茅ヶ崎の文学.TBL 2006年11月28日 10:33 →2015.11.04旧データで復帰。誤植・誤変換の修正前の版です。

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ID

作者




場所
引用

1

夏目漱石
旧全集

思ひ出す事など(十)
300
茅ヶ崎
東京の方から余の居る所迄來るには、道路が餘りに打壊れ過た。のみならず、東京其物が既に水に浸つてゐた。余は殆ど崖と共に崩れる吾家の光景と、茅ヶ崎で海に押し流されつゝある吾子供等を、夢に見ようとした。

2
301
茅ヶ崎
余は夜の十二時頃長距離電話を掛けられて、硬い胸を抑へながら受信機を耳に着けた。茅ヶ崎の子供も無事、東京の家も無事といふ事丈微かに分かつた。

3
12
思ひ出す事など(十一)
302
十間坂
妻の手紙は〈中略〉茅ヶ崎にいる子供の安否についても一方<ヒトカタ>ならぬ心配をしたものらしかった。十間坂下という所は水害の恐れがないけれども、もし万一の事があれば、郵便局から電報で宅まで知らせて貰うはずになっていると、余に安心させるため、わざわざ断ってあった。

4

思ひ出す事など(二十五)
340
茅ヶ崎
彼等は未來の健康のため、一夏を茅ヶ崎に過ごすべく、父母から命ぜられて、兄弟五人で昨日迄海邊を駆廻つてゐたのである。父が危篤の報知によつて、親戚のものに伴<ツ>れられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、修禅寺迄見舞に來たのである。

5
正宗白鳥
旧全集

人間嫌い
405
茅ヶ崎
Kという作家が茅ヶ崎の病院に入院して、危篤に瀕してゐた時分のことである。あの時の文壇も、舊から新に移りかゝつてゐたのであつた。

6
12
文壇的自叙伝
98
茅ヶ崎
國木田獨歩が茅ヶ崎の南湖院で病死した時には、讀賣は全一ページを獨歩の記事で埋めた。明治以來今日まで、日本の文學者の死がこれほど大袈裟に新開に取扱はれたことはなかつた。それも、讀賣に於ける紅葉、朝日に於ける漱石のやうにその新聞社と特別關係のあつたものなら兎に角、獨歩は讀賣に何の縁故もなかつたのだから、たゞ文豪を尊重したためにさうした譯であつた。

7
我が生涯と文学
184
茅ヶ崎
彼は海岸や温泉で靜養してゐたが、病気の経過がよろしくないので、茅ヶ崎の病院に、院長の好意で入院した。人気があらうがなからうが、當時の文壇人の収入なんか零細なもので、悠長な入院治療は、獨歩のやうな家庭的繋累のある作家に出來る筈はなかつたのを、院長の同情によつて、ゆっくり療養してゐられたのだ。眞山青果は居を茅ヶ崎に移して、毎日獨歩を見舞つて、その病状を讀賣新聞に寄稿したり、或は、話好きの獨歩の感想を筆記して、後日一巻の「病牀録」として出版したりした。私は梅雨晴れの或日、岩野泡鳴に誘はれて見舞に出掛けたが、病院には田山花袋、吉江喬松、前田晃の諸君が來てゐた。當人の好む好まぬにはお構ひなしに、獨歩は、當時全盛であつた自然主義の巨匠にされて、頻りに評論の題目にされてゐたのだが、この時獨歩は泡鳴に向つて、人間の獣性を露骨に描寫する自然主義的作風に同感しないやうな口吻を洩らした。獨歩はかつて、或會合の席上で、酔つた勢ひで、「汝等の説は世道人心に害をなす」と、きびしい語調で、半獣主義の泡鳴を罵倒したことがあつた。

8
旧友追憶記
274
茅ヶ崎
花袋の「生」の出てゐる時分に、茅ヶ崎の病院に於ける獨歩の病状記が、同じ讀賣新聞に屡々掲げられてゐた。彼の病氣は次第に重くなつてゐたやうであつた。それで、或日、原稿持参で社に立寄つた泡鴫が、「これから獨歩を見舞に行かうぢやないか」と、私を誘つた。生前の獨歩に最後の面會をしようと彼は思つてゐたのだ。私は身體が弱つてゐる時ではあり、茅ヶ崎まで行くのは大儀であるし、死んで行く人に會ひたいと思つてゐなかつたので、一應は斷つたが、折角思立つた泡鳴も、一人では心進まぬらしかつたので、「ぢや、一しよに行つてやらう」と、私は恩に着せて同行することにした。彼は壜詰のマシマロを土産に買つた。私は社で使用してゐた乗車券を借りたので二等に乗ることになつて、彼もおつき合ひに二等切符を買つた。あの頃の例として二等室はガラ空きであつた。私は横になつて沈黙を守つてゐた。茅ヶ崎の病院へ行くと、田山、小栗、吉江、前田、その他何人かゞ見舞に來てゐた。見舞ひ人同士の間で暗闘があつたらしく、病院のほとりの宿に一しよに泊るのを快しとしない傾向があつて、私や泡鳴は、田山、吉江、前田の三氏に随つて、國府津まで行つて泊つた。私は頭の加減が悪くて憂鬱であつたが、他の人々も朗らかでなかつた。泡鳴一人が空はしやぎにはしやいで、藝者を呼んだりした。翌日再び病院を見舞つて、心の中で獨歩に別れを告げて、泡鳴と二人だけ、空いた二等車に乗つて歸京した。

9
自然主義盛衰記
330
茅ヶ崎
當時の自然主義作家の作品は、陰鬱でじめじめしてゐるのが多かつたが、秋聲のも大體鬱陶しいものであつた。獨歩は茅ヶ崎の病院で、「僕等病人は、秋聲君の小説のやうな陰氣なものは讀む氣になれない」と云つてゐたが、自然主義作家のものは、文壇での評判はよくつても、多數の讀者に喜ばれないのは當然であつた。

10
独歩と花袋
428
南湖院
病篤き獨歩を茅ヶ崎の南湖院に見舞つたことは、私の心に深く印象されてゐる。私は泡鳴と同行したのだが、病院には見舞客が大勢集つてゐた。獨歩は横臥しながら気焔を吐いてゐた。僕のやうに病氣で弱つとる者は、秋聲君の小説のやうな陰氣なものは讀めない」と云つてゐた。「自然主義もワーヅワースの詩のやうなものならいゝ」といふやうな事を云つて、泡鳴の自然主義なんかはきらつてゐた。「さういふ議論は君の病氣がよくなつてからしよう」と、泡鳴は論鋒を避けた。
 そして、病院を出て、花袋などとゝもに砂濱を散歩しながら、泡鳴は、「僕などの自然主義は、ワーヅワースなんかとはまるで違ふんだから」と、獨歩の無理解を非難した。「それはさうだね」と、花袋は同意した。
 死に行く者の自然主義と、生残る者の自然主義とを、私は心ひそかに思浮べてゐた。

11
山川方夫
全集
1
遠い青空
400
茅ヶ崎
僕の疎開していた神奈川県の二宮という町は、三浦・伊豆とならぶ二つの半島の根もとを北にゆるく抉った相模湾の、海岸線の恰度中央辺りにある。東京から東海道本線に乗れば、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮の順序でざっと一時間半あまり。小田原や国府津の手前である。

12
418-9
茅ヶ崎
因じはてて、僕は父ののこした本を整理のため売るという口実でそのいくらかを着服することに決めた。……だが、すると、運のいいことに、その茅ヶ崎の古本屋でアメリカ煙草が安く手に入ることがわかった。僕は早速本を売った金を資金に、洋モクのブロオカアをはじめることに決心したのだ。同類は学校にごろごろしている。捌くのに大した苦労はない。僕は勇をコして茅ヶ崎に行き、古本屋の親父と交渉した。茅ヶ崎には米軍戦車隊のキャンプがあり、交渉の最中にもパン嬢が二人ばかりおじさん煙草買ってと頼みにくる。――「交渉は成立した。
 月窓社というその古本屋は、茅ヶ崎の駅を海岸の方に降りて、少し右に歩いた右側にあった。それから週に一二度、朝の学校の行きがけに僕はそこへ寄って、薄暗い奥に火鉢を前に坐っている主人かカミさんに向って、黙ったままピョコンと右の親指を立ててみせる。すると彼らは赤褐色の鴎外全集のうしろを採って、いくつ? と言いながら蝋引の細長い函をとり出す。

13
日々の死
503-4
茅ヶ崎
 「向うの雑誌や新聞を読んでいるとね、まるで日本は戦争中と同じだよ。すごく雲行きの怪しい国なんだね」
 「そりや、朝鮮はすぐ近くですもの」島津が口を出した。「外国ではたぶん日本の一部だと思っている者が多いでしょう」最年長で幼年学校を出た彼は、木下と並ぶ河合にはもっとも遠くに坐っていた。
 「……おれはだけど、去年の今頃のほうがいろいろと面白かったな」河合はだれにともなくいった。
 「クリスマスは本国で、か。ずいぶん人が死んだな。茅ヶ崎の戦車部隊も全滅した」

14

その一年
60
茅ヶ崎
茅ヶ崎の米軍キャムプに出かけるのも、彼はその日が最初だった。横浜を立つとき、街はおぴただしい赤い光にまみれていた。夕映えは彼らの行先の西空をひろく染めて、金色にふちどられた雲の峯の下から、残照のまっすぐな光が車の輻のように放射状に幾条も空へのぼっていた。

15
62
茅ヶ崎
ヘッド・ライトが間近かな松林を照らし出した。蹲った形の、巨大なものがそこにあった。「戦車だ」と彼はいった。泥いろに塗られた大型の戦車が、松の間から、海の方向にななめに長い砲身をのばしていた。
 「見えたか」と兄がいった。「でも、あれははりぼてさ、模型だ」
 兄は笑った。正面に赤い電飾のついたキャムプの門があった。それが目的の部隊だった。信二は、それまで茅ヶ崎のキャムプが、戦車隊のそれであるのを知らなかった。
 「戦車隊は、白いアメちゃんはかりなんだ」兄は楽器のケースを引き寄せながらい1った。「あれはきっと、看板がわりなんだな」

16
73
茅ヶ崎
楽蹄は横浜のキャバレエが主な仕事だったが、そこでは信二はただ荷物を運んだり、譜を配ったりだけしていればよかった。茅ヶ崎には毎週水曜日ごとに通った。仕事をはじめる前のタンカース・インの舞台で、安達にそそのかされ、信二は一二度ドラムを打ったことがあった。鈍い反響をつたえるスティックの味はこころよかった。

17
87
茅ヶ崎
松林にかこまれた茅ヶ崎の米軍戦車隊は、周囲に有棘鉄線の高い柵を張りめぐらしてあった。それがときに野戦の設営地か、収容所にいるような印象をあたえる。けっして都会のそれのようなしやれた金網が張られているわけではない。
 タンカース・インの裏口を出ると、その有棘鉄線をからませた柵をこえて、いちめんの幼い松の葉が幾重にも黒い雲をかさねたように輝き、高い、なにに使うのかがわからない一本の鉄柱の左肩に、北極星が冴えて停っていた。なだらかにふくらむ丘の向うにある町はずれの住宅地は、二三の遠い灯りとしか見ることができなかった。

18
93
茅ヶ崎
信二も興奮してきていた。二本のスティックを使いながら、だが習貰のように、彼の目は沸きかえるように躍るさも愉しげな兵士と女たちの向うに、「黒の女」の姿をさがしていた。彼は、まだどうにも彼女に近づく機会をみつけられなかった。ただ、彼は茅ヶ崎にくるたび、いつも貯めこんだ一万円近い札束を内ポケットに入れてくることだけは忘れなかった。もし、いざという場合が、きたときと彼は思っていた。金のないことが現実に人になにを喪わさせるかを彼は知っているつもりだった。

19
105
茅ヶ崎
教室の大きなガラス窓に明るいなめらかな陽があたっている。学年試験がきていた。信二はそれを受けた。わずかな不足には煙草の回転資金をあて、信二は身分証明書を手に入れることができていたのだった。もう、煙草のブローカーをすることもできない。彼は馘になった。横浜や茅ヶ崎はあの日が最後だった。

20
111-3
茅ヶ崎
兄たちの楽団は茅ヶ崎に行くのをやめ、相かわらず横浜のキャバレエを根城にして、立川、朝霞や、麻布の騎兵旅団などをまわっていた。

21
116-7
茅ヶ崎
「なによう、のん気なこといって、御旅行かい、だなんてよう」肩をむき出しにした黄いろいワンピースの女は、ほがらかで、そしてひどく醜かった。「コーリヤでよう、はじまってっだろ? あたいたちねえ、茅ヶ崎がだめになってよ、ここで稼いでたんだけんどよう、さっばりなんだえ、そいで皆で九州に行くことにしたんだ、あっちは兵隊でいっばいだってからよう、金も、うんとおとすってからよう」女はトランクを置き、ネッカチーフの風呂敷をゆすり上げた。相模なまりをまる出しにしていた。

22
坂口安吾
定本
13
書簡43
311
茅ヶ崎
小生、茅ヶ崎に家を借りる約束になっていますが、今の仕事が出来あがらないと、それも動けません。

23
獅子文六
全集
14
へなへな随筆
264
茅ヶ崎
夫人が、突然来訪して、今度、大森を引き払い、茅ヶ崎へ移転すると、暇乞いにきた。

24
265
茅ヶ崎
初夏の晴れた臼だった。私は土産物を持ち、ハカマを穿いて、茅ヶ崎へ出かけた。当時の茅ヶ崎は、駅を降りると、人家も少く、砂地の道の両側は、果樹園だった。手紙の案内図で、辻堂の方角へ歩いて行くと村道沿いに、ポッツリと一軒立ちの、小さな新築の家で、すぐわかった。

