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鹿角・精神科誕生秘話

青木敬喜先生の著述より

以下の著述は、1988年(昭和63年)2月25日に刊行された「鹿角組合総合病院五十年史」の「第九章」として、当時副院長の青木敬喜先生がお書きになったものです。名文ですので、基本的に原文のまま紹介しますが、以下の点だけは手を加えさせていただきました。

@ 横書きにするため、数字は算用数字に改めました。年号については、西暦(和暦)という形式で統一しました。
A 博識な先生には申し訳ないのですが、難解な漢字については、ひらがな表記にさせていただきました。
B 一部、句読点について、手を加えさせていただきました。

 

精神・神経科25年の歩み

副院長兼精神科科長 青木敬喜

1. 開設の経緯

当科が開設されたのは、1961年(昭和36年)7月1日である。
その背景として、1960年(昭和35年)頃、当地方に尊属殺傷事件が頻発し、調査の結果、精神障害者による犯行であると判明したという事情がある。こうした事から地元の各婦人会が立ち上がり、当時の鹿角郡5ケ町村に強く働きかけた結果、「鹿角郡5ケ町村精神病院組合」が設立され、鹿角郡5ケ町村精神病院組合立・精神病棟(50床)を当院敷地内に建設し、当院に管理を委託したのである。
この様な経緯からもうかがえる様に、当科開設の発端は、地域住民の安全を守るために「危険な精神異常者をまずもって隔離しなければ」との趣旨に基づくものであった。
現在の当科における「患者の人権尊重」を第一とし、その社会復帰を究極の目標とする開放的なあり方とはまったく対照的な、事故を防ぐ安全至上主義に沿った閉鎖的なあり方を要請され、事実当初の何年かは、その方針に徹して運営されていたのである。
一例を挙げれば、措置患者(精神衛生法により、自傷他害のおそれがあると精神鑑定され、強制的に入院させられた患者)は、親の死に目でもない限り、それも看護者同伴でなければ、外泊はおろか外出も許されなかったのである。
また、1962年(昭和37年)4月1日、初代精神神経科科長・植田修博士の着任まで、常勤医が不在であったというのも信じがたい事実であり、当時の患者隔離へと走るあわただしい動きと、当事者の無定見ぶりを裏書きしていると言えよう。

2. 旧病棟の頃

1964年(昭和39年)8月、あらたに女子病棟(44床)、開放病棟(16床)が竣工したが、開放病棟とは名ばかりで、ほとんど外来棟として使用され、実質的には94床の閉鎖病棟であり、第6病棟と称していた。
筆者が2代目精神神経科科長として着任したのは、1968年(昭和43年)4月1日であった。
当時の閉鎖的な運営のあり方に飽き足りず、懐疑的であった筆者は、数年間構想を温めた後、1971年(昭和46年)10月、喫煙の制限を撤廃したのをはじめとして、その都度看護長以下スタッフ一同にはかりながら、院内売店の通帳による利用、次いで現金による院外買物、措置患者の外出外泊、赤電話の設置等、一歩一歩慎重に開放的なマネージメントを進めた。とともに、少しでも患者にとって快適で、スタッフには働き易い病棟をと、スチーム暖房の導入、格子替りのブロックの撤去、大ホールの新設等々、その手直しに積極的に取り組んだのである。しかしながら、「閉鎖的な運営」という旧弊な理念に基づいて建てられた旧病棟の構造上、いくら手直しを試みてもおのずから限界があった。つまるところ、この病棟の存在そのものが、それ以上の開放的な精神医療への進捗の大きな妨げとなっていた。
なお、1973年(昭和48年)10月、当病棟は「鹿角5ケ町村精神病院組合」から「秋田県厚生連」へ譲渡され、名実ともに当院精神神経科病棟となったのである。

