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カウンセリング的対応と人格障害、情緒障害発症の防止


1.カウンセリング的対応とは何か
 これまでに、カウンセリングに関する書籍をいくつか読んでみると、カウンセリングの要点として、「真摯に相手の言葉を聞く」という内容が書かれている。この「聞く」というところは、ただ聞いていればいいというのではなく、共感するところがポイントである。このとき、注意するべき点は、客体と自己が同一化すると、クライアントの依存が発生し、聞き手とクライアントの区別がつかなくなるので、あくまでも、客体と自己の区別は必要である。このとき一番重要なのが、「相手を一個の人格として尊重する」という点である。往々にして、職場などでは、上司から部下への押し付けが起こり、または、精神的に健全な者から、精神的に障害のある者への押し付けが起こり、どうしても、社会ルールへの適応の要求が発生する。この過程で、人格障害、情緒障害の素因を持つ者が発症してしまうケースが見受けられる。

2.許容範囲とカウンセリング的対応
 コミュニケーションにおいて、コミュニケーションが成立する場合として、私が受講したトレーニングでは、許容範囲の広さとお互いの適合について説明があった。相手が自分の許容範囲の中に入る場合は、コミュニケーションが成立する。しかし、その確率は自分の許容範囲の広さで決まる、というものであった。悲惨な場合として、自分の許容範囲が広くなく、「相手を一個の人格として尊重」できない場合、相手への押し付けが始まり、相手が人格障害、情緒障害の素因を持つ場合に、それを発症してしまうというケースが上げられる。往々にして許容範囲の狭い場合は、相手とのコミュニケーション不全に陥りやすく、上司の場合は、部下として、イエスマンを集める結果となり、結局はプロジェクトの失敗に至りやすい。この場合、批判的な部下も含まれていれば、欠陥について見逃すことがないので、社会から評価される価値ある結果が得られる。なぜならば、イエスマンの集団は批判することがタブーであるからである。

3.相手の人格障害、情緒障害を発症させないための方法
 さて、既にお気づきのことと思うが、相手に人格障害、情緒障害の素因がある場合、それを発症させない方法とは、相手に対して、カウンセリング的対応で接し、「相手を一個の人格として尊重する」ことと、相手を許容することである。これは、相手を甘やかすことではないことは当然である。既に述べた通り、あくまでも、客体と自己の区別は必要である。ただ、自己の価値観を押し付けることは、発症を促進させる。人間は、それぞれ、自己の価値観で生きることを基本的人権で保証されており、それが違法でない限り、相手を罰することはできない。自分が、神ではない以上、相手が、社会通念から逸脱していたとしても、社会から、仲間として迎えられることがなくなることが生じることはあるかもしれないが、自分が社会正義を相手に押し付ける権限は残念ながら与えられていない、と考えなければならない。

4.許容範囲の広いケースおよび逆のケース
 1〜3にかけて、なにやら訳のわからない話をしましたが、具体的に許容範囲の広いケースをお話しして、5に逆のケースをお話しします。
 私はあるサイトである方にお会いして、最初はどうしてその方が皆さんから慕われているのか分からなかったのですが、ある事件をきっかけに、気が付きました。初めは、その方から、詩集をいただき、ずいぶん純粋な詩だと思いました。その事件がおきるまでは、純粋でそれがために、苦しみもあるのかと思っていました。
 ある時、別の方がその方に反論を述べたことがあったのですが、するとその方は、「本当にそうですよね」と同調しておられました。すると、さらに別の方が、反論した方に同調しない方がいいと忠告をしたのですが、その方は「何をおっしゃる」と逆に「そんなに神経を逆なでしたとは感じない」と許容範囲の広さを示したのでした。
 私は、一瞬、はー、と感心し、その中に、江戸時代の良寛や小林一茶の世界を感じたのでした。
 普通、反論されると、自分の主張を通そうとしたり、あなたは間違っていると自分の考えを押し付けたりしがちですが、その方は、本当は高レベルでありながら、自らを大愚と称して、子供たちと遊び暮らした良寛のように徹していると感じました。見栄っ張りとは、全く逆の生き方に感心しました。
 実は私は、2004年の8月にアスペルガーの館の掲示板が論争によって空中分解したときに、四散した投稿者の方たちに、掲示板に戻ってほしいとお願いしていました。私のところに、その方の投稿が無くてさみしい。もう一度、投稿を読みたい、というメールがあり、何で私がやらなきゃいけないのか、と疑問を持ちつつ、たまたま出会ったサイトでその方に、戻って欲しいとお願いしたのでした。その時はまだその方の魅力に気づいていませんでした。しかし、次第に、本当は高学歴で中間管理職であった良寛が、東屋で貧乏な托鉢生活に徹して、自ら高ぶらないでいる様子に、どこか共通するところを感じました。
 私は、これが、論争が論争を呼んで、最後には、相手が人格障害、情緒障害の素因を持っている場合に発症させてしまうことを防ぐ方法だと思っています。
 その方はpenpenさんというハンドルネームでサイトを作っておられます。ご覧になりたい方は、下記へどうぞ。
http://rakugakicho.x0.com/msgpro/msgpro.cgi?c=tree&f=penpen&n=PENPENさんの部屋
 なお、良寛については、6にサイトを紹介し、一部無断で使用させていただきました。