25
私たちは海岸へ、泳ぎに行った。神学生は帰り、夫人とイサム君と三人で出かけた。海岸は、海水茶屋もまだ建たず、漁師が網を曳いていた。
 私はすぐ猿又一つになった。夫人は、こっちを見るなといって、砂浜に跼み、海水着に着替えた。見るなといっても、白いオシリが見えた。
 泳ぐ時に、私は先刻の煙草のウップンもあり、男子の腕前を見せてやろうと思った。浪の荒い日で、紺碧のウネリが、真ッ白に砕けるなかに跳び込み、沖に向って、抜手を切った。ところが、後から水へ入った夫人が、素晴らしい速力で、私を追い抜いて行った。

26
団十郎別荘は平和町七丁目の児童公園に石碑あり。鉄砲道沿い。
獅子文六
全集
14
へなへな随筆
266
茅ヶ崎 団十郎別荘
団十郎の別在の跡が、今、茅ヶ崎のどの辺にあるのか、見当もつかないが、鬱蒼と繁った林と、丘と、あまり細巧を凝らさない庭とは、かなり広い面積を占めていた。それから、平家造りの、これまた業々しくない家が、小高いところに建ち、全部、雨戸が閉めてあった。庭に夏草が長く、どこにも、人一人、いなかった。

27

獅子文六
全集
14
へなへな随筆
267
茅ヶ崎
それきりで、私は、再びイサム君にも、レオニード夫人にも、見<マミ>ゆる機会がなかった。英語勉強の殊勝な志も、長くは続かず、茅ヶ崎通いの勇気を失ったらしい。

28
福田正夫
敗戦直後

敗戦直後
99
茅ヶ崎


29
ハガキの表記。
八木重吉
全集

書簡
403-6
南湖院
(神奈川・茅ヶ崎局より)

30

八木重吉
全集

年譜
467-8
南湖院
大正一五年・昭和元年(一九二六) 二八歳 五月、神奈川県高座郡茅ヶ崎町の東洋内科医院の分院南湖院に入院する。七月、内藤卯三郎がイギリス留学を前にして病院を見舞う。やがて茅ヶ崎町十間坂五二二四(現在、茅ヶ崎市)に家を借り、自宅療養に入る。

31
義父の別荘が東海岸北3-10-4の聖鳩幼稚園あたりにあった。
柳田国男
全集

水曜手帳
9
茅ヶ崎
茅ヶ崎で疉鰯を手に入れてうまかつた。

32

柳田国男
全集

橋の名と伝説
530
茅ヶ崎 小和田 涙橋
涙橋。相模高座郡の小和田。東海道を横切る小流れに架かつて居る。この近くの茅ヶ崎にも仕置場があつた。そこへ行く時に渡つたからだらうといふが(神奈川縣誌)、ことによると單なる念佛橋だつたかも知れぬ。

33
27
山島民譚集(二)
204
茅ヶ崎 烏帽子岩
自分は相模の濱<ハマ>に在つて屡々<シバシバ>海々の烏帽子岩を眺めた。其形は能<ヨ>く立烏帽子に似ては居るが、諸處の烏帽子嶽烏帽子岩は必ずしも形似の命名で無いと思つて居る。茅ヶ崎邊<アタリ>の老人は今でも之<コレ>をヂンヂバンバと呼ぶのである。今は孤岩であるが此も元は一對<イッツイ>の老いたる女夫岩であつて、何れの歳かの荒波に其<ソノ>偶を失つたものかと思はれる。

34
有島武郎
全集

恥なき生活
431
茅ヶ崎南湖院
國木田獨歩がその晩年、茅ヶ崎南湖院の病牀で、ある人に、「余は善悪を見ず、唯恥を恐る。余は恥なからん爲めには如何なる悪事をも爲すに躇躇せざるべし。」と言つたといふ。

35
12
日記
233-4
南湖院
 1917 DECEMBER 7.Fri.Very windy and cold. Accompanied 足助 to 南湖院,茅ヶ崎.Returned home by the evening.lnformed about 足助 to 原,河内.隆三 pair came in the night.Letter from 生馬.Russia seems to have negotiated peace treaty with Germany.

36
13
書簡531
373
茅ヶ崎
只今歸りつき候處母上様ハ既ニ御歸宅にて久振りニお目ニ懸候様存上候 小供等ハ敬子ちやんと何處かに參りてあらず候 茅ヶ崎より眞ニ思ひもかけざる老婦人乗りこみ侯 名は暫くおあづかり申置くべく候間あてゝ御覧なさるべく侯 君の上に非常な好意を有し君もすきな人に候 一緒に鎌倉まで參候

37
書簡1137
657
茅ヶ崎病院
今でも妻は矢張り生かしておきたかつたと思ひます。御良人や御子供達が祈り願つて居らるゝ所も亦同様だと思ひます。許されるなら――永生きして上げて下さい。是れにつけても茅ヶ崎病院は、私のある経験によればけしからぬ所の様に思はれます。

38
立原正秋
全集

海岸道路
9
茅ヶ崎
鎌倉を中心にして海岸道路は左右にのびていた。左は江之島、茅ヶ崎を経て大磯、小田原に至り、右は逗子を経て葉山に至る道である。

39
5
刃物
379
茅ヶ崎
そして三堀良平は、辻堂駅前で二人に別れた。彼は、茅ヶ崎の方に歩いて行った。長洲も一度彼の家に行ったことがあったが、そこは、古びて使いものにならないような広い屋敷だった。彼はそこで老母と四つになる娘と暮していた。

40

恋の巣
17
茅ヶ崎
〈春のいそぎ〉の打ちあわせで演出家とつれだち茅ヶ崎の秋篠の家を訪ねたのは前年の九月末だった。

41
22
茅ヶ崎
「今日は、お食事のあと、まっすぐ茅ヶ崎にお帰りになりますの?」

42
26
茅ヶ崎
梓は秋篠が五日の舞台まで帰ってきてくれればよいが、と念じながら、しかし二日の午後茅ヶ崎を出たのなら、とても五日には帰ってこないだろうとも思った。五日といったら明日だった。

43
39
茅ヶ崎
〈恋の巣〉がどんな内容の劇なのか、梓は知らなかった。演出はやはり石橋啓輔が担当することになり、彼は、その件で、六月のはじめ、製作担当の工藤松雄といっしょに茅ヶ崎に秋篠を訪ねて話をきいてきたが、やはり秋篠は劇の内容を語らなかったそうである。

44
43
茅ヶ崎
「まさか、なかに入って行き、あなたの娘を好きになっている男です、と告げるわけにも行くまい」
 「あたしを好きだとおっしやるのが本当なら、もっと鎌倉においでくださるはずです。……あたしは茅ヶ崎に行けないではありませんか」

45
63
茅ヶ崎
梓が入浴を終え、それから身支度をして家を出たのは二時すぎだった。鎌倉から秋篠のところに電話をかけるよりも、茅ヶ崎に行って呼びだしてやろう、と決めたのである。春いらい、秋篠から等閑にされた日々を想いかえしたとき、梓は、自分のなかに刻みつけられた彼への恋情が、いままでよりいっそう燃え熾<サカ>るのをおぼえた。ああいう風に女を冷たくあつかうのは、あのひとの生得のものだろうか。彼がいまなお自分に好意をよせていることは判っていた。こちらがそれに応えようとしているのに、秋篠ははぐらかしていた。あのひとのなかで何かわだかまりが芽ばえてしまったのだろうか。
 梓は茅ヶ崎駅を降りると、秋篠の家に電話をした。電話口に出てくるのは秋篠の妻だろう。秋の芝居のことで相談したい、と秋篠の妻に受け答えする嘘は日曜日の夜から考えていた。しかしダイヤルをまわしながら、もし電話口に秋篠が出てくれたらどれほど助かるだろう、と思った。

46
64
茅ヶ崎
「いま茅ヶ崎におります」「茅ヶ崎になにか用でもあったのか」

47
「藤乃家」は虚構か。
立原正秋
全集

恋の巣
64
茅ヶ崎 新栄町
「それでは、駅前から車に乗り、運転手に新栄町の藤乃家と言えば判る。そこへ行って待っててくれ。藤乃家には電話しておくから」

48

立原正秋
全集

恋の巣
65
茅ヶ崎
「しかし茅ヶ崎に来るのはよくないな」

49
75
茅ヶ崎
テレビ局からはその日の夜のうちに電話があった。相手はテレビプロデューサーとしてはかなり名の売れた若手の田沼秀夫という男だった。明日の午後、茅ヶ崎の秋篠の家に行きたいが、都合はどうか、という話であった。梓が承知すると、車で行くからそちらに寄る、ということだった。

50
それから二十分ほどして梓は彼等といっしょに茅ヶ崎に向かった。外はあいかわらずの雨だった。

51
76
茅ヶ崎
「ついいましがた茅ヶ崎に出かけられましのに……」
 と富美子は目を伏せながら言った。

52
105
茅ヶ崎
梓は松林を降りると、茅ヶ崎とは反対の方向の鎌倉市内にでた。

53
106
茅ヶ崎
生田は茅ヶ崎の秋篠の家に電話のダイヤルをまわした。電話口に出てきたのは秋篠の妻で、すぐ秋篠がかわって出てきた。

54
110
茅ヶ崎
「これから秋篠さんに電話して、ここへ来てもらうなり、あるいはこちらから茅ヶ崎に行くなりしようじゃないか。打ちあわせは早い方がよい」

55
113
茅ヶ崎
梓はおきぬけに茅ヶ崎の秋篠に電話をした。電話口に出てきたのは秋篠の妻ではなく、別の女の声だった。間もなく秋篠が出てきた。

56
127
茅ヶ崎
彼はホテルについたあくる日の午後、近くの未来座に自作の芝居の稽古を観に行った。彼は茅ヶ崎の藤乃家いらい梓には逢っていなかった。梓から数度のこと電話連絡はあったが、彼は、梓がある程度戯曲になれるまでは逢うまいと決めていた。

57
147
茅ヶ崎
「お待ちになって。……今夜は茅ヶ崎にお帰りではないでしょう?」

58
萩原朔太郎
全集
14
大手拓次君の詩と人物
305
茅ヶ崎
後年肺を患つてから、彼は茅ヶ崎の病院に一人で臥て居た。そして毎日、海鳴りの音を廳<キ>きながら詩を書いて居た。私はその遺稿を見て悲しくなつた。それは女の子の小箱に張る千代紙で、手製の表装をした和紙の本に細い紅筆のやうなもので詩が書いてあつた。その詩は皆短かい小曲で、

 今日もまた便りが來ない
 もう何もかも夢のやうに消えてしまつた。
 残るものは涙ばかりだ。
 涙ばかりが殘つてゐるのだ。

 といふ風な歌が、いくつもいくつも繰返して書いてあつた。

59
山本周五郎
全集
20
四年間
93
茅ヶ崎
「君は茅ヶ崎へ帰ってくれたまえ」昌子のほうは見ようともしないでそう云った。

60
94
茅ヶ崎
茅ヶ崎の家へ帰ると、庭の砂場で遊んでいた甥と姪がとんで来た。

61
99
茅ヶ崎
茅ヶ崎の家へ帰ると昌子が出迎えた。


茅ヶ崎の文学.TBL 2006年11月28日 10:33

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ID

作者




場所
引用

62

山本周五郎
全集
24
秋の駕籠
243
南湖
二日目は藤沢の西の、南湖という間の宿で泊まった。

63
吉野秀雄
全集

病床日録
33
茅ヶ崎
○正午、結子、龍太連れて来る。戸塚の借家の方はやめて、茅ヶ崎にせしよし。引越祝(?)として五千円やる。

64
若山牧水
全集
12
書簡1920(T09).2.9
479
茅ヶ崎
藤澤茅ヶ崎あたり、梅のまさかり、國府津では一層多く椿の大きい樹も眞赤に花をつけて混つていた

65
岡本かの子
全集

浴身
174
茅ヶ崎
茅ヶ崎の 丘邊の松の ふかみどり 雨をふくみて 重重と停<タ>つ

66
国木田独歩
全集

書簡1908(M41)年
549
茅ヶ崎
 二月五日 齋藤謙藏 清子宛 茅ヶ崎南湖院より
 二月五日 杉田恭介宛 相模茅ヶ崎南湖院

67
551
茅ヶ崎
 二月六日 奥井君子宛 茅ヶ崎南湖院より
 二月六日 國木田治子宛 茅ヶ崎南湖院より

68
552
茅ヶ崎
 二月八日 前田木城宛 茅ヶ崎南湖院より
 二月八日 吉江喬宛 茅ヶ崎南湖院より
  夕暮に風起り波音高く候
 病室は青松砂丘の間に點在致し居侯。發熱の際は殆ど生きたる心地もなく鬱々として床に横はり居り候へ共さもなくば火鉢を擁して空想に眈り居侯お手紙待ち入り侯、又た讀み物何でもよろしく御送り被下度願上候。

 二月十二日 田山花袋宛 茅ヶ崎南湖院より

69
554
茅ヶ崎
 二月十六日 杉田恭介宛
  一昨日一家族悉く茅ヶ崎に移轉仕り候
 二月二十日 前田木城宛 茅ヶ崎南湖院より

70
555
茅ヶ崎
 二月二十一日 小山内薫宛 茅ヶ崎南湖院より
 二月二十四日 杉田恭介宛
  南湖院の第三病室にして小生は此の最左端の一室を占め居候

71
556
茅ヶ崎
 三月二十一日 前田木城宛 茅ヶ崎南湖院より
 三月二十二日 吉江孤雁宛 茅ヶ崎南湖院より

72
557
茅ヶ崎
 五月八日 真山青果宛 茅ヶ崎南湖院より
 六月三日 真山青果宛 茅ヶ崎南湖院より
 六月二十二日 吉江孤雁宛 茅ヶ崎南湖院より

73

病牀録
23
柳島
 余の疾病は全治する見込ありと云ふや。假令全治せずとするも,枕頭筆硯と親しむの時を一日の唯一刻に於ても與へ得る見込ありと云ふや。せめて數日,柳島(茅ヶ崎南方の河口、病院より二丁餘)に綸を垂るゝの間を得せしむるの見込ありと云ふや。果して在りと云はゞ、余は如何なる苦痛をも喜んで辭せざる可し。嗚呼、足の地を蹈まざる事、茲に殆ど百日。