3.新病棟の構想

昭和50年代に入って、旧病棟の老朽化が病院の内外で取沙汰されるようになり、1980年(昭和55年)頃から病棟の改築が時間の問題となってきた。
いよいよ20年来の懸案解決のチャンス到来とばかり勇躍したスタッフ一同は、先進各病院を視察し、幾度となくミーティングを重ねて、鋭意新病棟はいかにあるべきかの構想を練った。我々スタッフ一同の構想と期待を盛り込んだ新病棟は、いよいよ1982年(昭和57年)7月着工の運びとなり、1983年(昭和58年)4月に、ついにその竣工を見るに至った。
新病棟は、西病棟1・2階と称し、各々実質60有余床の男女混合病棟である。その最もユニークな特色は、1階には最小限の格子を取り付けるが、2階には格子を取り付けず、1階と2階のディルームをゆったりした階段で連絡し、自由に上り下りできる様にして、日中は2階中央のドアを開放している、という事である。
従来、開放病棟と閉鎖病棟とを併設している病院では、いろいろの弊害が指摘されてきたが、その最たるものは前者の患者が後者の患者を見下し、優越感を持ち、他方後者の患者は前者の患者をうらやみ、劣等感を抱き、そして互いに反発しあうという傾向である。新病棟の特色はそうした弊害を極力防ぎ、お互いに同じ悩みを抱き、同じ目的に向って進む仲間同志なのだという意識を大事に育くんでいかなければならないという基本理念に基づいている。
その他には、喫煙室・喫茶店・作業療法室・作法室・体育館を新設した他、限られた敷地内という制約の中で、グラウンドを従来の2倍近くに広げる事ができた。

4.新病棟になってから

1983年(昭和58年)5月、新病棟のオープンを機に、従来の実績の上、かねて温めてきた画期的な開放的マネージメントに踏み切って今日にいたった。
それを以下に列挙すると、
(1) 金銭は、原則として患者が自分で所持する。
(2) 外出は、院内行事に支障がない限り、ウィークディ2時間以内で単独で自由とする。
(3) 喫煙は喫煙室、喫茶店、休憩室、ベランダでのみ可。
(4) 体育館、グラウンドをなるべく地域住民に開放して、交流に努め互いの理解を深める。
このようなマネージメントに切替えて、「今日は人の身、明日は我が身」を我々スタッフ一同のモットーとして掲げ、「明るくのびのびした精神科」を目指して努力してきた。
4年目を迎えた今日、常勤医2名(従来の精神神経科長1名が、精神科・神経科各科長計2名となる)、非常勤医1名、看護者42名(特T看護)のスタッフで、入院患者数はほぼコンスタントに126名前後であり、内容的には、ほぼ当初の目的を果し、経営的にも軌道に乗ったと言い得るであろう。

5.現状

新病棟になってから4年目を迎える今日、プラス・マイナス双方で色々な変化が認められる。
まず、そのプラスの面をあげると、
(1) 「明るくのびのびした精神科」作りには一応成功したと言えよう。「同じ患者さんでも病棟が違えば、そして運営のあり方が違えばこうも変るものかとビックリした。とにかく病棟の中が明るく和やかで、皆とてもユッタリしている」とは、約10年ぶりに再び入院したり勤務する事になった患者や職員が、異口同音に述べる感想である。
(2) 入院を渋る患者でも、試みに病棟を案内すると、存外アッサリ同意する事が多い。
(3) 退院したり、通院中の患者が、気軽に病棟を訪れて行事に参加したり、喫茶店等で皆と談笑したりする姿がよく見受けられる。
(4) 当初危惧していた無断離院などの事故が極めて少ない。これは、「信用されていると思えばその信用を裏切るわけにはいかない」とのある患者の述懐にうかがえるように、患者とスタッフとの間の、いわば管理する者・される者の心理的な隔たりが極めて少なくなり、かえってお互いの信頼が深まってきているものといえよう。

