|
天皇制と私の体験 天皇を見ても目はつぶれなかった。小学3年生のとき… 昭和10(1935)年、南九州陸軍大演習があり、昭和天皇を乗せた 「お召し列車」が私の村の駅を通過するのでホームに並び、列車が通過 するまで「最敬礼」のまま頭を上げるなと命令され、傘もさされず雨で ずぶぬれになったのは忘れない。皆頭を下げているから、自分が頭を上 げ天皇を見ても絶対わかるまいと頭を上げた。ほんの一瞬、2人 位見えたが天皇はどちらだったのか?、純白の車内が美しかった のは目に焼きついている。いつも白馬の天皇か奉安所の御真影ばかり見 せられていたので、本当の天皇の顔を見たいという好奇心からだった (当時小学3年生)。天皇を見たら目がつぶれるのもウソ だったことを体験した。 列車の最後尾のデッキには、真ん中に大きな金色の菊の紋が光ってい た。現代っ子なら「すげー」と声を上げただろう。その横には銃を構え た兵士が1人立っておりドキッとしたことを覚えている。このとき天皇 を見たことが私の人生観、国家観に影響を及ぼしたのか少年兵になろう とか、天皇のために死んでもいいと思ったことは一度もなく、ただ生き 延びることのみ考えていた。天皇の終戦放送を聞いたとき真っ先に私が 「戦争は終わった」と言いだし、死なずにすんだ、よかったと嬉しかっ たことは忘れられない。 天皇の通過で自宅を警察官10人に包囲された 2回目の天皇のことで思い出すのは昭和24(1949)年の初 夏、天皇が地方巡幸で宮崎県を訪問したときで私は21歳になって おり、結核の長期療養で田舎の実家で静養していた。自宅下の日豊本線 を天皇の列車が通過したのだが全く知らなかった。午後、散歩に出たら 近所の小母さん達が「武夫、今日は大変だったのだよ」と言うのです。 わけを尋ねると、「天皇の汽車が通るので、お前を監視するため私服警 官が10人位この周辺に張り込んでいたんだよ…」と。まるで犯罪 人扱い、こんな侮辱を受けたのははじめてで無性に腹が立ち、絶対許せ ないと自転車を飛ばし、富高(日向市)警察署に出かけ署長 に「俺を何者と思っているのか、僕はそんな人間ではない、謝罪しろ」 と抗議した。この頃、警察は戦後民主主の台頭に押され親切に対応する 一時期があった。抗議のあとどんなになったかは覚えていないが、警察 署に単独で抗議に行き、自分の主張をしたことは、その後の民主運動に かかわる自信にもなった。 入院の2階から見ていたら、警察官が「下に降りろ」と… それから30年を経た昭和54(1979)年のことである。全国 植樹祭に来た天皇の自動車が、入院中の病院前を通過するというのでみ んな道路に出ていた。 私は2階のベットに座り、窓から見 ていると、警察官に下に降りろと指示されたが私は下りなかった。天皇 のみならず、誰であろうと歓迎は自由であってほしい。警備や交通整理 は必要だが2階から見るなという理由はなんなのか、それも入院 患者にである。戦前の「不敬罪」時代と同じ取り締まりだ。私の友人も 自分の駐車場に後部を道路に向けて止めていたら、前部を道路に向けろ と強要されたと言っていた。付近の家は全部だったと聞いた。理由はと 聞いたら天皇の通過に尻を向けることになると言われたという。 昭和天皇が宮崎県に来たこれまでの3回の内、戦前の一回は強 制的に連れて行かれてのことだが、後の2回は偶然なのに問題が起こっ ている。こんなことは一人私だけではないから、戦前の天皇を神とする 観念の残滓ではないのか。戦争責任問題でも?天皇は最高指導者だから 責任がある?とシンポジウムや日常のなかでも話すと、「飾りだったの だから」という意見が出る。どうしてそんな意見になるのかと不思議に 思うが、よく聞いてみると自身も加害国民の一人として責任がはっきり しないという感じがする。天皇も人間宣言をして神様ではないのだか ら、責任は責任としてはっきりさせることがシンボルとして大事ではな いのか。はっきりさせないから天皇とか天皇制をうまく利用する勢力 が、自分たちの支配形成に利用している現実がある。戦争の反省をまと もにしないでいる天皇と天皇制、それを利用する支配層に対するこだわ りは消えない。宮崎の「八紘一宇の塔の復活を検証するとそれがよく見 えてくる。 「八紘一宇の塔」復活で天皇と宮崎県当局の摩擦 「八紘一宇の塔」といえば66年前、昭和15(1940)年の皇紀 二千六百年を祝して建てた塔で、「皇紀」という年号でわかるように万 世一系の天皇の弥栄(いやさか)を祈る塔として建てられ た。それはまた侵略戦争に国民を動員する戦意高揚の塔でもあった。高 さ37メートルで当時日本一高く、中国占領地と日本植民地などか ら348個、全都道府県から1441個、合計1789個の石 を積み上げて築いている。 終戦後はポツダム宣言の「世界征服ノ挙ニ出ヅル勢力ハ永久ニ除去セ ラレル」、「民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベ シ」、という6項と9項の降伏条件に従い「八紘一宇」の文 字は削除され、「平和の塔」の文字に変えられた。それから20年 後の昭和40(1965)年に、今度は逆に「平和の塔」の文字を削り再 び「八紘一宇」の文字を復活した。理由は「八紘一宇」は?神武天皇の 神勅?で「永遠の平和を祈念する」言葉だからだとされた。私はこの 「塔」を「戦争の塔」「虚妄の塔」と言っている。それは、中国侵攻中 の日本軍が掠奪した100個を超える石を積んでいるのに、「友好 的に寄せられた」と由来碑に記し、「平和の塔」だと言って事実を隠し ていることへの抵抗である。その掠奪した石には国宝級の彫刻石や世界 遺産の名所旧跡から多くの石を運んできている。この解決なしには「平 和の塔」と呼べない。 塔の内部(「厳室」)にも天孫降臨から神武天皇即位、大 政奉還、紀元二千六百年にいたる神国・天皇制の歴史、大東亜共栄圏建 設に突撃する皇軍兵士のレリーフ8枚が飾ざられ、神の国・天皇 制日本を表象している。敗戦によって象徴天皇制に変わったが、支配層 は「君が代」「日の丸」を踏み絵に天皇の統合作用を利用している。 「八紘一宇の塔」を皇室ブランド商品にし、踏み絵的に天皇神聖を伝播 することを行わないという保障はない。それを許さないのは民主主義の 拡大だけである。 最後になったが、昭和天皇と宮崎県当局が「八紘一宇の塔」復活に とった姿勢を比べ、その違いを紹介すると、どちらが民主主義だろう か。県当局は昭和天皇を「八紘一宇の塔」のお立ち台に上げ、八紘一宇 の復活を土木部長が説明し、市民の奉迎を受け、塔を一回りして下りる 案を宮内庁に申請した。昭和天皇はその提案を拒絶し、八紘一宇の塔に は上がらず、土木部長説明も聞かず、平和台公園広場で市民の奉迎を受 け万歳で終わった。県当局は天皇をお立ち台に上げ、土木部長が復元を 説明するのか、天皇はなぜそれを拒絶したのか。県当局は今もこの経過 を公表していない。この事実は「入江相政侍従長日記」(昭和 51年)に記されている。「八紘一宇の塔」は過去の反省なしには 「平和の塔」とは永遠に言えない。 以上 2006年1月 「平和の塔の史実を考える会」児玉 武夫
|