■「総合学習」とお手軽国際協力!?
子ども達の国際協力のタネを無駄にしないためにも、大人がもっと学ばなくては
『開発教育ニュースレター No.93』(2001年10月)に掲載
■運動会の万国旗
「国旗」って、なんだろう?
『開発教育ニュースレター No.85』(2000年6月)に掲載
■モノを贈る運動
いらなくなったモノを途上国へ贈る、本当にそれでいいのだろうか?
『開発教育ニュースレター No.83』(2000年2月)に掲載
モノを贈る運動
先日、新聞にこんな投書が載っていた。皆さんは、これを読んでどう思われるだろうか。
算数のセット、再利用考えて
わが家には、小学生の子どもが2人います。入学時に「さんすうセット」を必ず購入します。中身はかぞえ棒やおはじき、カードなど小学校の低学年で使うものが入っています。しかし、利用するのは2年生までです。
お役ごめんになったさんすうセットを回収し、貧しい国に贈って子どもたちに再利用してもらうことはできないでしょうか。周囲の人に聞くと、捨てているケースが多いようです。
以前、けん盤ハーモニカを贈っているニュースを見たことがあります。廃品が役に立てば、すばらしいと思います。どこに相談していいかわかりません。送る方法などをご存じの方はぜひ教えてください。
(1999年10月5日 朝日新聞・神奈川県版「読者のプラザ」)
鉛筆、ノート、算盤、縦笛、鍵盤ハーモニカ、オルガン、パソコン、絵本、眼鏡、衣類、毛布、米、ミシン、車椅子、自転車、救急車、消防車…。「恵まれない子どもたちのために」「難民を助けるために」、いろいろなモノが途上国に送られる。それは、ほとんどの場合、日本で使われなくなった中古品だ。
マスコミはそれを、しばしば“美談”として伝えるが、こうした運動を「国際協力」の原則に照らして考えてみると、いろいろな疑問が生じてくる。
本当に必要とされているのか
「廃品を有効活用する」ことにばかり目が行き、現地のニーズを十分に調べないまま、モノ集めを始めてはいないか。
「○○が欲しくないか?」と尋ねられて、現地の人は確かに、「欲しい」と答えたかもしれない。しかし実は、他にもっと切実に求められているものがあるのではないだろうか。ひどい場合は、相手の意向を確かめもせず、「○○を贈れば喜ぶだろう」という思いこみだけで運動が始められることもある。
途上国の市場では、日本から“贈られた”はずの衣類や文具が売られている。よりニーズの高いものを手に入れるために、売られてしまうのだ。「プレゼントとは、もともとそういうもの。それで互いが満足するなら構わない」と割り切るか?
現地で買った方が合理的ではないか
文具のように単価が安いものや、衣類のようにかさばるものは、日本から送る送料の方が高くつく場合もある。輸送中に品物が傷んだり、盗難に遭ったりする可能性もなくはない。そう考えると、現地もしくは隣国で購入した方がコストが抑えられるし、現地の生産者を支えることにもなり、合理的ではないか。
現地の事情に合っているか
気候風土、生活習慣、エネルギー事情等々、さまざまな点で日本とは条件が異なる国へ、日本のものをそのまま持っていっても、すぐに壊れてしまったり、非常に使いづらい思いをさせることにはならないか。電気製品は、電圧が違う国では変圧器がなければ使えないし、マニュアルも日本語では読めないだろう。自動車のエンジンやサスペンションの設定も、気圧や道路事情に応じて変えた方がいいかもしれない。しかも、壊れても部品が手に入らず、修理できないといったことも起こりうる。
その土地の文化を尊重することも忘れてはならない。とくに初等教育は、その国の文化の根幹に関わる部分だ。日本で使われているものをそのまま持ち込むことに、問題はないだろうか。それは、逆の立場に立って考えてみると、よく分かる。「かぐや姫」の文化は、「シンデレラ」の文化とは違う。「シンデレラ」の本が余っているからといって、「かぐや姫」のかわりに子どもに読ませればいいと言われても、それは無茶というものだろう。
自立を妨げるおそれはないか