次にマイナスの点を挙げると、
(1) なかなか退院したがらない患者が増えてきて、「易(や)すきにつく」という一種のhospitalizationのムードが少しつつ瀰漫(びまん)してきている。
(2) 家族が「こういう所なら安心して預けていられる」という気持が強くなり、ますます患者から疎遠となり、態のいい「姥捨山」といったニュアンスが濃くなってきている。
(3) どうしても状態の良い患者が2階に、状態の悪い患者は1階に、というきらいがあり、当初の方針を堅持する事がなかなか難かしい実情である。特に安全対策上、1階に介助を要する痴呆老人が多くなり、勢い2階に比べて全体として沈滞したムードがある事は否めない。
(4) 老人患者が増える一方であり、スタッフは、その介護に追われ、精神科本来のレクリェーション、作業療法等に支障を来たしており、次第に老人病棟化の観を呈しつつある。
(5) 経営上の理由から、6人部屋が病室の大部分を占めているが、プライバシーの尊重という点からいろいろ問題があり、きめこまかな配慮と手直しが必要である。
(6) ごく少数の患者であるが、事毎に要求をエスカレートし、とめどなく権利を求め、それに伴う責任については全く念頭にないという傾向が認められ、少なからざる患者がともすればその声に同調し易いきらいがある。
しょせん「抱けばおんぶ、おえばあんよ」といった趣がある。

6.今後の課題

開設25周年を終るにあたり、その間20年近くを科長として在職して来た筆者の感慨は、極めて複雑なものがある。
たとえば、退院を渋る患者やその家族の相手をしていて、ふと「隊商が、その居心地の良さに、そのまま旅を止めて住み着いてしまう砂漠の中のオアシス」を想い浮べたり、せっかく良くなり退院した患者が、3ケ月、6ケ月も音沙汰がなく、そのあげく、元の木阿弥然として外来を訪れる。その姿を見ては、自分の営為を「海で溺れた者を救い上げて、元気になったところで再び海の中に追いやる」所業にたとえてみたりする。
あるいはまた、体面を気にしたり、世間態をはばかって、なかなか入院に応じない家族を見ていると、今更ながらにその背後にある精神障害に対する一般の人々の蔑視や偏見の根深さに思いを馳せたりする。
こうした事は、従来のいかに開放的なマネージメントとはいいながら、そして人手不足等の余儀ない事情があったとはいうものの、入院を中心とした精神医療の本質とその限界を露呈しているのではあるまいかとの思いが強いのである。
それにつけても、筆者がかねがね尊敬する、開放的な精神医療の先達である近藤廉治博士の述懐が、今さらながらに強い共感とともに、筆者の脳裏によみがえってくるのである。「どんなに設備のよい老人ホームでも、あばら屋に子供や孫といっしょに住む老人のしあわせには及ばない。いかなる人も社会の一員となって暮らすことを望み、人々がそれを暖かく見守ってやることが理想の社会であろう。」(近藤廉治「開放病棟」)
これからは、例えば患者宅への積極的な訪問指導、あるいは看護等を含む定期的あるいは随時の巡回精神保健活動の充実、退院後のいわば受皿ともいうべき社会復帰施設網の整備、といった地域社会ぐるみの開かれた精神医療、それとともに地域住民への精神衛生意識の啓蒙普及の方向に転換を迫られているのではなかろうか。
すなわち、病院にいて治す病院中心の精神医療のあり方から、社会にいて治す、あるいはケアする、そういう地域社会中心の精神医療のあり方への転換が必要なのである。その様な方向への態勢づくりが整ったなら、当科の病床数を半減する事が可能になろう。またそうしなければならない。その為には、今から病棟の再編成、スタッフの配置替、デイケア部門の新設ならびに充実等、現在の機構の抜本的な変革の検討が必要となろう。
せっかく明るくのびのびとした精神科作りに成功し、経営的にも軌道に乗った矢先、目前に今迄にも増して大きな難関を見る思いである。
しかしながら、自賛の下に進歩はなく、反省のない所に成長はない。
スタッフ一同ともども、けっして小成に甘んずる事なく、精神医療のより良いあるべき姿を求めて、今までにも増して、力強く着実な歩みを続けていこうとの想いを新たにする今日この頃である。

(昭和61年6月30日、精神・神経科開設25周年を終る日)

 
 
※鹿角組合総合病院は新築移転と同時に、平成22年5月より、かづの厚生病院と改名されました。