5.許容範囲が狭く人格障害を発症させてしまったケース
 かなり前のことになるが、私の研究室に境界型人格障害の方がおられた。彼はよく話を聞いてみると、私にだけ話したようだが、父親に厳しく育てられて、日本で1、2位を争う名門大学へ入学した。
 私が、関東へ転勤してきたときには、症状もあまりひどくなく、一見健康そうに見えたが、当時私は、神経症、心身症などに詳しかったので、彼の病的な様子を一発で見抜いた。
 ところが、私の上司である部長は、許容範囲の狭い上司であり、その規定にそぐわない部下には非常に厳しかった。当然、境界型人格障害予備軍のA君は、上司の目の仇になってしまった。こうあらねばならない、にそぐわないため、ことごとく非難の対象になるのであった。私は、これは危ないと思い、部長である上司に「彼は病気であるから、非難を続けると発症する」と忠告した。しかし、現に彼は出勤しているし、メンタルなどまるで方向感覚のない部長は非難を続けた。
 その結果、ついにA君は境界型人格障害を発症し、少しづつ出勤できなくなり、ついに、病気休暇を取るまでになった。
 慌てた部長は、私をA君の担当に当て、意思疎通は私を通して行われることとなった。つまり、A君は当然のことながら、部長とは話をしない。かろうじて、話ができるのは、私ぐらいである。私は、カウンセリングの書籍から学んだことと、自分が精神科に通院して得た知識を駆使して、A君とかろうじてコミュニケーションを取った。
 一方、部長の考え方は一向に変わらない。会社の社員は職責を全うするべきである。まして、管理社員であるA君の職責は重い。であれば、管理社員として、仕事を全うするレベルはかなり高いはずである。それにもかかわらず、全く仕事の内容が、おそまつである。という考え方で、取り付く島がない状態で、「あのう、そういう次元ではなくて、精神的にダメージをかなり受けている状態なのですが」と私は口を突いて出そうになった。しかし、そんな話がわかる上司であれば、忠告にもかかわらず、発症するまで追い込むことはなかったはずである。
 ということで、A君は、病気休職、リハビリ出勤を繰り返し、結果として、全く出勤できない状態まで重症になってしまった。ある時、私は、彼を伴って、病院まで連れていったこともある。また、通院先の病院の状況を聞いて、不適当と判断して、産業医(会社にはドクターが常駐している)と相談の上、主治医を変える相談をし、A君と相談の上、元大学病院の教授という先生に診てもてもらうことにしたこともあった。
 しかし、A君の症状は好転せず、やっと内服薬で保っている状況だったが、眠くなるので、A君は時々処方薬を捨ててしまうということだった。悪かったのは、A君の得意分野は、現在の研究室で扱っている物質と違っており、もともと、A君が在籍していた関西の研究所の方が向いているということだった。それで、部長は、研究所長と相談して、小康を得たA君のために、関西の研究所への転勤を打ち合わせた。それで、転勤先の部長と相談して、転勤の段取りを付け、先方の部長が直接A君と電子メールで話し合いをすることとなった。関西の研究所は、A君が転勤を希望しているところでもあった。
 ある日、部長が血相を変えて私のところへ来た。A君と先方の部長のメールの内容を私にだけ、ということで見せに来たのだが、先方の部長の、A君への仕事の提案をA君はことごとく気に入らない、と拒否していた。これでは、先方も受け入れる余地はない。A君は当然関西の研究所への転勤を希望している訳だから、この転勤の話がなくなったら、A君の落胆は大きい。そこで、A君の説得が私に任された。