安易に「与える」ことが、現地の人々の自立を妨げることにはならないか。立派な校舎に、机、イス、教材まで用意して、「さあ、勉強しなさい」と言われるよりも、自分たちの子どもの未来を真剣に考えながら、親たちが力を合わせ、時間はかかるかもしれないが、自らの手でこつこつと教育環境を整えていってこそ、そこに教育が根付くのではないだろうか。
モノを与えるのではなく、知恵やノウハウを分かち合うことによって、途上国の人々を支えることができないものだろうか。
私たち自身の姿勢を問い直す必要はないか
不要になったものを途上国に送る前に、まずは私たちの過剰な消費生活を改めるべきではないか。前掲の投書に出てきた「算数セット」にしても、例えば、それを個人ではなくクラスの共有にし、使わなくなった時点でまた新しい1年生に譲れば、ずいぶんと無駄はなくなるはずだ。そこで節約したお金を、学校やPTAで話し合い、NGOに寄付するなり、現地のニーズに合った国際協力に役立てる方法を考えてみてはどうだろう。
また、新品を買って不要になったものを贈るという行為の裏に、万が一にも、「途上国だから」「貧しい人たちだから」→「お古でも構わない」という意識が潜んでいたとしたら、それこそ、最も大きな問題だろう。「分かち合い」の意味を、改めて考えてみてほしい。
もちろん、「モノを贈る援助」のすべてが間違っているわけではない。ただ、本当に求められているものは何なのか、しっかり見極めてから行動することが大切だ。
ところで、件の「算数セット」だが、この投書から1ヶ月後、「ブラジルの学校に算数セットを贈ろう」というNGOが現れた。
現地で有効に使われていることを祈りたい。
『開発教育ニュースレター No.83』(2000年2月)に掲載
運動会の万国旗
運動会に万国旗、いつ頃から?
運動会に万国旗は付きものだが、これはいったい、いつ頃から一般化したものなのだろうか?
1)1852年、パリで開かれた万国博覧会の会場に万国旗が飾られ、
日本でもお祭りや運動会の会場に万国旗を飾るのが流行した。
2)1956年、日本の国連加盟を記念して、日本国連協会が、当時
の加盟国(77ヶ国)の旗を全国の小中学校に配布した。
3)1964年、東京オリンピックを記念して、文部省が全国の小中
学校に万国旗を配布した。
さて、正解はーと言いたいところだが、実は、あれこれ調べてみたのだが分からなかった。一説によると、昔、祝祭日に艦船などが満艦飾に飾った習慣に由来しているというが、運動会で使われるようになった経緯は定かではない。個人的には、運動会→スポーツの祭典→オリンピック→世界の国々→万国旗という発想が、いちばん自然なような気がするが、少なくとも東京オリンピックよりはずっと前から使われていたようである。
ちなみに、満艦飾に万国旗を使用することについては、後に、国旗を単に装飾のために使用すべきではないという国際協定にもとづき、禁止されたそうである。
万国旗にある旗、ない旗
去年、息子が通っている幼稚園の運動会に行った時、やはり万国旗が飾られていたのだが、観客席に1人、外国人のお母さんがいて、ふと、あの人の国の旗はあるのだろうかと気になった。もしなかったら、ちょっと淋しいだろうなと。そして、そもそも「万国旗」には幾つの国の旗が付いているものなのだろうかと考えた。どう見ても、世界中のすべての国の旗があるようには思えない。
そこで、運動会用品などを扱っている会社のカタログで調べてみたところ、ふつう25〜40ヶ国の旗が付いているらしい。必ずあるのは、日本、アメリカ、イギリス、フランス、スイス、イタリア、カナダ、韓国、ブラジルなど。なんだか、日本人の(ひと昔前の?)世界観を反映しているような気がする。
難民にとっての「国旗」
そして最近、ある国際交流のイベントの会場で、やはり万国旗が飾られているのを見て、はっとした。「これはちょっと、まずいんじゃないか」と。というのは、その日、外国人ゲストとして参加した人の中に、「難民」の経験を持つ人がいたからだ。