74
38
南湖院
南湖院に來りしは今年二月。初めの程は、晴れて穏かなる日は絶えず室外に出でたるも、今は只病床に臥して、徒らに外面の景色に思を馳するのみなり。余が病やゝ怠りて、再び起つの日は何時ぞ。想へは入院以來こゝに六十餘日、あゝこの六十有餘日は、余に取りて短き月日にはあらざりしなり。
    ○
 病臥して最も苦痛を感ずるは、變化ある窓外の景色を眺むる事態はざる一事なり。變化なき室、變化なき床の上に横はりて、波の音を開き、松に吹く風の聲を開き、凧の音を聞き、室に啼く雲雀の音を聞きて、網の張られたる窓外の景色に非ざれば、見る事能はざる吾身に念ひ及ぶ時、余はつくづくと今の吾身の儚さを感じ、而して窓外の景色に憧るゝの念一層深く止み難きを覺ゆ。

75
茅ヶ崎をイメージ悪く書いているが、それけ独歩の病状が悪くなっているのである。
国木田独歩
全集

病牀録
94
南湖院
茅ヶ崎の砂は鎌倉に比して色黒く粒大なり。風物荒涼たる所以なり。
 茅ヶ崎の空氣は蒸し、肺を病む人には適さざる如し。又濕と乾との差も甚だし。
 茅ヶ崎は松と麥と甘藷の外、目を慰むるものなし。

76

里見ク
全集

潮風
432
茅ヶ崎
石鹸水<シャボン>水<ミヅ>のやうな一面の泡が首のまはりを擽りながら、パチパチはじけ散り、早瀬の勢で、茅ヶ崎の方へ押し流して行く。

77
高見順
日記

日記
248
茅ヶ崎
 座席はなかったが、茅ヶ崎あたりで通勤者が降りるかもしれない。それに乗って、母は行くことになった。

78

日記
261
茅ヶ崎
 横山氏よりの来翰。十時二十三分茅ヶ崎着でおいでを乞うとある。二時十分茅ヶ崎発で出京する故、昼食を共にしながら話をしたい……。

79
田畑修一郎
全集

悪童
82
茅ヶ崎
印象に殘つてゐるのは、茅崎の病院に信雄を訪ねた折のことである。行助は現在の會社に入社早々北海道に廻されてゐた時分で、病気のことを聞き、入院のことも聞いたが會ふ機会がなかつた。社用で東京へ出た折、茅崎まで訪ねて行つた。

80
74
茅ヶ崎のN病院
體格検査の際に、係官から肺尖カタルを指摘されたので、一たん歸省した信雄は五月頃又上京して、茅崎のN病院に入つた。N病院ではその年の冬までゐて、途中で又獨斷で退院して今度は伊豆の大島に渡つた

81
坪田譲治
全集

兄弟仲良く
158
茅ヶ崎 南湖院
胸の病気になったのです。そして茅ヶ崎の南湖院と言うのに入院しました。一年も入院していたのです。

82
後悔先に立たず
279
茅ヶ崎
それから一年、私は、茅ヶ崎の、南湖院と云う、いわゆるサナトリュームで暮すことになりました。

83
12
理想と現実
190
茅ヶ崎
しかし病院は思いのほかに明るいところでした。軽い患者ばかりでした。松林の中に籐椅子などをもち出して、寝ころんでいたり海岸の砂浜に、毛布をしいて、その上に寝ている人などもいました。〈中略〉ちょうど、季節は秋で、空も海も蒼々としていましたし、その海を一日一度はスクーナ型の帆の船がゆるゆるとすべって行きました。〈中略〉病院、海に沿うて、東西一キロ、南北五百メートルの上と思われる松林の中に、六、七棟の大きな建物が立っていました。

84
189
南湖院
明治四十五年というのは、大正元年と同じ年です。私は胸をわるくして、神奈川県茅ヶ崎の南湖院というのにはいりました。〈中略〉「もうこの南湖院から、生きて、学校へ帰れることはないだろう。」
 そんなことを考えて、松林の茂っている海のにおいのするその病院へはいって行きました。

85

兄弟仲良く
158
南湖院
胸の病気になったのです。そして茅ヶ崎の南湖院と言うのに入院しました。一年も入院していたのです。

86
広津和郎
全集
12
年月のあしおと
239
茅ヶ崎
十月二日に私は長田と間宮茂輔(これも社員であった)と三人で、無蓋貨事の列車に乗って、大阪に出かけて行った。それは大阪、京都、神戸方面の取次店から集金をするためであった。その間馬入川の鉄橋が落ちていたので、茅ヶ崎、平塚間を徒歩連絡したり、箱根山中にも、ところどころ、トンネルの中を徒歩で行かなければならないところなどもあったりしたが、そんな風にしてやっと大阪に著き、翌日手分けして、大阪、京都、神戸をまわって見ると、何処も十月一日にモラトリウムが解けると同時に∪がまわって、みんな集金をしてしまっていた。

87
吉井勇
全集

続明石島蔵
116
烏帽子岩
かうして私は岩本(江ノ島の岩本楼という旅館)の奥の方の崖に近い座敷で、烏帽子岩の周りに鴎の飛んでゐるのを眺めながら、墨水さんの話を聴いたのだつた。

88
内田百
全集

凸凹道
233
茅ヶ崎
お寺の座敷で、山部と夕食をした。今晩は私もそのお寺に泊まり、明日一緒にここを立って、茅ヶ崎の病院まで私がついて行く事にした。

89
234
茅ヶ崎
それから茅ヶ崎の病院へ行つたのだらうと思ふ、何故だかどうもはつきりしないところがある。美しい看護婦が、天狗の兜巾<トキン>の様な物を口にあてて、さつさと廊下を行くのが不思議であった.西班牙<スペイン>風<カゼ>の流行する前なので、呼吸器と云ふ物を知らなかつた。呼吸器とは氣管や、肺臓の事ではなく、流行感冒の豫防に口にあてるマスクの事をさう云つたのである。看護婦の兜巾は呼吸器であつたと云ふ事を、ぢきに後になつて知つた。

90
235
茅ヶ崎 駅
茅ヶ崎の驛には陸橋がなくて、自分の乗つて來た汽車が出てしまつた後、線路を渡つて向うに越すのである。何度も行くうちに驛長さんの顏も覺えた。その驛長さんがそれから間もなく茅ヶ崎驛を通過する列車に解れて殉職した。又山部の下宿の近所の青年は新らしく買つたかんかん帽をかぶつて、汽車に乗り、動き出してから窓をのぞいた拍子に、かんかん帽が飛んだので、次の驛で降りて、線路傳ひに拾ひに歸る途中、汽車に轢かれて死んだ。

91
驛からその下宿までの道は大分遠いので、暑い日には俥に乗つて行つた。しかしやつと行き歸りの汽車賃だけしか持つてゐ

92
236
茅ヶ崎
ないと云ふ様な事が多かつたので、さう云ふ時には、熱い砂を蹈んで陰のない道を歩き、ある時は途中で目がくらんで殆ど倒れさうになつた。疎らな松林の中に井戸があつたので、その水を汲んで漸く元氣をつけた事もある。若い時の友情と云ふものを自分から離して眺めて見ると、寧ろ不思議な氣持である。山部が淋しがつて待つてゐるだらうと思ふだけで、必ず一週に一度か二度は茅ヶ崎に行かないと、今度は私の方が落ちつかない。

93
茅ヶ崎 駅
初秋のある日、茅ヶ崎の下宿でその人に曾つた。おあいさんと云ふ名前であつた。薬罎をおいた床の間に、提琴の筐が立てかけてあつた。.三人で一緒に鳥鍋を食ひ、私は酒を飲んだ様である。邊りが暗くなつてから、私は歸つた。闇夜で風がなくて、手に持つた提燈の灯が次第にふくれて大きくなる様に思はれた。いつも通つてゐる、勝手を知つた道の角を曲がる度に、非常に恐ろしい所へ蹈み出す様な気がして、しまひには自分の足音を聞くのも怖くなつた。向うに、暗い田園の中に、割りに幅の廣い道が薄白く眞直ぐに伸びてゐる。これからその道を渡つて行くのが大きな池か海の中に這入つて行く様に思はれて、足が立ち疎んだ。
 驛に近い人家の灯りの見える所へ出るまで、私は夢中で馳け出して、いつの間にか提燈の灯が消えてゐた。

94

無伴奏(時は改変す〈七〉)
384
茅ヶ崎
辻堂、茅ヶ崎あたりからの直線線路で本格の特別急行らしい速さになり、結滯でもつれた胸の中が眞直ぐになる思ひがした。

95

特別阿房列車
22
茅ヶ崎
自分がなんにもしないのに、その自分が大變な速さで走つて行くから、汽車は文明の利器である。辻堂茅ヶ崎の邊りの線路が眞直い所では、線路の切れ目を刻む音を懐中時計の秒針で數へて見ると、一時問四十三哩から四十五哩ぐらゐの速さで走つて行つた。

96
10
夜明けの稲妻(松笠鳥〈一〉)
126
茅ヶ崎駅
茅ヶ崎、平塚のあたりの邊逢の砂濱に、幅の狭い、水が流れてゐない砂川が所所海に向かつて注いでゐる。
 ふだんは川底は乾いてゐるが、少し雨でも降れば、さらさらと水は流れるのだらう。
 向うの海は茫漠たる太平洋で、だから前を遮る島影もなく、左右に迫る岬もない。そのなんにもない水天一碧の海原に口を開けてゐる砂川の兩岸には、あまり脊の高くない松竝木が行儀よく生え揃ひ、枝の間で同じ節の、同じ音色の小鳥が可愛い聲で鳴き續ける。
 甲高い張つた調子で、短かくギイギイギイと聞こえる。
 姿ははつきりわからないが、枝の間をひらひらするのは、四十雀よりもつと小さい、非常に敏捷に動き廻る小鳥の様であつた。

97
手許に鳥類事典、鳥類圖鑑がないので、祖母に教はつた遠い昔の記憶を辿るだけで、正確に調べて正體を突きとめる事が出来ないが、なぜこんな小鳥の話などを持ち出すかと云ふに、初夏から夏にかけて頻りにその松笠鳥が鳴いてゐた茅ヶ崎の病院に寝てゐる病友の彼を思ひ出すからである。
 長い病院生活の後、小康を得た彼は、東京へも郷里へも歸らず、矢先り茅ヶ崎の農家の一室に間借りして療養生活を續けた。その間も何回となく見舞に出掛けたので、あのあたりの松笠鳥の鳴き聲には一層馴染みを深くした。

98
夜明けの稲妻(松笠鳥〈六〉)
136
茅ヶ崎駅 南湖院
南湖院へ何度も見舞に行つた。彼が病院に寝てゐたのは夏の暑い間で、茅ヶ崎驛で汽車を降りてから、病院まで歩いて行く間の暑かつた事が忘れられない。
 病院は木造平家建てのバラツクみたいで、少し強い風が吹いたら吹つ飛んでしまひさうに思はれた。長い廊下の兩側は全部病室で、どの部屋にも肺病患者がおとなしく寝てゐるのだらう。さう思ふと一種森巖な氣がした。

99
夜明けの稲妻(松笠鳥〈七〉)
138
茅ヶ崎駅
今度は三崎の様な遠万でなく、松笠鳥の鳴く海邊に近い茅ヶ崎の農家の一室を借りて、彼は腰を落ちつけ、轉地療養に専念してゐる。

100
139
茅ヶ崎駅南湖院
南湖院は近いし、少し良くなつた病人がその後の養生をするのに、いくら建てても足りない程だつた様である。

101
茅ヶ崎駅
茅ヶ崎は東京から近いが、しかし出掛けるには矢張りお金が掛かる。最初の時以来質屋通ひは一一覺えてもゐないけれど、茅ヶ崎へ行く爲に何遍質屋の暖簾をくぐつたかわからない。或る時など、どう云ふ都合だつたのか忘れたが、茅ヶ崎驛で下車して彼の療養先へ行く道に出るには、蹈切りを渡る。その下りの蹈切りの手前にある薄暗い宿屋に一晩泊まつた事もある。一夜を明かして、それから彼の所へ出掛けた。その必要があつた前後の事情は忘れてしまつた。

102
茅ヶ崎駅南湖院
又夏である。或は初秋だつたかも知れない。松笠鳥はまだギイ、ギイ、ギイと鳴いてゐた。
 彼が今ゐる農家へ行くには、馴染みのある南湖院の門前を通る。初めの内は病院の板屏に治つて行く。その切れる前に屋根のある井戸があつて、日陰になつてゐるので一寸休むのに都合がいい。彼の所への行きがけでなく、歸りの道が餘り暑くて、目がくらみさうになり、その井戸のそはで一息入れた事を思ひ出す。

103
茅ヶ崎駅
暗い野道を歩いて來て、茅ヶ崎驛の下りの蹈切りを渡るあたりに、まだ思ひ出す事があるが、松笠鳥は一先づこの邊で止める。

104
斎藤茂吉
全集

思出す事ども
29
茅ヶ崎
その夏僕は今の妻を連れて茅ヶ崎に行った。妻はその時まだ十歳の少女であった。

105
谷崎潤一郎
全集

彷徨
112
茅崎(茅ヶ崎)の南湖院
猪瀬の身に取つては、今度の病氣はいろいろの意味から重大な出來事であつた。高等學校の攝生室に半月、駿河臺(スルガダイ)の病院に一と月、それからこの茅崎の南湖院に一と月、其の間晝(ヒル)となく夜となく熱に浮かされた頭の中は、青年時代にありがちな相背ける主義だの思想だのに悩まされ通しであつた。

