に組織票を投票した者は起立しなさい。」ということで、数人が起立した。私の場合、S君が適任だと思って投票したのか、単にいたずらで投票したのか、それは記憶していないが、担任の先生が一人一人に「本気で投票したのか」と聞いて回ったとき、先生の言葉の意味が理解できず、「本気で投票しました。」と答えた。後の数人は全員「いたずら」であることを認め、担任の先生から「げんこつ」を頂戴した。私だけ、げんこつをまぬがれ、仲間から裏切りと思われたに違いない。すなわち、担任の先生の「本気で投票したのか」という意味は、どうも「S君が学級委員長に適任だと思って投票したのか」という意味だったらしい、というのは、後で気が付いた。私の場合、S君が適任だと思って投票したのか、単にいたずらで投票したのか、忘れたが、「本気で投票したのか」という意味が、「S君が適任だと思ったのか」という意味だったと理解できなかった点に問題があったと思っている。



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