 一般に、境界型人格障害というのは、発症原因は諸説あって詳しくは分からないが、愛情を要求する場合が多い。例えば、A君の場合、親から十分な愛情をもらっていなかったからかもしれない。そうすると、彼は、愛情が欲しいはずである。それは、どのような形で現れるかというと、私のことを分かってよ、という形で現れる。その表現は様々であるが、基本的に、条件なしの受容を要求する場合が多い。彼の場合は、相手は自分のことを理解して当然なのにどうして分かってくれないのか、という形で現れた。これは、転勤先の部長に対しても同じだった。自分の欲しい仕事は、今回提案された仕事と違うというのが彼の主張である。
 残念ながら会社というところは、個人に合わせて仕事が用意されている訳ではない。先方の部長は好意でいろいろな仕事を提案しているのであって、それを拒否することは転勤を拒否することになることをA君に説明した。「あなたが、ここではなくて、関西の研究所を希望することと、先方の部長の提案を拒否することによって、自分の希望が叶わなくなることが矛盾していることに気が付くだろうか。」と説明してみた。さすがに彼は分かったようだった。彼が、自分の気持ちは他人も分かってくれるはずだ、分かってくれなければいかない、と考えていたとしても、それは、その時は否定できない。なぜなら、私は、彼の主治医でもなければ、親でもなく、ただ、彼の話を聞いてあげる同僚にすぎないからである。私が、彼の考え方を、それは間違っていると否定したところで、わたしの考え方の押し付けでしかない。そうすれば、彼は、私の部長と同じ存在が2倍になっただけで、何のメリットもない。彼にとって必要なのは、彼の気持ちを分かってくれる同僚だったからである。
 その後、A君は、関西の研究所に転勤になった。私は、転勤させたことが良かったか、良くなかったか、現在でも疑問に思う。単なるやっかい払いだったのではないだろうか、と今でもしっくりこない。その後、A君は転勤先で、上司の部長に食堂で頭から味噌汁をぶっかけたそうである。
 もうずいぶん昔の話になる。今では、関連会社で復職したと聞いている。彼の幸福を願って止まない。
 普通、会社ではメンタル問題を起こした社員は、まず、まともな仕事はない、と考えなければならない。高校を卒業して入社し、メンタル問題を起こした社員がいた。彼はすぐに、親元に返されてしまった。それでは、A君はなぜ、止めさせられなかったのだろうか。それは、彼が日本で1、2位を争う名門大学の出身だったからである。会社のメリットは、名門大学から継続的に卒業生を入社させることにある。A君の経費が1年間で1千万円以下だったとしても、卒業生を継続的に入社させることができれば、その経費は後輩の出す利益で十分賄えるからである。会社が最も恐れるのは、継続的に卒業生を入社させることができなくなる場合である。であれば、A君を止めさせるメリットはない。しかし、それは、A君にとって幸せだったかどうか、それは分からない。A君も名門大学出身ということにこだわっただろうが、実はもっと幸せな進路があったかもしれない。だが、転職しても、転職先でうまく行ったかどうか、それはわからない。ストレスのない職場で伸び伸び仕事ができたかもしれない。ただ、言えるのは、会社は、A君のためではなく、会社のためにA君を雇用しつづけたという事実である。会社というところはそういうところである。