106
116
茅ヶ崎の病院
「死」と云ふ問題――寧(ムシ)ろ「生」と云ふ問題が、今迄(イママデ)囈語(ウワゴト)のやうに神の御名を讃へて居た彼の頭脳に、始めて眞實(シンジツ)の響を齎(モタラ)した。
 容態が軽快に赴いて、茅崎の病院に初夏の長い日を送るやうになつてから、彼は屡ゝ(シバシバ)此(コ)の問題に逢着した。

107
118
南湖院 烏帽子岩茅崎(茅ヶ崎)の停車場
病院の後の砂浜には直ぐに波が打ち寄せて居た。彼は朝早く起きて海岸の沙地を踏みつけながらぶらぶら運動するのが、一週問ばかり日課のやうになつて居た。で、この朝も同じやうなことを考へながら櫻のステッキをついて散策に出かけた。
 麻裏草履の隙間から露にしめつた濱邊(ハマベ)の沙が足の裏へ冷やかに觸(フ)れる。青い空と青い海とを眼の前にして、沙山一面につゞく丈の低い小松の、葉毎に呼吸をする中をさまよつて、潮の香の高い空氣(キ)を深く深く吸ひ込むと、枯れかゝつた命の根が次第々々に培はれて行くやうに思はれた。うすれて行く海上の靄の中から江の島烏帽子岩を始め、伊豆三浦の半島が姿を見せて居る。富士の頂邊(テッペン)にはもう日が射して山上の雪に反射して居る。河原の廣(ヒロ)い馬入川の川口の砂礫の上に、鴎が五六羽群がつて、時々つぶてのやうに飛んで行つた。歩くにつれてネルの單衣(ヒトエ)に包まれた彼の肌は、ホツと汗を掻いて微かなぬくまりを感じた。覺束(オボツカ)ない彼の足どりも此(コ)の頃は確(タシカ)になつて、小松原を縫ひながらあてどもなく歩くうちに、いつか茅崎の停車場へ出た。

108

388
茅ヶ崎
宗兵衛はまだ通ひ番頭をして居る時分から、どんな工面をしても、倅(セガレ)を大學(ダイガク)までやらせる決心であつた。幸に倅は去年の春、中學を優等で卒業して、夏には首尾よく一高の一部へ入學したが、あんまり勉強の度が過ぎたのか、十一月の始めにとうとう肋膜(ロクマク)を病んで、茅ヶ崎へ入院して了つた。成績が好ければ好いで、矢張り心配は絶えないものと、夫婦は其の當座(トウザ)氣(キ)が氣(キ)でなかつた。

109
389
茅ヶ崎 南湖院
内氣(ウチキ)な美代子は、学校朋輩の少いところから、自然宗一を頼みにして、最初は極めて罪のない交際を續(ツヅ)けて居た。彼等が知らず識らず、自分達の周囲へ愛情の短根を結(ユ)ひ繞(メグ)らして了つた事を自覺(ジカク)したのは、茅ヶ崎と東京と、別れ別れに日を送るやうになつてからであつた。
 「己は美代子を戀(コイ)して居るのではあるまいか。若(モ)しやかう云ふ状態が、『戀』と云ふものではあるまいか。」と,宗一は南湖院の病室の寝室に据ゑられながら、始めて容易ならぬ關係を悟つた。美代子も宗一が茅ヶ崎へ行つてから、急に濱町(ハマチョウ)の家が寂しく感ぜられて、動(ヤヤ)もすれば學校の仕事が手に就(ツ)かず、ぼんやりと考へ込むやうになつた。
 「美代ちやん、此(コ)の頃はさつぱり元氣(ゲンキ)がないぢやないか。」
 かう云つて心配してくれるお品の素振さへ、何となくあいそがなくて、あれほど懷(ナツカ)しかった「叔母さん」が,今更赤の他人のやうに恨めしくなつた。小田原へ歸省(キセイ)するついでに茅ヶ崎を訪ねようとしても、土曜日曜には大慨(タイガイ)迭(カワ)る迭(ガワ)る見舞に行く宗兵衝夫婦の思はくを兼ねて、さう足繁くも立ち寄れなかつた。

110
495
茅ヶ崎
宗一に取つて、今年ほど忘れられぬ年はあるまい。去年の秋から持ち越した肋膜(ロクマク)の大病が漸(ヨウヤ)く直つて命拾払をしたのも今年である。初戀(ハツコイ)の味を舐(ナ)めてから、此(コ)れまでの人生観が動揺し出したのも今年である。茅ヶ崎から歸(カエ)つて半年の間に茶屋酒を飮む度胸も附(ツ)いた。親を欺(アザム)く行爲もあつた。

111
23
気車の車窓から
418
茅ヶ崎
上方から夜汽車で行つて沼津あたりで眼をさまして、きれいな富士が見える時はちよつとすがすがしくなるが、箱根山中からそろそろバラックのトタン屋根や、崖崩れのあとの赭く禿げた山の肌や、地震の慘害がまざまざと殘つてゐるのが眼をいたましめる。それも大磯、平塚、茅ヶ崎へんまではさすがに空もうつくしく、自然の風物がゆたかであるからさほどでもないが、戸塚から程ケ谷へかゝると、あの有名な、あそこを汽車で通るほどの人は皆知つてゐた昔の東海道の悌をとゞめてゐた松並木――その松の下に五六軒の百姓家が向ひ合つてゐて、古い茅茸屋根の上にあやめ草が伸びてゐた、あのなつかしい廣重の繪を見るやうな一區劃がむざんにも荒されて、全く奮態を殘さないまでに變つてゐるならまだいゝのだが、茅葺屋根の間に交つてトタン屋根か入れ齒のやうに白つちやけてゐるのなどは、せめて何とかならないものかとしみじみ情ない氣持ちがする。そんなことをいつたつて、このへん一帯は地震でいためつけられて經濟的に疲弊してゐるのだから仕方がない、といふやうなものゝ、かう不調和で不體裁なのはあながち金の問題ばかりでもないであらう。

112
広津柳浪
全集
下巻
「新小説」に掲げし自作
716
茅ヶ崎
不圖雪の降った朝、大磯に親戚の者が轉地療養をしてゐるものですから、行って見やうかといふ氣になったのです。然るに茅ヶ崎より以西には雨となって、徒に汽車の屋根に雪の名殘を止むるばかりでした。

113
伊藤野枝
全集

雑音
131
湘南のある病院
紅吉と明子とは世間にさへ同性恋愛だなどゝ騒がれてゐた程接近してゐた。明子は本当に紅吉を可愛がつてゐた。〈中略〉併<シカ>し紅吉が病気になって、その夏湘南のある病院に行つてゐたとき其処で――紅吉の言葉を借りて云へば――「ふたりの大事な愛に、ひゞがはいつた」のだ、「ひゞはもう決してなほりつこはない」と紅吉は主張してゐた。

114
156
南湖院
ずつと後に、其頃のことを、まだ南湖院に働いてゐて、始終、紅吉と一緒にゐて、すべてを知つてゐる保持さんやそれから平塚さん自身の口から聞いた事を考へても余程紅吉はその為めに激動したらしい。紅吉は、本当に死ぬ気になつたとか、奥村さんを殺す気になつたとか云つたけれど、私はその時の単なる昂奮から来た一種の感情の誇張と、軽く見てゐたがそれは後で、本当に、さう云ふ気になつたらしいと云ふ事を聞いて少からず驚かされた。

115
140
茅ヶ崎
「さうでせう、だつてね僕がソフトをかぶつてマントの襟をたてゝ紺足袋に男下駄をはいて煙草をふかしながら妹を連れて歩くとね、いろんなことを云つて冷かされるの、本当の男に見えるんでせうね」「それやそうだわ、その柄ですもの、そんなゝりをすれば間違へない方がどうかしてるわ」「茅ヶ崎で皆で写した写真ね、あれにも紅吉は本当に不良少年つて顔をしてゐるわね、」「あれは、ずいぶんあの時怒つてゐた時だつたからよ、ねえ紅吉」

116
150
茅ヶ崎
「茅ヶ崎のこと知つてゐる? さうを、あの事よ、私がかうして落ち付いてゐられないのはあれからなの、私の大切な愛にひびがはいつたのですもの」

117
155
茅ヶ崎
其日も一日奥村さんは平塚さんと一緒に茅ヶ崎で遊びくらした。夜になつてから奥村さんは藤沢へ帰ると云つて病院を出た。けれども紅吉には矢張り藤沢に帰つたものとはどうしても思へなかつた。平塚さんはまた留めたに違ひないと思つて到頭其晩も眠らずに、それでもその次の朝は余程平塚さんが尋ねて来てくれるかと待つたけれども、来て貰へないので出かけて行つた。裏から這入つてゆくと、平塚さんの室の戸は矢張り昨日のやうに閉ぢてあつた。

118
178
茅ヶ崎
「それでね、口惜しいから平塚さんに会つて行つたでせうつていつたらね、ひどいでせう私おどろくかと思つたらばね、平気で、えゝゆきましたよ、二度も三度もつて、それがどうしたんですつて調子なんです。私が一等くやしいのはそれなんです。そんな云ひ方つてないでせう? 何時でも彼の方は云ひのがれが出来なくなると高飛車に出てこちらを圧しつけて仕舞ふんです。茅ヶ崎のことだつてさうなんです。」紅吉はさう云ひながら、暗い暗い影を顔にこしらへた。

119
185
茅ヶ崎
平塚さんは事実紅吉をもつと真面目な立派な芸術家にしたかつたのらしい。紅吉の為めに真実に考へてやつた人は矢張り平塚さんだと云ふ事は私にもうなづかれる。併し一度茅ヶ崎のことからこぢれ出した紅吉の気持はだんだんに平塚さんに対して反抗的になつて来た。

120
152
茅ヶ崎の停車場
「奥村さんとはどうしておちかづきになつたの」「それはね、西村さんが青鞜の用事で茅ヶ崎に平塚さんを尋ねて來た時に茅ヶ崎の停車場から一緒に来たんです。そして私の室で西村、奥村、平塚、保持の四人に、私と五人で話をしたの、私は直ぐにその時からもう平塚さんが奥村さんが気に入つたと云ふことを直感して仕舞つたんです。だから不安でその晩は眠れなかつた位です。私はもう来なきあいゝと思つたのに、二三日たつと又早速に来たの、あの人の家は藤沢ですからね、近いんですもの。」

121
154

とうとう平塚さんのゐる室をあけました。中には平塚さんの影は見えなかつたけれど、蚊帳の中にはちやんと床が二つ並べて敷いてあるんです。それから見覚えのある奥村さんのスケッチ箱や三脚がチヤンと置いてあるぢやありませんか? 直にお内儀さんを呼んで、二人が何処に出かけたかたづねて見たんです。「浜へお出でになつたんでせうとお内儀さんは工合悪さうに答へながら、しげしげ私の顔を見ながら彼方へ行くので、私も直ぐ出て浜の方へ歩いてゆきますと、向ふから二人で毛布にくるまりながら歩いて来るんでせう。私はもうカツとしたけれどすぐ落ちついて二人を迎へました。そして三人で暫く浜で遊んだのだけれど、私は不快で不快で面白くも何ともなかつた。

122
尾崎一雄
全集
11
車内禁煙
371
茅ヶ崎
茅ヶ崎で斜め向側の客が一人立った。その隣りに掛けてゐた男の仲間が窓際へ腰をずらした。男は立ち上がつてそこへ行った。冷戦が終つたと私は思つた。


茅ヶ崎の文学.TBL 2006年11月28日 10:33

< 3 >

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作者




場所
引用

123

久保田万太郎
全集
12
かまくら雑記 清方先生
65
茅ヶ崎
  茅ヶ崎に 清方住めり はつがらす

 といふ句が披講された。三汀久米正雄君の作だつた。
――いけません。……茅ヶ崎ぢやありませんよ、もう鏑木さんは。……御殿場ですよ、いまは……

124
正岡子規
全集
13
四日大盡
421
烏帽子岩
此(コノ)海の向ふは限りなく廣(ヒロ)くして水天相接する處(トコロ)に終る 右には大磯の市街櫛比(シッピ)し伊豆の岬は遠く海中に突出し模糊たり 左の方は相州の東岬に至るまで見え渡り繪(エ)の島、烏帽子岩など手に取れさう也

125
大仏次郎
全集

鶯の宿
301
茅ヶ崎
 茅ヶ崎にいる河合勇さんが、子供の時分から住んだ東京の根岸の思い出を、いろいろ書いた可愛らしい本、「根岸の里」を送ってくださった。

126
幕が降りれば
428
茅ヶ崎
 近頃の事で、茅ヶ崎の英初代が国立小劇場で催したリサイタルで演じた「猩々」などは能を踏んまえて文楽の織太夫、弥七、藤舎呂船の小鼓で、華やかな中に品位のある堂々たる舞台であった。同じ県下の茅ヶ崎の人だから贔負して賞めるわけではない。

127
島尾敏雄
全集
15
私の近況
425
湘南茅ヶ崎
五二年の秋口に薩南指宿から湘南茅ヶ崎に引っ越した。いわば南国から東国への移転である。

128
私の住処
401
茅ヶ崎
今度突然相模湾沿岸の茅ヶ崎に引っ越してきたのは、私にも思いがけなかったことで、急にその必要が起ったからであった。

129
南の糸
424
茅ヶ崎
茅ヶ崎あたりは、房総を大隅半島と見たてれば、三浦から小田原にかけての恰好が薩摩半島とそっくりになって、ちょうど指宿の位置とかさなってくるようであった。……さて一挙に湘南の茅ヶ崎に移ってみると、いよいよ自分の土着性の欠如があぶり出されてくるのを覚える。目に見耳に聞くものすべての事物が旅先で写るそれと似ていて、その中でのからだのはずみに気づくと、長いあいだの呪縛がほどかれてしまった気分にもなってきた。

130
散歩道の先取り
438
茅ヶ崎
いずれ腰痛のはがれた暁には、地図を片手に茅ヶ崎の町じゅうを片っぱしから歩いてやるぞ。行き止まりの道を引っ返すなど悪くないではないか。それに思わぬ所で富士が見えたりして、ああ私は東国に居る!と述懐させられるにちがいない。