国旗は、多くの場合、その国の政府、国家体制の象徴であり、反体制側の立場にあって難民となった人の中には、祖国の「国旗」に対して複雑な感情を抱いている人もいる。以前、いろいろな国から来た子ども達が集まるキャンプでグループごとに「旗」を作ることになり、あるグループで、メンバー全員の出身国の国旗を描こうということになったのだが、そのグループにいたベトナム出身の少女が描いたのは、現在のベトナム社会主義共和国の旗ではなく、かつての南ベトナムの旗だった。彼女は、両親とともに難民として国を出てきた経験を持っていた。
そんなわけで、「国際交流→万国旗」という発想はあまりに安易に過ぎないかと、そのイベントの主催団体の関係者に言ったところ、「そんな昔のことにこだわるなんて、おかしいですよ。もう、ちゃあんと、国連で認められている旗なんだから」という答えが返ってきた。どうやらその人にとって、国連というのは絶対的な権威(=善)であり、「世界」は、「国家」の集まりとして認識されていて、そこに疑いを差し挟む余地はないようだった。
それを聞いた時、ひょっとするとこれは、案外、多くの日本人に共通した感覚かもしれないぞ(そういえば、自分も以前はこれに近い感覚を持っていたような気がする…)と、ちょっと心配になった。一部の大国が主導権を握る国連には、多くの課題があるし、「世界」は、地球上に生きる一人一人の人間(や動物、自然)の営みから成るものであって、決して「国家」の集合体としてのみ理解されるべきものではない。もっと、個別の事情や歴史をきちんと踏まえてものごとを考えなければいけない。
少数・先住民族の旗
今回、国旗のことを調べていて、いくつか面白いことを知った。たとえば、「アイヌ民族の旗」というのがあるのをご存じだろうか。オーストラリアのアボリジニの旗は比較的よく知られているが、世界にはいろいろな先住民族の旗がある。東ティモールには以前から独自の旗があったし、今、インドネシアからの独立をめぐって揺れているアチェにも、独自の旗がある。シンハラ人の象徴であるライオン(シンハー)が大きく描かれたスリランカの旗には、左端に少数民族を意味する2色の縞模様が入っているが、それを受け入れないタミル人は、自分たちの民族旗を持っている。
今年の運動会では、万国旗を飾る前にちょっと考えてみてもいいのではないだろうか。
参考図書 『世界の国旗全図鑑〜国旗から海外領土・国際機構・先住民族の旗まで』
辻原康夫編著、1988年、小学館
『開発教育ニュースレター No.85』(2000年6月)に掲載
「総合学習」とお手軽国際協力!?
先日、小中学校の教員を対象とした研修会で話をする機会があり、こんな「ランキング」をやってみた。
「総合的な学習の時間」の中で
より楽しい国際理解教育を実現させるための9つの方法
〜 教師ができること、やるべきこと 〜
「総合的な学習の時間」を利用して、より楽しく充実した国際理解
教育を実現させるための教師の取り組みとして、以下に9つの方法が
記されている。これらの行動の順位づけをしてみよう。
いちばん有効なもの、最初にすべきことを最上段の○の 中に記入し、
次にすべきことを2段目に、以下、最も遅くてよいこと(あるいは最
もすべきでないこと)を最下段の○の中に記号で書き入れる。
個人で記入した後で、隣の人とあるいはグルー プで意見交換して結
論を出してみよう。
A 国際理解教育のための優れた教材を入手する。
B 国際理解教育の考え方やノウハウについて、教員の研修会を開く。
C (教師が)外国語を身に付ける。
D 海外生活の経験者、在住外国人、NGO関係者など、地域の協力
者を増やす。
E テレビや新聞、インターネットなどを通じて、教師自身が最新の
国際事情を学ぶ。
F 長期の休みや、青年海外協力隊、日本人学校への派遣の制度など
を利用して、教師が海外生活を経験する。
G ユニセフ募金やNGO活動の支援など、生徒と一緒にボランティ
ア活動に取り組む。
H 海外への修学旅行や、海外の学校との交流活動を行う。
I 文化祭や作文コンクールなどのテーマとして、「国際理解」や