6.良寛のサイト紹介とプロフィールの引用
http://www.d4.dion.ne.jp/~hanami2/f7/ryokan/ryokan1.htm
 に良寛について詳しい記載があります。
 以下、サイト管理者様には誠に済みませんが、一部引用させていただきます。苦情がありましたら、私のメールアドレスにご連絡をお願いいたします。お詫びと許可申請をさせていただきます。

 以下引用

 鉢の子に 花かきあつめ み仏に  
厳しかった冬も去り、野山が霞でけぶる頃になると、良寛さまはじっとしておれな くなり、托鉢にお出になる。子らが呼びかける。「良寛さま、てまりつこうて」。 良寛さまは日の暮れるのも忘れて子らと遊ばれる。

霞立つ長き春日を子供らと     
     手まりつきつつこの日暮らしつ  
                   青山俊董著より
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 りょうかんさま  良寛1753〜1831近世の禅僧,歌人。
 1757年(宝暦7)出生説もあるが詳らかでない。本名は山本栄蔵,字(あざな)は曲(まがり),出家して良寛または大愚と号した。
  (経歴)良寛は越後(新潟県)の港町出雲崎の名主橘屋の長男として生まれた。父泰雄は蕉門茶統の俳人で以南(いなん)と号した。母は佐渡の山本家から養女にきた女性で,父も入婿であった。11歳のころから,北越の儒家として名高い大森止陽のもとへ毎日20kmの道を適い漢籍を学んだ。18歳のころ名主見習いになったとき,出雲崎代官と漁民の間に紛争が起こり,その調停仲裁に立ったが解決せず,また生家の橘屋と尼瀬の京屋との勢力争いにまき込まれ,なんの為すところも知らず,愚直者,昼あんどんなどと評された。
 この時期彼は突然のように尼 瀬の禅寺光照寺に駆込み出家剃髪した。22歳のとき備中(岡山県)玉島の名刹(めいさつ)円通寺の国仙和尚の巡錫(じゅんしゃく)に会い,随行して修行を続け、さらに中国から 九州四国を行脚(あんぎゃ)している。
 38歳のとき帰郷するが,その直前父以南は生 家を出奔(しゅっぽん)し客死し,弟の由之が跡を継いでいたが,生家は衰運の一途にあった。   
 きてみればわがふるさとは荒れにけり  
          庭も籬(まがき)も落葉のみして  
 これは当時の感慨を詠(ょ)んだ歌である。その後彼は郷里の諸寺を転々とし,47歳のと き国上山の中腹にある五合庵に定住し,《万葉集》や寒山詩に親しみ孤独な生活を続けた。その間弟の由之は家財を取上げられ所払いとなり,生家は没落した。
 60歳のころ国上山の麓の 乙子(おとこ)神社の庵に移り,10年後さらに島崎村の木村家(能登屋)邸内の小庵に移り,托鉢(たくはつ)生活を続けながら作歌作詩に心を慰め,1831年(天保2)74歳で示寂した。

 {人と作風}良寛は万葉歌人あるいは超俗の詩人といわれており,その和歌,俳句,漢詩,あるい は書などの作風は,自由で大らかで読む者見る者に例えば春風の温かさを抱かせるといわれて いる。
 良寛は子どもと遊び子どもに慕われ,手まり上人とよばれていたことはよく知られている。
 良寛の書は見る人すべてに清列(せいれつ)な情感を抱かせたといわれ,存命中から町人や 百姓、文旨の人まで競ってその書を求めたという。 
 良寛が一般の庶民に敬慕されたのは,その人 間像の魅力にあったように思われる。
 例えば良寛が付人から,稲が豊熟するとき は(ぼなる)(吼ほえる)ものだという講を聞き,その音を開こうと一晩中田圃(たんぼ)の あぜ道を歩きまわっていたという話などは,良寛の純真な超俗的な人柄を現す逸話である。

 {晩年と著作}良寛は名刹を厭い,乞食僧として無為自然の生活を送ったが,晩年の貞心尼との めぐり逢いは,彼の孤独な生涯一点の情感を添えるものである。
 貞心尼は柏崎に住む美しい 尼僧で,道の教えを乞いに良寛を訪ねた。ときに貞心尼30歳、良寛70歳であった。   
 君にかくあひ見ることの嬉しさも
            また覚めやらぬ夢かとぞ思ふ (貞心尼)   
 夢の世にかつまどろみて夢をまた
            語るも夢もそれがまにまに   (良寛)  
 貞心尼が良寛にはじめて会ったときの感激を詠んだ歌に対し,良寛が答えたこの贈答歌は,万葉の相聞(そうもん)歌を思わせる。以来2人のこまやかな交遊が続いた。良寛は74歳の秋,痢病 (りびょう)にかかり,貞心尼は昼夜を分かたず枕頭で看護したが,日増しに衰える良寛を悲しんで、
 生き死にの界(さかい)離れて住む身にも   
       避(さ)らぬ別れのあるぞ悲しき と詠むと,
 良寛は,(うらを見せおもてを見せて散るもみじ)とつぶやくように返した。
 そして 年明けた正月6日、敬慕する多くの人々に見守られながら,彼はその一生を閉じた。
 良寛は漢詩にも特色を見せ、また古法帖(こほうじょう)に親しんで書にも秀で、多くの遺墨を残した。 彼の生活と二芸術は脱俗的で,由由に徹した所があるが,同時に作品にひそむ孤独感は自家の悲 運と表裏をなし,独特の魅力の源泉ともなっている。良寛には前記の歌集のほか,気品の高い 漢詩集、全集がある。/井上豊