131
1977(S52)〜1983(S58)まで東海岸北5-14-20に住む。
島尾敏雄
全集
15
散歩道の先取り
438
東海岸
さて横浜で生まれて此の方、どういうわけか私は、神戸、長崎、博多、名瀬、指宿と、海に面した港町にばかり住んできたことになるが、茅ヶ崎も、港とはいえないまでも海端の町といって差し支えはなかろう。私の住む町の名は東海岸という。

132

高山樗牛
全集

思ひ出の記
171
茅ヶ崎


133
菅野須賀子
全集

ぬきが記
235
茅ヶ崎(の南湖院)
 国木田治子女史来訪。去年の此頃、茅ヶ崎に独歩先生を訪ふた当時を追憶して両人で泣く。

134
斎藤緑雨
「文学」
1952(S27).7
日記
73
茅ヶ崎
弟ト共ニ茅ヶ崎、鳥ノ跡多キ例ノ砂濱。赤ク薄紫ノ山々例ノ如シ《1901(M34).1.2晴》

135
田中英光
全集

われは海の子
114
鵠沼茅ヶ崎の海岸線
右手は小動ヶ崎<コユルギガサキ>をとび越え、鵠沼、茅ヶ崎の海岸も一目に、大磯、平塚の辺りは、さすがに烟る遙けさであった。

136
岸田劉生
全集

春陽会所感
385
茅ヶ崎
岡田徳之助君の「小春日和」倉田三郎君の「果物籠」大野平吉君の「茅ヶ崎の風景」等いゝ作である

137
春陽会第二回展覧会所感
409
茅ヶ崎
大野平吉君の茅ヶ崎の風景図もじみな素朴ないゝ畫であつた、宮崎丈二君の畑の畫もこれに似た畫だがこれには強いところがあつたが描写は少しまづい。しかし二つとも色も態度も愛す可く気持のいゝ畫であつた。

138

日記1920(T09).3.7晴
263
茅ヶ崎
宮田秀吾来る。茅ヶ崎に居て女中探して居る由。いろいろ話す。

139
日記1920(T09).5.4雨
321
茅ヶ崎
夕方宮田秀吾来る。茅ヶ崎にゐた時番地を家でなくして僕気附になつてゐた宮田のハガキ廻送出来ず弱つて居たが、今日手紙渡す。

140
322
茅ヶ崎
宮田は夕食後ぢき茅ヶ崎に帰る。

141

日記1923(T12).9.5晴
279
茅ヶ崎
二宮さんの仮宅に帰り休んでゐたら茅ヶ崎にゐるといふ、宮坂金太郎といふ人が海岸つたひで来たとて見舞に来てくれる。人が来てくれる事ははじめてゞ又うれしかつた。

142
日記1923(T12).9.11晴
287
茅ヶ崎
夕方近く豆腐屋の笛の音聞ゆ。奴をとる。湯豆腐にして冷して奴としてたべんと思ふ。山形さんからお餅をもらひおやつにたべる。美味也。御礼にパンを持つて行つて来る。山形さんで聞いたが汽車は茅ヶ崎迄行く由、早く箱根が通じて京都へ行けるといゝと思ふ。行く先の幸運をひたすら祈る。神よ守り給へ。

143
日記1923(T12).9.12好晴
288
茅ヶ崎
茅ヶ崎の宮阪金太郎君来訪。茅ヶ崎に家があるといふので借りやうかと思たが、蓁は不賛成。宮阪君ぢき帰る。

144
円地文子
ほくろの女

花渦
97
茅ヶ崎
鎌倉という土地は今では東京の衛星都市になってしまったけれども何といっても、明治時代に海水浴場としてひらけた別荘気分と、七百年の昔、幕府政治の中心地であった歴史とがまじりあって、逗子や茅ヶ崎とは違う一種の風格が感じられる。

145
全集

宝石
271
茅ヶ崎
藤子はその時まで、茅ヶ崎の別荘に別荘板の老夫婦と一緒に暮らしてゐたが、夫が死に長男の代になった頃から、嫁たちばかりでなく、わが生みの息子にも、娘にも恐ろしく疑い深い眼を向けるようになった。

146
273
茅ヶ崎
「でも一体お母さまはどこにあの宝石を隠していらっしやるんでしょう。昔は横浜の家の金庫にあったのが、茅ヶ崎へ行くとき皆持って行ってしまって、あっちには箪笥のほかに鍵のかかる場所なんかありませんわよ。あの年寄夫婦と三人きりで、泥坊にでもねらわれたら危険だわ」

147
修の推理は大体正しかったのであるが、いよいよ茅ヶ崎の別荘も手離すことになって、藤子の身柄を修一家の逼塞している三田の裏町の住居へ連れて来ることになった時、修は流石に黙っていられなくなって、引越しの手伝いのいない暇をみて、母親の耳に口をよせ、
 「お母さま、あれは、……あのダイヤや何かは大丈夫でしょうね」
 と言った。

148
章の題
添田唖蝉坊
著作集

唖蝉坊流生記
116
茅ヶ崎
「男の子・茅ヶ崎」

149

添田唖蝉坊
著作集

唖蝉坊流生記
119
茅ヶ崎
義兄はたびたび上京した。彼の弟は東両国に呉服店をやってゐたし、政夫のゐるためもあったが、事業拡張の事を語ったのは、内心私たちに茅ヶ崎の工場をやらしたかったからでもあった。しかし私の性質も過去もかなりよく知ってゐたから、私の前では切り出しにくかったのだ。それを内々妻に語り妻の方から相談を切り出した。

150
121
茅ヶ崎 駅前
まづ横浜へ行った。工場をやるについてはまづ自分から一応仕事を心得なければならなかった。その習得に、池田の工場に寄ったのである。住居は池田が構へておいてくれた。四十日。そして茅ヶ崎へ移った。三十五年の夏の終りであった。
 駅前の、釜成屋といふ古い饅頭屋の前角が私たちの新しい家であった。隣は肴屋といふ宿屋で、鉄道院の車掌が何人か、交替の時の宿にしてゐた。
 開業祝には、大勢集って、私たちの首途を盛んにしてくれた。茅ヶ崎にたった一人の芸者も呼ばれた。私の下工場をやることになった神主の杉崎鍋之進が首をふりふり田舎唄をうたってゐた。
 私たちは希望に燃えた。

151
202
茅ヶ崎の駅
子供を母のところから連れて出た。茅ヶ崎の駅で、荷物の傍に知道を待たせておいて、用を足しに行った。焦るやうな気持ちであった。妻の実家へ寄る隙もなかった。追はれるやうな心であった。尾行には馴れッこである。そんなことではない。何やらわからぬものに追はれてゐるやうな、暗い、重苦しい焦慮であった。自分が、子を連れて逃げる時のジャンバルジャンのやうな気もされた。

152
116
菱沼
女の大役、初産のことではあるし、妻の母はかならず来るといふ想像を私たち二人は語り合った。或は二人の母が、揃って来るかも知れないと言って心待ちに待ってゐた。
 もうあと一週間くらゐと迫った時、期待に反して私の母が一人で来た。そして菱沼の母の上京できなくなった理由を真ッ先に語った。

153
117
菱沼
飛び立つはかりの思ひであったらう。来たかったには違ひない。それが、どうしても家を抜けられない事故ができてゐたためであった。妻の兄が詐欺にかかって負債を得、その処置をするために義兄池田等が入って解決すべく骨を折ってゐるのだが、菱沼の父は気が小さい人であるし、家の中が混乱状態であるといふのであった。

154
121
菱沼 茅ヶ崎
菱沼の父も来た。これは炉端に坐って、機嫌よくお茶を飲んでゐるばかりであったが、とにかく誰も彼も、私たちに快い後援を送ってくれたのである。池田や大磯の兄の盛業ぶりを見てゐる者には当然私の成功も期待されてゐた。
 それにも拘らず、うまくゆかなかった。
 二十人ばかり職工が集ったが、これがどうしてもそれ以上殖えないのである。茅ヶ崎には前から経木編みの仕事があった。貸金はこちらの方がいいのだが、経木編みの方は日銭になる。さういふ仕事は多く漁師の子供がやるのだったが、漁師はどうしても日銭をほしがる。こちらは晦日払ひで、私が横浜から金を受け取って来て渡すのだが、それを待てないのだ。この点が百姓の子たちを集めてゐる大磯の方とまったく事情が違ひ、そして致命的な違算であった。

155
123
菱沼
遂に半年で、私の工場は止めなければならなかった。
 菱沼の、妻の実家の一室に移った。

156
添田知道
著作集

浅草底流記
序A
茅ヶ崎
一九三〇年七月二三日 茅ヶ崎にて 著者

157
流行り唄五十年

流行り唄五十年
62
茅ヶ崎
三十四年に結婚し、家庭経済の樹立をはかってレース工場を持ってみたが、みんごと失敗し、妻子を茅ヶ崎の実家にあずけて関西の旅に出たのである。

158
演歌師の生活

演歌師の生活
89
茅ヶ崎
池田は横浜で輸出ハンカチの刺繍で盛大にやって、工場をいくつも設けていた。それをやらせたいと思っていた。しきりにそれをすすめる。平吉も長男が生まれたのを機会に、そんな気になり、義兄の肝入りに従って、茅ヶ崎にその工場をもった。

159
98
茅ヶ崎
山人は茅ヶ崎でレース工場をやったとき、その下請けをした神主の杉崎鍋之進と俳句をはじめていた。

160
101
茅ヶ崎
ランプ屋の二階へまず、妻子を茅ヶ崎の実家からよび迎えた。唖蝉坊は、武井の裏手の二階屋を借りた。

161
著作集

流生記以後、終焉以後
312
茅ヶ崎の菱沼
それにしても、母の終焉の場である小川の家とも音信不通になってゐて、どこにゐるのかわかりません。そこで、実に三十年ぶりで母の故郷である茅ヶ崎の菱召に行き、いまだ健在の伯母伯父をはじめ従兄弟たちとも会ひ、郷土史家によって父母のことがさぐられてゐることなども聞きました。しかも小川の従兄三郎が、戦災以後同じ菱沼の、つい目と鼻の先に住みついてゐることがわかって、すぐに会へ、話はすらりとはこび、横浜相沢の浄光寺墓地からの改葬手続は、従兄が一切やってくれることになったのです。

162
辻村伊介
ハイランド

ハイランド
66
茅ヶ崎
街道の兩側は水づいた草野と落葉松の木立で、一筋道の突きあたりに、インヴァーロッヒー城のこんもりした黒木の森を見るだけで、畑こそ無いが、どことなく、茅ヶ崎附近の平原を思はせる。

163
宮柊二
全集

日本挽歌
109
相州茅ヶ崎
 相州茅ヶ崎

 荒れ荒るる土用海見ゆ沙山<スナヤマ>のしづけき薄<ススキ>丈低くして

164

忘瓦亭の歌
144
茅ヶ崎
歯の手入れする間<マ>の時間見はからひわれ歩みきぬ茅ヶ崎の浜を

165
145
茅ヶ崎
 七里ヶ浜わづかに見えて東南の潮<ウシオ>の上に城ヶ島浮く
 海岸の波打際に茅ヶ崎の光る小石を拾ひて惜しむ
 井の水に沈めて我は慰まん波が洗ひて角落ちし石
 海辺ゆく我を危ぶみ弟の妻つきそひてあとさきを行く

166
151
茅ヶ崎
 幹白く燈にてらされて松林<マツバヤシ>春夜<シュンヤ>瀟洒に木の精並ぶ
 ゆきゆけば松の林に風は鳴り雨より安らはぬかな
 茅ヶ崎を青空の昼立ちてきて雨をしげく降る三鷹に帰る

167

彼地の山此地の海
13
茅ヶ崎
終戦後の二十二年だつたか二十三年の夏である。食ひものが極端に欠乏してゐた頃である。茅ヶ崎に住むM君いふ友が馬鈴薯を分けて上げるから取りにこないかと言つてきた。私は数へで三歳か四歳になつたばかりの長女をつれて出かけた。

168
14
茅ヶ崎の浜辺
私は幼女をつれて茅ヶ崎の浜辺に出た。七月だったから、海は凪いで青い色に輝いてゐた。かうした満ちたものに暫く遇はなかつたことを私は憶ひ出してゐた。波打際に近づくつもりで幼女の手をひいていつた。波のさしひきに或ひはその下の散りぼふ貝殻に、幼女の心も満足するに違ひないといふ、私なりの判断が胸中にあった。

169
宮内寒彌
宮内寒彌小説集成

墓参
468
茅ヶ崎
江の島対岸の海水浴場へ出かけて行った。すると鵠沼から、辻堂、茅ヶ崎、平塚とつづく海岸線の彼方に、高麗山、湘南平、王城山、坂田山こと羽白山などの大磯背後の山々が黒く盛り上がって見えていたが、やがて、夕方近くになると、それらの山々の背後になっている西の空が、赤く燃えるような夕焼けに染まって行った。

170
岡本一平
全集

今の東海道五十三次
221
茅ヶ崎 馬入の橋
東海道らしき松並木、日はいよいよ暮れ街道の砂地が紫色に見ゆる。其處へ沸いて出たように子供が澤山で『旗呉くんねえ、旗呉くんねえ』土地を調べるとこゝは茅ヶ崎。仲間に説明をなすものあり『空気がよくて、土地の名産の芋に因むからこんなに澤山子供が出來るのだらう』