「国際協力」を取りあげる。
○
○ ○
○ ○ ○
○ ○
○
結果は、まずは教師自身が海外経験を(F)という人、教材(A)や地域の協力者(D)が必要だという人、自分自身の勉強から(C・E)という人、そして、ボランティア活動(G)や海外の学校との交流(H)など、子どもたちに「生きた経験」をさせたいという人など、さまざまだった。
その「生きた経験」の一つとして考えられるのが、国際協力のためのボランティア活動だが……
もう、数年前のことになるが、ルワンダ難民の帰還の様子が連日テレビで報道されていた頃、ある中学校の生徒達が、「ルワンダの子どもたちに文具を送ろう」と、不要になった鉛筆やノートを集めたことがあった。教師や親も協力し、文具メーカーからの寄付もあったりして、段ボール10箱以上の文具が集まった。
生徒の代表と教師は、それを東京のルワンダ大使館まで届けに行った。ルワンダ大使からは、子どもたちの善意に対する感謝の気持ちが伝えられたが、「でも、ルワンダまで送るお金がないのです」と言われてしまった。
運賃の問題はまったく予想外だったが、ここでやめてしまっては意味がない。生徒達は、こんどは荷物を送る船賃の募金活動を始めた。再び教師と親が協力し、荷物を船便で送るためのお金、数万円が集まった。そして再び、ルワンダ大使館へそれを届けた訳だが、そこでまた、困った問題に突き当たった。
ルワンダは内陸国だ。日本からの荷物を積んだ船は、ケニアのモンバサ港に着く。そこからルワンダまで、どうやって運ぶのか。だいたい、モンバサでの通関手続きを誰がやるのか。ルワンダまでのトラックを誰が手配するのか。途中、ウガンダ国境での手続きは? ルワンダでは、誰がそれを受け取って、どのようにして子どもたちに配るのか。考えてみれば、次から次へと問題が出てくる。
暗礁に乗り上げた子どもたちの善意を救ったのは、当時、難民キャンプで活動していたあるNGOからの申し出だった。現地へ機材を送るコンテナにまだ余裕があるので、文具を預かって一緒に送ってやろうというのだ。そして、ルワンダの首都キガリにある、親をなくした子どもたちの施設へそれを届けようと言ってくれた。
難民の姿を見て、とにかく行動を起こそうとした子どもたちには、拍手を送りたい。が、周囲の大人達には、もう少し、慎重さがほしかったように思う。
まずは、現地の具体的なニーズを知ること(もしかしたら、それは「文具」ではないかもしれない)、自分たちにできることは何かを見極めること、それを実現させるための手だてを十分に講ずること。そこのところを、子どもたちと一緒にやってこそ、国際協力のボランティア活動が“総合的な学び”となるのではないだろうか。
最近、「総合的な学習の時間」とからんで、学校の教師から国際協力に関する相談を受けることが増えてきた。いわく、「途上国の恵まれない子どもたちのためにといって、生徒が文房具を集めたんですが、どこへ送ればよいでしょうか?」「卒業生が集めた古着を学校で預かっているのですが、いつまでも置いておくわけにもいかないので、どこか紹介してもらえませんか」「本当は、○○国のストリート・チルドレンのためにといって集めたのですが、適当なところがなければ、国内の福祉施設でも構いません」「どこかの国では、50万円で学校が1つ建つと聞いたので、募金を始めたのですが…」
こういう相談を受ける度に、「集める前に相談してほしかった」と思う。現地の詳しい情況も分からず、はっきりした目処も立っていないのに、とにかく「集めて送る」というのではあまりに無責任だ。「彼らには○○が必要だ」「きっと喜ぶにちがいない」という思いこみだけでスタートすると、しばしば大きな落とし穴が待っている。下手をすると、現地のニーズそっちのけで、文具や古着を「集めること」だけが目標のようになってしまったりもする。
子どもたちの善意を無駄にしないためにも、大人達がしっかりコーディネートをする必要があるのではないかと思う。国際協力は、まず、現場のリアリティを知ることから。
『開発教育ニュースレター No.93』(2001年10月)に掲載