171
川上眉山
全集

ふところ日記
715
茅ヶ崎
 片瀬川を隔てゝ、左手に江の島を望み右手に鵠沼を望み、一帶の平砂茅が崎の方に遠く、馬入の注ぐ處、花水の盡くる處、……。

172
小牧近江
種蒔くひとびと

平民社と戦争
123
茅ヶ崎
『平民社』には石川三四郎、西川光二郎などが参加したが、若き日の荒畑寒村長老は茅ヶ崎にご健在である。

173
龍膽寺雄
全集


214
烏帽子岩
ひろく蒼く海を見渡せる小部屋で、拭き磨かれた茶卓を挟んで、彼は女の子と向き合って、脚を崩してくつろいだ。すでに陽は落ちて、遠いかなたの烏帽子岩の向こうの平塚辺の海岸線が、茫乎と霞み、富士山が影絵のように淡く聳えて見えた。

174
10
燃えない蝋燭
72
茅ヶ崎
恋仲をさくように仲のいい兄妹のあいだをさいて、十六歳の真珠を、冷淡に茅ヶ崎の病院へ送ってしまったんでした。
 淋しい冬の茅ヶ崎の海
 〈中略〉
 「母さま」
 真珠は以前に父にともなわれて病院へ母を見舞ったたんびに、よくつれだっては一緒にそぞろ歩いた淋しい海岸の砂丘に、冬の波の音をきいて坐ったまま、眼に見えない母の追憶に向かって、心にさけびかけるのでした。

175
夜霧
140
茅ヶ崎
「お忙しくなければ、茅ヶ崎へ一緒に行って頂きたいの。例の土地のことで。……」
 「茅ヶ崎?」
 「……。」
 白々しいよそおいの底に、妖怪な燐色の焔を秘めた枝折の瞳。――後ろでは陽気な哄笑と一緒に、相変らずアフリカの植物論だ。茅ヶ崎の、幾重にも抵当に入っている小さな別荘を、土地ぐるみ思いきって、この際処分してしまえという私の主張に対して、枝折と私との間に、こないだから多少議論があったのだ。

176
かな川風土記
1982(S57).11
相模野日記抄第11回
93
茅ヶ崎


177
1983(S58).2
相模野日記抄第14回
94
茅ヶ崎


178
1982(S57).9
相模野日記抄第9回
90
茅ヶ崎の海岸


179
西行法師




砥上ヶ原
芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて 砥上ヶ原に 牡鹿鳴くなり

180
浦近き 砥上ヶ原に 駒とめて 片瀬の川の 汐干をぞ待つ

181
鴨長明




砥上ヶ原
立ちかへる 名残は春に 結びけん 砥上ヶ原の くずの冬がれ

182
熊野神社歌碑




姥ヶ島
さがみなる 小和田の浦の 姥ヶ島 誰を待つやの 一人寝をする

183
文藝春秋社1989.3
城山三郎
湘南−海光る窓−



茅ヶ崎



茅ヶ崎の文学.TBL 2006年11月28日 10:33

< 4 >

ID

作者




場所
引用

184
単行本『蓮と海嘯』所収。p15。
埴谷雄高
全集

最後の二週間
483
茅ヶ崎
「文藝」の寺田博から、武田(泰淳)さんが入院されたそうですが……という電話がかかつてきた。開高健夫人の牧羊子さんからも電話がかかつてきた。私は病院の百合子夫人に電話して、容態をきき、茅ヶ崎の開高健夫人に電話するよう伝えた

185
単行本『蓮と海嘯』所収。p29。
埴谷雄高
全集

最後の二週間
494
茅ヶ崎
竹内照子さんと女房に中村青年の車で帰つてもらつたあとの午前六時過ぎ、茅ヶ崎から兄さんの大島泰雄夫妻が到着した。武田泰淳より四歳年長だそうであるから私達より年上であるが、まだ若々しいお兄さんであつた。このお兄さんが到着した以後、遺言通り武田の顔を覆つた白布はとられることはなかつた。

186
『五つの時計』創元推理文庫、1999年。
鮎川哲也
五つの時計

早春に死す
94
茅ヶ崎
刑事はただちに東京駅から湘南電車に乗って、茅ヶ崎の極東製紙をたずねることにした。

187
茅ヶ崎 (北口)駅前広場 東海道
東京を出てほぼ一時間と十分ののち、電車は茅ヶ崎についた。長いホームが白々と伸びた眠ったような駅を見て、もう少しはなやかで派手なものを予想していた彼は、ひどくあてがはずれた気がした。そしてその印象は駅前広場に出たとき一層濃いものとなった。静かと云えば静かであるけれども、どこか覇気のない町に思われて、騒音にあけくれる東京をとたんに恋しく感じた。ただ、海が近いせいか胸いっぱいに吸った空気がひどくうまいような気がした。
交番で工場の道順をたずねたのち、東海道に出ると辻堂のほうへ向かってテクテクもどった。八百メートルの距離だからバスを待つより早いのである。

188

小島法師
太平記



十間坂


189
浄見寺境内の歌碑
川田順




浄見寺
越前守 大岡公の 紋どころ 銀杏の実こそ 踏むに惜しけれ

190
宝積寺小沢家墓地の墓碑側面の歌
小沢もと子
もと子家集




長閑<ノドカ>なる 雨の名残りの 露なるに おりてかざらん 山桜花

191
宝積寺境内の顕彰碑
小沢もと子
もと子家集




空に立ちき名を何に つつまわし おほふ計<バカリ>の 袖しなければ

192
長福寺境内の句碑
鴫立庵十八世芳知





忘れ傘して 梅の香の 偲ばるる

193
飯田九一





踏みて来し 雲雀が起伏の 野芳し

194
添田唖蝉坊





ふぐ食うて 北を枕に ねたりけり

195


かながわの民話五十選 

河童徳利

西久保


196
熊野神社歌碑




姥ヶ島
相模なる 小和田が浦の うば島は たれをまつやら ひとり寝をする

197
南郷=南湖
河竹黙阿弥
青砥稿花彩画<アオトゾウシハナノニシキエ>



南湖
南郷力丸

198




吾妻鏡

相模川橋脚址


199
鶴嶺八幡宮建碑由来
三郎




(鶴嶺八幡の松並木)
ながながと 参道に 列並む 松のみど里<リ> 朝恵上人を 語り次ぐべし

200
鴫立庵十八世芳女




(鶴嶺八幡の松並木)
今もなお 朝恵の松の 若みとせり

201
円蔵87の句碑
鶴田栄太郎




(円蔵)
春や春 岐路に立てども 和合神

202
鎌倉初期。市の文化資料館の歌碑(もとは鶴嶺八幡の鳥居の石)
西行
西行物語



砥上ヶ原
…相模国大庭という所 砥上ケ原を過ぐるに野原の露の隙あり 風に誘われ鹿の鳴く声聞えれば 芝まとふ 葛のしげみに 妻籠めて 砥上ケ原に 牡鹿鳴くなり

203
文治年間(1185-89)
鴨長明




砥上ヶ原
浦近き 砥上ヶ原に 駒とめて 片瀬の川の 汐干をぞ待つ

204
一二二二(貞応一)年年
鴨長明or源光行or?
海道記



砥上ヶ原
 …さがみ川をわたりぬれば懐島に入 砥上が原を出 南のらを見やれば なみのあやをりはへて白き色をあらひ 北原をのぞめば草の緑そめなし浅黄さらせり 中に八松と云所あり 八千歳のかげにたちよって十人公《松》の栄をさかりにす 八松のやちよのかげに思なれて とがみが原に色も変らじ

205
一八二四(文政七)年

甲申旅日記



茅ヶ崎 南湖 高砂
茅ヶ崎という所より南湖村まで凡そ一里余りと覚しく左右に松原立ち続くあふさきるさ 峰も田の面も見ず 只一色の翠のみ也 此あはひに高砂という所あり 皆砂なり  相模川 近しとぞきく 目も遙に 松立ち並ぶ 高砂の原

206
萩園三島神社の碑
仮名垣魯文




萩園
 訪ふ人も あらしの庭の 秋去りて 春の日脚の 時にあふかな
  萩園野崎末 仮名垣魯文

207


源平盛衰記



八松原


208
新田義貞が北条高時を攻め、火を放つ。

太平記



十間坂


209
南郷=南湖。南湖2丁目の西運寺に石碑が二つある。
河竹黙阿弥
青砥稿花彩画<アオトゾウシハナノニシキエ>



南湖
さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴の松の曲がりなり人となったる浜そだち…しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸

210
1545年2月28日の記事。
谷宗牧(?-1545)




相模川 砥上ヶ原
相模川の船わたりしてゆけば大なる原あり。砥上ヶ原とぞ。…この原の辺りに見えたる神社あり。問えば八幡勧請の一なりとぞ。花の梢一木二木神さびたり。 

 おる人や 砥上ヶ原の 八幡山 神のもるてふ 花のさかりは

 といひつつゆけば江ノ島もほどなし。

211
1760年1月24日の記事。
土御門泰邦(1711-84)
東行話説



南湖
南湖茶屋に休みて、是より輿を下りて歩行しつ。おもしろき左右は林にて、松一色の台の物見るがごとく、道高砂にて白砂糖の上ゆくがごとし。

212

ケンペル(1651-1716)
江戸参府旅行日記



相模川 町屋 南湖 小和田
一六九一年、三月十二日。…約百戸の馬入村と傍を流れる、日本人にはよく知られている同じ名前の大きな川(馬入川)の岸についた。川はものすごい水勢で、音をたてて海に流れ込んでいた。…川を渡って一時間半、いわば砂漠のような地帯(町屋・南湖・小和田の村々)を通って四谷という大きな村に達した。

213
1801年2月28日の記事。
太田南畝(蜀山人)
改元紀行



南湖
都人のあざらけき魚の鱠(ナマス)くひたりとて、ののめきいふ南郷(南湖)立場これなりとききて、名もなつかしき江戸屋といふ家にいれば、げにあざらかなるひしこといへる魚の鱠もて来れり。

214

シーボルト
江戸参府紀行



相模川 馬入
渡船からはカモメが沢山群れをなしていた、われわれが渡った川舟はライン河の上流のものと似ている、舟の型には、へりの高いものと、低いものがあり、日本の川の流れの性質によく合っている

215
真山青果
真山青果全集
補巻D
国木田独歩氏の病状を報ずる書
434-455
茅ヶ崎 南湖院
昨日午後五時四十分茅ヶ崎着、直ちに南湖院を訪ふ。

216
436
茅ヶ崎館
八時頃茅ヶ崎館に着く。独酌三合。寂しく寝た。近くとも旅は旅である。夜中に幾度も目が醒めて困つた。今朝、暁の四時頃風の音に驚かされて、灰暗い朝闇の中を上草履のまゝ海岸に出て見た。海も陸も未だ眠つて居る。風は松林に麦畑に唸り叫んで、直ぐ下の小松原の上に椿笛のやうに幽かに響くのもある。南湖院の第三病室はその薄暗の中にボンヤリ白く見えた。
歸つて行燈の下にこの書を書く。書終れば五時、窓は明るい。ほかの鳥は未だ啼かぬのに、雲雀の高音が耳近く聞える。(五月九日朝。茅ヶ崎館にて)

217
茅ヶ崎館 南湖院
旅館と病院の間は小半里弱もある。富士山を正面の標的として海岸つたひに行くと自然に南湖院の裏門に出る。好い運動だ。前の手紙に、旅館の濱から、病院の白堊を見たと書いたが、大間違、實際は餘所の別荘を朝闇に迷うたのと知れた。

218
443
海岸
濱には地曵網が見える。

219
茅ヶ崎館
冗談ながら、早く癒つて茅ヶ崎館までお出掛なさい、田山さんや風葉先生や其他大勢集つて、陽気に酒を飲んで見せると云つたら、僕ほ何うするんだ、指を咥へて見て居るのかと聞く。

220
446
馬入川 富士山
急に思ひ立つて、武羅夫君をそそのかして馬入川の富士を見物に病院を出た。

221
453
南湖院
この通信こゝに終る。吾が崇拝する国木田独歩氏は、今日―六月二十三日午後八時四十分、相州茅ヶ崎南湖院第三病室に瞑目せられた。
故人の遺志もあり、且つは家族の人々も屍體室に移すに忍びずとて、遺骸は収二氏と二人して、これを担架に乗せて、雨後の眞黒な松、松原の中を別荘へと移した。別荘とは独歩氏入院後家族等の仮りに棲はれた海濱の小屋にて、同氏は一度も見られた事がない。屍となつて始めて自分の家に歸られたのだ

222
雑誌「新声」1908(M41).07号(追悼・特輯号)
蒲原有明
独歩全集
I
予が知れる独歩君
110
南湖院
健康でなかつた国木田君を痛めて、今度茅ヶ崎南湖院で、去くなられた病気の基をなしたのでした。

223
雑誌「新潮」1908(M41).07号(追悼・特輯号)
徳富蘇峰
独歩全集
I
予の知れる国木田独歩
136
茅ヶ崎
茅ヶ崎を見舞はふと思ひ乍ら遂忙しいので好い機会もなかつた。(中略)翌朝取るものも不取敢茅ヶ崎へ駈けつけた譯であるが、實に私はこの位心から後悔した事はない。牧二君に逢った時にも、何故悪ければ悪いと早く知らせて呉れぬと、愚痴を云はうと思ったけれど、聞いてみれば意外にも同じ茅ヶ崎に居た収二君すら臨終の間に合はなかったとの事で、畢竟縁が無かったと悔む外はない。

224
植村正久
独歩全集
I
信仰上の独歩
139
茅ヶ崎
それから今度の重病だ。大久保時代から大分煩悶して居たやうに見える。それが茅ヶ崎へ行つてから更に切實に激甚になつたやうだ。

225
小栗風葉
独歩全集
I
「誠」の人間独歩
143
茅ヶ崎
それからだんく又悪くなつて今年の春ほ到頭茅ヶ崎へ行くやうなことになり、終にその儘僕の所へは二度と来る機會がなかつたが、茅ヶ崎の病院の方へ眞山君と始め訪問した時には、今までは愚痴などあまり溢さぬ性質の男だつたけれど、多少(イクラ)か心細かつたと見えて「今こそ人も訪問して呉れるし、新聞などにも彼れ是れ書いて呉れるけれど、是で半歳の一年のと続いたらば、訪ねる人もだんだんなくなるだらうし、世間でも忘れて、独歩は死んだと思つたが、未だ生きて居るのか、といふやうになるだらう。

226
144
茅ヶ崎
あの小松と砂ばかりの茅ヶ崎には倦き倦きして頻りに東京へ歸りたがつて居たから、出来るものならば東京で死なせたかつたと思ふ。独歩君の死體を仮住居(カリズマイ)の別荘から担ひ出して、そして舊東海道の夜道を焼場まで送つた時には、何となくもの足らないやうな「あゝ旅で死んだ人」といふ侘びしい感があつた。

227
相馬御風
独歩全集
I
病室に於ける梁川氏と独歩氏
148
茅ヶ崎館 南湖院
僕が初めて故人(あゝもう斯う云ふ言葉を用ひねばならぬのか)国木田独歩氏を茅ヶ崎南湖院の海に面した明るい病室に訪うたのは、今年の夏の初めの、新緑の匂ひ鮮やかな日であつた


真山青果
独歩全集
I
我儘な人
151
茅ヶ崎
獨歩氏は我儘な――憎いほど我儘な人であつた。我々もあまりの我儘に憤慨して茅ヶ崎を逃げ出さうかとまで思つたこともある。

228
雑誌「新潮」1908(M41).07号(追悼・特輯号)。文末に「平塚篤氏談」とある。
吉江孤雁
独歩全集
I
無題
198
南湖院
一月、南湖院へ行く前は、生死問題に就て深く考へられ、終ひに死と云ふ言葉を聞き、死と云ふ文字を見ることも恐れて、頻りに植村正久先生に會ひたい會ひたいと云つて居られた。

229
雑誌「新潮」1908(M41).07号(追悼・特輯号)。南湖院での病状報告。
高田耕安(南湖院長)
独歩全集
I
病院に於ける独歩氏
199
南湖院


230
中村愛子(南湖院第二副長)
独歩全集
I
病院に於ける独歩氏
200
南湖院



雑誌「新潮」1908(M41).07号(追悼・特輯号)
中村武羅夫
独歩全集
I
病院に於ける独歩氏
202
茅ヶ崎の浜
獨歩氏の死を明らかに事實と信じながら茅ヶ崎南湖院の一室に行けば、何時にても、病める獨歩氏の姿に接し、其の聲を聞き、其の笑顔を見ることが出來るやうな氣がする。(中略)何時までも、何時までも、南湖院へ行けば會へるものとして置きたい。

231
203
茅ヶ崎の浜
独歩氏はむくむくと白い、變化に富んだ夏雲の姿が非常に好きで、茫々とした茅ヶ崎の濱、その砂山の上に寝轉んで、永遠の浪の音を聞きながら、天地自然の姿に接し、心ゆくまで雲の姿に見入りたい、どうしても一度は然うした身體にならねば置かぬと云って居られた。

232
204
茅ヶ崎の浜
独歩氏の病室の窓の傍らで、物侘びしい程静かな春の空に、高鳴きする揚げ雲雀の音が、恰度独歩氏の庭に飼ってある鳥のやうに、好く聞えた。岸を打つ静かな波の音は、遠い遠い世から響くやうに、茅ヶ崎の濱々に傳はる。独歩氏は凝つと瞳を据ゑて、其静かに緩く、然し、胸の底まで重く響く波の音と、高鳴く雲雀の聾を聞き入る。斯う云ふ時に限つて、黙つて一語も発せず、室の中には一種の侘びしさが満ち渡つて、人々の胸には堪へ難い哀感を覚える

233
茅ヶ崎の浜 烏帽子岩
風のない空の晴れた天気の好い日、然し、濱には高い波が白く白く煙のやうに砕けて居た。看護婦の背に負はれて外に出られた。遠く沖は汐に煙つて、空氣の透明な日には墨繪のやうに見える大島も、其日は見えなかつた。鎌倉、葉山、江の島も一帯にぼうと煙つて、烏帽子岩の邊りに漁船が浮いて居た。見渡すと平塚の町々も見え、馬入河口には、かなり大きい帆船が三艘碇泊して、波に揺れるのまで明らかに見られた。独歩氏は看護婦の背で、空を見ては海を見、あつちに向かせ、此方に向かせ、只、あゝ好いなあと、それだけの感嘆の言葉を幾度も繰り返して發するのみで、終りに富士山が見たいと其方に向くと、生憎其日富士の姿は見えなかつたので非常に失望された。

234
205
南湖院
南湖院の一室、其の病床に横(ヨコタワ)つて、独歩氏は何を思ひ、何を考へたか、絶えず瞳を凝らして物思ふ様、自分の眼底には其の姿が明らかに見える。

235
雑誌「新潮」1908(M41).07号(追悼・特輯号)。
国木田治子
独歩全集
I
家庭に於ける独歩
207
茅ヶ崎
昨日の萬朝に眞山さんの悪口が大變出て居りますが、あんな事は全(マル)で事實無根で、どうしてあんなに間違はれるものかと驚いたくらゐであります。眞山さんとは病院で始めてお目にかゝつた程の極新しいお馴染ですが、長い間茅ヶ崎にお出でになり、殆んど一日も缺すことなく、病院へお通ひになつて看護して下さいました。其骨肉も及ばない御親切には、良人も死ぬ迄深く感謝して居りました。


平井晩村
独歩全集
I
青山齋場の光景
222
南湖院
僕が先生に逢ったのは四月十九日茅ヶ崎南湖院へ見舞ったのが始めてゞある。先生に逢はんが爲めに茅ヶ崎の停車場に下車した僕は其時始めて湘南の海の音を聽いたのであつた、再び僕が茅ヶ崎の磯馴松を潛つた六月廿三日は既に先生が柩の裡(ナカ)に眠って居られる時であつた。


齋藤清子
独歩全集
I
獨歩氏の嗜好
223
茅ヶ崎
足袋は銀座の何とか云ふ足袋屋のものでなくては穿かないと云って、茅ヶ崎へ参る當時も、東京を出立する其日になりましてから、外の家の足袋では何うしても厭だと云って、


雑誌「趣味」1908(M41).08号(追悼・特輯号)。
国木田収二
独歩全集
I
獨歩の生涯
230
南湖院
本年の二月に病氣療養のため茅ヶ崎の南湖院に入り、六月の二三日になくなつたのです。

236
岡落葉
独歩全集
I
独歩の半生
235
南湖院
本年の二月南湖院へ行つて其處で歿くなつたのです。

237
前田木城・吉江孤雁
独歩全集
I
茅ヶ崎時代
282-287
茅ヶ崎館 南湖院
初めて独歩君を茅ヶ崎の病院に御見舞したのは、二月の十六日、両人で一所に出かけたが、其の日は非常に寒い曇日和で、途中から雪がチラチラ降り出した。茅ヶ崎は一體風の有名な處なのに、其の日は殊に強くて、吹き倒されさうな勢であつた十時頃停車場(ステーション)に着き、それから土地不案内の為め、裏の松原から第二病室に往き、其處で病院の人に案内せられて裏から第三病室に入った。風が強くて扉を開けるにも骨が折れた位。
其の時はまだ茅ヶ崎へ往って十二三日しか経たない頃で、元気もよかつた。『昨日来れば可かつた、天気もよし仕事の都合も可かつたに、何故今日のやうな風の強い日に来るんだ』と云はれたが、直ぐに気をかへて『斯う云ふ日も可いさ、今に独歩を訪ふ記を作るとき「風寒き日なりき」なんて書けるから』(中略)昼飯を食べて海岸を散歩すると、風が強くて起って居れない位、茅ヶ崎の荒涼たる嫌な方面を最も強く顕した日であつた。

238
284
相模川
相模川の河口へコッソリ釣に往き、其の為に大分病勢を増されたらしく思はれた。

239
285
茅ヶ崎の浜
茅ヶ崎の海岸は殊に砂丘を以つて有名だ。此の砂丘は風の工合波の工合によつて絶へず其位置を變へる。


茅ヶ崎の文学.TBL 2006年11月28日 10:33

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引用

240
雑誌「趣味」1908(M41).08号(追悼・特輯号)。
沼波瓊音
独歩全集
I
独歩君
292
茅ヶ崎
其から茅ヶ崎時代は独歩君の思想上に革命があつたのだと思ふ。「自然派の人々は無解決などゝ言ふが自分はこれを好かない。醫薬、注射等あらゆる治療に堪ふる努力は抑も何の目的があつての事か、かくまでして生きなければならぬ目的ほ何であらう。自分は到底無解決には満足が出来ない」といふ様な事を言って居られた。独歩君が臨終に「病苦は彼岸に達する努力」のやうに言はれたのは、一の解決を與へられたものと見てよい。

241
高浜虚子
独歩全集
I
国木田独歩氏
294
茅ヶ崎
国木田氏が茅ヶ崎へ轉地される少し前、或日私が片上君の宅へ行って居た。水野葉舟、前田木城両君も同席されて種々話してゐると、誰だか大聲で盛に話しながら這入って来た。
見ると一人は一度逢ったことのある吉江孤雁君だったが今一人の方ほ知らない人。でだんだん話してる中に国木田氏であることが分って始めて初對面の挨拶をした。これが同氏を知るの初めで又終りである。

242
真山青果
独歩全集
I
臨終当日の独歩氏
320-321
南湖院
六月廿三日、午前九時病院に行く。

243
「読売新聞」1908(M41).06.25
小島(小州)特派員
独歩全集
I
死んだ時の模様
526
南湖院
客月下旬まで喀血なかりし独歩氏は本月二日夜八時頃突然喀血あり、其の量コップに二杯にも餘れり 氏は常に『己れは喀血すればモウ駄目だ』と云ひ居たれば此日は頓に驚きたるものヽ如く南湖院長高田氏は来訪者の面會を謝絶する事を勸たり

244
遺骸を訪ふ
526
茅ヶ崎駅 茅ヶ崎小学校
停車場より十町程東に甘藷畑の砂地を踏みしだき樹木鬱蒼たる爪上りの透?(クネクネ)たる坂を登れば向ふは(茅ヶ崎南小)青き女松原あり 松原の木の間に淋しく建てる瓦屋根の小(チ)んまりしたる新屋は即ち之れ明治文壇の驍将国木田氏の遺き骸が安く横れる所なり ※「?」はX0213面区点:1-92−52 Unicode:U+8FE「施」の「方」がしんにゅうの字。

245
527
茅ヶ崎館
實弟収二氏悄然として出で挨拶さる『兄は医師が見放してからニケ月も生伸ました、之は高田院長様の熱心な御療治の為であつたのでせう、昨夜(廿三日)は私茅ヶ崎館に居ましたがあまり急なので到頭死目に會ませんでした』と悄らし言ひ切れぬ悲哀の涕は堪へ堪へて黒眼勝の美しき瞳に僅かの露となりて光れるを見る、氏は尚は語を續(ツ)ぎて『眞山君には一卜通りならぬ世話になりました昨夜も手がないので眞山君と二人で死體を片付け病院から此家に持って来ました』

246
岡村(野水)特派員
独歩全集
I
火葬に附す
528
六本松 茅ヶ崎館
棺は茅ヶ崎停車場の前に出て此處で各自に提燈を點じ其れより舊東海道街路の老松に風颯々として鳴る下を通って六木松の火葬場に向ひ、此道程一里、何となく物淋し気なる歩みに元気を附けんとて、種々の事を話し合ひ乍ら行く、『硯友社派の連中は一時文士相撲といふものを行(ヤ)って居たが、吾党(自然派)は一つ茅ヶ崎に自然派文士相撲を興さうぢやないか』と發起する者がある、
 火葬場は六本松と稀する小高い丘上にあつて右には空突くばかりの亭々と聳えたには一面に小松の生茂れる物凄い危い小径を鈍い提燈の光に照しっゝ行った、空には月が無くて無数の星がきらきらと人の肺腑を射すが如くに光って居る、(中略)送葬の文士は今夜悉く茅ヶ崎館に泊った。

247
無署名
独歩全集
I
一昨夜の茅ヶ崎館
528
六本松 茅ヶ崎館
一昨夜国木田独歩氏の遺骸を六木松丘上の火葬場で茶毘一片の煙と化してから見送つて行った人々も故人の事など話しながらとぼくともの凄き東海道の松並木を歸つて来た、一同茅ヶ崎館に着いたのは午後の十時頃、旅館でも急に多勢の御来客で女中は上を下への大騒動、やがて茶が出る、酒が出る、しめり勝ちな座も聊か陽気になつた、見渡すと小栗風葉、小杉未醒、田村三治氏等の酒豪は床の間の前に陣取って痛飲し初めた様である、火葬場への途中は始終沈黙を守って居た田山花袋氏はやがて隣りに座を占めて居た寡言温厚の満谷國四郎畫伯と何か独歩社時代に独歩氏が大に恩顧を受けた事などを感謝してゐる、西本翠蔭氏は隅の方で片手に酒盃を持ちながら盛んに煙草を吸んでゐる

248
雑誌「新潮」1908(M41).07号(追悼・特輯号)
田山花袋
独歩全集
I
弔詞
531
茅ヶ崎駅 六本松
独歩国木田哲夫君、君の逝ける翌日、親友故舊皆な湘南茅ヶ崎の一屋に集り、君が為めに香を奠し、君が為めに誠を致し、悲痛哀悼止むところを知らざりき。野花は君が棺を飾り、濤聲は讀経の聲に和し、梅雨晴の夏の日影は田舎家の軒の繭の白きを照したりき。あゝかゝる日かゝる田舎、かくして君が遺骸に侍せんとは、何の日かわれ思ひし。君よ、君が遺骸を焼けるの地は、君が知れる茅ヶ崎停車場を東に距る半里、舊東海道の松並木を北に外れたるところ、夕の露草の葉に繁かりしよ。

249

田山花袋
花袋全集
N
東京の三十年(独歩の死)
608
茅ヶ崎駅 茅ヶ崎小学校 南湖院
停車場を下りて、昔の宿場の名残の残つてゐる町を通つて、それから汽車の踏切を越えると、ホプラで圍まれた小學校があつた。松原がそこにも此處にも見えて、富士の白雪が寒く日にかヾやき渡った。 半は松原、半は畠、處々に瀟洒な別荘や藁葺屋根や漁師の家や、さういふもののある中をうねうね曲って通じてゐる路を、私は度々通って行った。 國木田君は、明治四十二年の二月から、相模の茅ヶ崎の南湖院にその病を養ってゐた。 私は何とも言はれない感慨に撲たれながらその路を通って行った。

250
610
茅ヶ崎館
『七八町行くと、この先に、T館といふ大きな旅館があるんですけれど……。こゝは、それは小さな旅籠屋なんですよ。病院に來て、遅くなつた人が泊るやぅな處なんですよ。』 海近い三月の夜の空氣と、梅などの雜つて吹いてゐる松原の静かな音とが、私に何とも言はれないロマンチックの感を起させた。

251
611
南湖院
國木田君の夫人は、子供を伴れて、その旅館のすぐ向うの松原の中の小さい三間ほどの家を借りて、そこからお君さんと代る代るに、病院の方へ看護にと出かけるのであつた。

252
612
茅ヶ崎館
『何うせ、もうあいつは長いことはないんだ。』といふやうな軽佻な態度、さういふ態度がイヤだつた。病人を慰めるために、さういふ不眞面目な落書などを書いたと言ふことが、それが私にはイヤであつた。前田君がそれに腹を立てゝ、茅ヶ崎館に泊らずに、をりから見舞に來た岩野、正宗二氏と、私と一緒にわざく國府津に行って泊ったのも無理はなかつた。戸塚黨の人達は、其時、大勢茅ヶ崎館に泊つてゐたから……。

253
613
茅ヶ崎館
しかし、茅ヶ崎館にも、わるい思ひ出ばかりではなかつた。ある日は、小栗君と小杉未醒君と落合つて、三人して、濱を越して茅ヶ崎館へ行った。三月の末はまだ寒いので、室といふ室はしめられて、私達はさびしい暗い廊下を通って行つた。そこで静かに過した夜の興は忘れられなかつた。

254
その病室の入口のところで、國木田君を眞中にして、大勢して投影した寫眞がある。その時の状態は、『かれ等は踊る』の中にも書いてあるが、あれは私と前田君が、一度國木田君を撮影して置かうと言って、そして社の寫眞部の人を伴れて、わざわざ出かけて行ったのであつた。ところが、落書一件で、前田君も私も不愉快で、某夜は國府津へ行って泊り、そのあくる日、歸って來て、そして撮影した。 中村君、相馬君などは、その夜茅ヶ崎館に泊つた。

255
614
南湖院 烏帽子岩
私は『生』の原稿のたまるのを待つては、よく病院へ出かけて行つた。後には成るたけ私とかれとの眞の悲哀を味ひたいと思つてひとりで出かけた。四月には、松原の間に花が吹き、菜の花は黄く、麥は 青く、桃の紅なども雜つて、あたりはインプレつシヨニストの繪のやぅな光景を呈した。 鰺の開いたのが道端の漁師の家の臥席の上に並べられて、それに麗らかな美しい春の日がさした。 海は霞んで、烏帽子岩を掠めた帆は、静かに静かに動いた。

256
615
南湖院
ある日、茅ヶ崎からかれの自筆で端書が來た。是非一度逢つて話したいからすぐやつて來て呉れと言ふのであつた。

257
617
茅ヶ崎
午後からは、弔客が非常に多く東京から來た。田舎で死んで、そしてあれほど多くの弔客を集めたものは澤山あるまい。文學者、新聞記者、雑誌記者、家の周圍はすべてさういふ人達で一杯になつた。

258
618
茅ヶ崎館
夜になつてから、私達は棺について、それを茅ヶ崎のレイルの向うの六木松の焼場で焼いた。 その夜の茅ヶ崎館の光景は、中村星湖氏の『かれ等は踊る』の中に書いてあつた。何故、私がさうした乱暴の態度をしたかと言ふに、それは矢張、小栗君、眞山君等の不眞面目な執つこい態度に激したためである。もう一つは餘りに周圍が煩さく私を苦めたからである。

259
1943(S18).03小学館
齋藤弔花
国木田独歩と其周囲 

青果の「病状録」
233
南湖院
青果は、独歩と親しく語り合つたのは、明治四十一年独歩が茅ヶ崎南湖院に一病客として送られた間もないころからである。

260
1943(S18).03小学館。引用の秋江の文の書誌は未詳。註は齋藤による。
齋藤弔花
国木田独歩と其周囲 

青果の「病状録」
233
南湖院 茅ヶ崎館
近松秋江は次の如く云つてゐる。「国木田独歩が茅ヶ崎の南湖院に入院してゐて、(中略)真山君は、その時茅ヶ崎のある旅館の一室で殆ど袋叩き同様の目にあはされたといふ事を聞いた。(中略)註◆袋叩き云々は事実でない

261
1943(S18).03小学館
齋藤弔花
国木田独歩と其周囲 

南湖院の今昔
274
南湖院
「独歩をめぐる人々」を思ひ立って、ふと、茅ヶ崎を訪うて見たくなつた。そのころの南湖院に行く半里近い砂原は、いぢけた麦の畑と、いも畑だつた。その中を一すぢの野道が蛇腹のうねりを見せて続いた。 こんなところに、彼が若し入院しないなら、我等は何の因縁もなくて済む土地だつた。独歩の病が進んで、銚子の杉田別荘から帰つて來て、茅ヶ崎の病院に世話になることとなったので、予は検分役として、先そこに高田院長を訪づれた。白いペンキ塗りの病室が幾棟もあつて、その病室は綺麗だつた。初夏の陽は窓を透して、磨かれた廊下に華やかに光つてゐた。

262
278-279
茅ヶ崎駅 南湖院
 汽車の窓から見た茅ヶ崎は、全然様子が変ってゐた。海岸まではとんど空地がない程屋根が重なつて見えた。 何気なく下車して見ると、南入口といふのがあつて、そこに出ると、サイドカーが幾輌も並んでゐる。人力車もあつた。乗降が多いことを想像せしめるに十分である。これが独歩の時分には、北側の往来に二三軒の茶店があつた。やつと一台の事(車か)を拾ふに骨だつた。茶店には牛乳とパンを売ってゐた。そこから踏切を越えると、畑つゞきだつた。黒い砂。白い蕎麦の花と田山花袋が書いた。 サイドカーの中に予は収まつて、南湖院へ急いだ。沙原の南側には低い家が立並んで、南湖院の松原までつゞいた。茅ヶ崎の本通は北側に立派な街衢(ガイク)を成してゐる。 南湖院の玄関に導く前庭に西洋種の花が咲いてゐた。その入口の門のペンキの剥げた門は昔の侭のやうな気がした。そこの門を彼は担がれて入り、棺に入られて出た。(中略) 彼が明治四十一年六月二十三日、南湖院の一室から死骸となつて、畑の中の借宅に帰って来やうとは想像もつかなかつた。

263
独歩の写真
26
南湖院
改造社版の「現代日本文学全集」第十五篇「国木田独歩集」の巻頭の晩年――茅ヶ崎南湖院で撮つた五分刈の彼。

264
「解説」の解説
132
南湖院
四十一年二月、遂に茅ヶ崎南湖院に入院した。(中略)真山青果が屡々茅ヶ崎を訪れて独歩の語録を蒐めた。

265
愛すべき人風葉
228
茅ヶ崎
独歩の死は、茅ヶ崎の遺族から友人連へ電報せられて、そこの小さい一旅館へ皆が集つた。

266
1949(S24).06留女書店
中村武羅夫
明治大正の文学者

田山花袋と自然主義文学
48
南湖院
独歩は死に際こそ一時的にパツと華やかだつたし、「二十八人集」が売れたかして、財政上も左程困らなかつたとしても、若い時代に失恋はするし、原稿は売れず、つぶさに窮迫の辛苦を嘗めて、「首でもくくつて死んでしまひたいと思つたことも、何度かあつた」と、茅ヶ崎南湖院の病床でつくづく述懐の言葉を洩したことがあるのは、僕のたしかに聞いたところである。

267
56
南湖院
国木田独歩の臨終の当時、茅ヶ崎では田山さんによくいつしよになつたが、以前のやうな親しみは見せてくれす、顔を背けるやうにしてゐた。どういふわけだか合点がいかなかつたが、それでよく呑み込めた。しかし、それには私が小粟風葉を崇拝して弟子になったばかりでなく、生活までも、所謂そのころ戸塚派と称されて、一種の文壇の党派の如く目されてゐた風葉氏などの、デカダン生活の中に身を投じたことも、田山氏としては飲む面白いことではなかつたらしい。 それについては国木田独歩が、南湖院の病牀で、僕に言つたことがある――

268
59-60
南湖院 茅ヶ崎館
田山花袋の「東京の三十年」に依ると、「国木田君は、明治四十二年の二月から、相模の茅ヶ崎の南湖院にその病を養ってゐた。」ちなつてゐるが、これは明らかに花袋の思ひちがひである。(中略)臨終に間に合ったのは、当時茅ヶ崎館に滞在してゐた真山青果氏ただ一人だつた。(中略)独歩の臨終の四五日前まで、真山さんといつしよに茅ヶ崎館に滞在して、毎日々々南湖院の独歩の病室に通つたものである。(中略)茅ヶ崎の海岸は、ちよつと沙漠のやうな感じのする広い砂浜である。松林が多く、その松林の中に南湖院の白いペンキ塗りの清潔な建物が、いくつにも棟を分つて建てられてゐたり畑には麦と桑とが多い。私は、ちやうど麦が青々と、穂並を揃へた時分から、黄色く熟れて麦秋を迎へ、早い裸麦など刈り取つて、その畝の間から漸く根づいたばかりのひよろひよろの芋苗が、時々カツと射して来る梅雨時分の眩しい日光を吸うてゐるのを見る時分まで、茅ヶ崎にゐたわけである。――茅ヶ崎館から南湖院までは、浜つたひで七八町くらゐだつたらうか。或る時は午前いつぱい、また或る日には午後出かけて行って夕方まで、独歩の病室に詰めることにしてゐた。だから私は毎日、相模灘の波を見、砂を踏んで、一人の時もあれば、また青果氏といつしよに、宿と南湖院との間を往復したわけである。

269
国木田独歩の死とその前後
63
南湖院 茅ヶ崎館
ちやうど茅ヶ崎に行かなければならないことになつた時分には、とてもやり切れないので、青果氏から離れようと決心してゐた時であつた。だから真山さんといつしよに茅ヶ崎館に滞在して、同じ仕事をすることなどどうにも気が進まなかつた。(中略)結局、眞出さんとはいつしよでも、新潮社の仕事だから佐藤さん直属で、真山さんとは交渉なしといふことで、茅ヶ崎に行くことにした。その前にも私は、一度南湖院に独歩を訪問したことがあつたし、(四十一年三月初め)その前の年の秋の初めのころには、西大久保の茅葺の家に、独歩を訪ねたことがあつた。

270
64
南湖院
南湖院に訪問した時は、私はその冬ずつと葉山にゐたのだが、独歩の入院が世間的に大分やかましく伝へられるので、「新潮」に訪問記を書くために、葉山から出かけて行つた。少し西風があつたが晴れた、明るい日の午後だつた。

271
「月報」
徳富蘇峰
独歩全集
H
国木田独歩宛書簡1908(M41).2.4
1
南湖
餘寒(ヨカン)動(ヤヤ)もすれば人ヲ鬱の候(。)南湖風色奈何(イカン)

272
独歩の『病牀録』
真山青果
病牀録

序文

南湖院
五月二日歸京、三日風葉先生と南湖院を見舞ふ、一泊して四日歸京。家事の始末して同八日又茅ヶ崎に行き、六月二十七日遺骸送京の日まで滞在す。その間一晩泊りながら東京に歸りし事二回。

273
1916(T05).09
中村星湖
雑誌「太陽」

彼等は踊る
166
南湖院
私達は寂しいC――停車場に降りると、角の物を売る店で道をたづねて、田淵氏のゐる病院へ歩いて行つた。

273
茅ヶ崎館
雑草も生えないやうな灰色の砂丘を幾つかめぐりめぐつて行くと、広々とした砂浜が眼の前に展けて、それが黄ばんだ麦畑などに続かうとするあたりにやゝ古い松があつて、その間に幾棟かの建物が見えた。その庭の垣根のそばに立つて、桂は片手を喇叭にしておどけた声でこちらを呼んでゐた。【注】国木田独歩をモデルとした「田淵氏」の死をめぐっての茅ヶ崎館を舞台とした小説。引用しきれないので残りは省略。

274
1912(T01).10.15
前田晃
雑誌「文章世界」

茅ヶ崎に於ける国木田独歩

茅ヶ崎
私達は寂しいC――停車場に降りると、角の物を売る店で道をたづねて、田淵氏のゐる病院へ歩いて行つた。【注】国木田独歩をモデルとした「田淵氏」の死をめぐっての茅ヶ崎館を舞台とした小説。

275
筑摩書房1973(S48)
真山青果
明治文学全集
70

165
茅ヶ崎駅 六本松
××停車場手前では並木越しに××を火葬にした六本松の松森が黒く見えた。

276
雑誌「新声」1908(M41).07
真山青果
雑誌「新声」

茅ヶ崎にて

茅ヶ崎


277
筑摩書房1973(S48)
平野謙
明治文学全集
70
解題
409
南湖院
茅ヶ崎の南湖院に病いを養っていた晩年の國木田獨歩との交渉が、ひととおり描かれている。


このミステリーがすごい大賞 第1回優秀賞受賞作品
武田ティエン
宝島社文庫

沈むさかな
314
烏帽子岩



講談社文庫
真保裕一
防壁

相棒
123
烏帽子岩