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10ユダヤ人を中心にして世界は動いている |
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ユダヤ人問題は、文明の中の一番大きい秘密です。日本人は日本の国のことだけしか考えていないのですが、日本の国を良く知る意味においても、世界の文明がどういうものなのかを勉強する必要があります。 世界の歴史がどのようにして成立しているかを知ることです。現在、白人が文明のリーダーシップを取っています。なぜ白人が東洋人をおさえているか。人数からいえば、白人は、東洋人の何分の一です。このわずかな白人が、世界全体のリーダーシップをとるという、理屈に合わないことになっているのです。 なぜそうなっているのか。この説明は、仏教では絶対にできません。これは、ユダヤ人問題が分からなければ、説明できないことなのです。よいにしても悪いにしても、現代文明を論じる以上は、ユダヤ人問題が分からない状態では、論じることができないのです。白人は、人数からいえば、東洋人の十分の一ほどしかいない。しかも、その白人文明は誰が形成しているかといいますと、白人の中にいるユダヤ人が形成しているのです。例えば、資本主義とか、共産主義は、皆ユダヤ思想なのです。ユダヤ思想を除いては、現在の世界の学問、社会革命思想、自由主義経済思想が成立しないのです。 白人の中の、わずかなユダヤ人が、世界の文明のリーダーシップをとっているのです。現代文明、あるいは近代文明、ルネッサンス以降の文明は、ユダヤ人がつくった思想で、引きずられているのです。それを私たちは、文明だと言っているのです。こういうことが分からなければ、命の本質は分からないのです。 宗教がいいとか悪いとか言っているだけで、全世界の歴史がどのように成り立っているかに、無関心ではいけないのです。こういうことは、キリスト教では説明しません。仏教でもできないのです。この説明ができるのはキリスト教であるはずなのに、キリスト教は、聖書を読破していないとしか思えません。聖書の全体的な思想をとらえていないので、キリスト教を四十年、五十年勉強しても、本当のことは絶対に分かりません。 ユダヤ人問題は、現在、世界を引っぱり回している、ごくわずかのユダヤ人の問題です。第二次世界大戦前のドイツの場合で言いますと、ユダヤ人のしていることが、ヒットラーの癇に障ったわけです。癇に障わるのは当たり前で、ドイツ社会は、ほとんどユダヤ人がリーダーシップを持っている社会であったのです。 ドイツは第一次世界大戦に負けて、講和条約を結びました。国が小さくなるし、多額の賠償金を取られ、惨たんたる状態になったのです。そのからくりをしたのが、どうもユダヤ人らしいのです。 ユダヤ人が世界文明をつくっているという事実は、知っている人は知っていますが、日本人は知らないのです。ユダヤ人問題が分からないと、文明がどのように動いていくかが、分からないのです。これが、日本人の哀れさです。日本の外交は、ユダヤ人問題を理解していませんから、後手ばかりになるのです。アメリカやロシアに、引きずりまわされているのです。 世界の歴史の問題と、霊魂が救われるか滅びるかの問題は、一つのことなのです。こういう見方ができなければ、宗教ではない、とは言えないのです。 文明が間違っているのは、ユダヤ人が間違っているからなのです。ヨーロッパの政治は、ユダヤ人のからくりなのです。ユダヤ人のからくりが、政治経済に現れている。それに対して、ヒットラーは、腹を立てたのです。そこで、ドイツにいるユダヤ人を、全部殺してしまえとなったのです。 腹を立てるのは無理もないことで、第一次世界大戦のドイツの皇帝はウィルヘルム二世でした。この人はユダヤ人が嫌いで、何とかユダヤ人を押さえつけようと考えていました。ベルリン大学には、ユダヤ人の教授がたくさんいたのです。ユダヤ人教授を、ベルリン大学から追い出さなければ、ベルリン大学がユダヤ人大学になってしまう、というわけです。そこで、ユダヤ人の教授、助教授が何人いるかを調べてみたら、八十五%までユダヤ人だったのです。これではユダヤ人教授をすべて追放すると、ベルリン大学が潰れてしまうことになります。当時のベルリン大学は、世界最高学府で、特に医学は、世界一でした。当然のことですが、ユダヤ人教授をすべて免職にしますと、大学が潰れてしまうのです。 ドイツはあまり大きな国ではありませんが、ユダヤ人の金持ちがいて、ドイツを押さえつけていたのです。ユダヤ人を殺さなければ、第三帝国は成立しないと、ヒットラーは考えました。そこで、六百万人とも六百五十万人ともいわれるユダヤ人を殺したのです。六百万人と一口にいっても、それだけの数の人間を殺すのは、大変です。これが、いわゆるアウシュビッツ等の事件です。 こんな大事件が起こっても、なぜこんな事件が起きたのか、まじめに考える人が少ないのです。人種間題の一番盛んなヨーロッパで、この事件が起きたのです。わずか六十年ほど前に、このような不思議な、不可解な事件が起こっていることが、ユダヤ人問題なのです。日本はこの問題の本質をまるで知らないのです。現在、アメリカやロシアが、世界を牛耳っていますが、その裏には、ユダヤ人問題があるのです。なぜこんなことになっているか。なぜ、ユダヤ人が世界を引き回しているか。ここに神の約束という大問題があるのです。 神が、世界を、どのように経倫しているか。地球を造った神が、どうして世界をきり回しているか。ユダヤ人の祖先のアブラハムに、神が約束を与えたことが旧約聖書に書いてあります。旧約聖書は、全部ユダヤ人について述べています。今、キリスト教徒は、旧約聖書を読んでいますけれど、本来、キリスト教とは関係がないのです。 だから、本気になって旧約聖書を読んでいる人は、日本にはいないのです。世界にもあまりいないでしょう。ところが、旧約聖書をしっかり勉強しなければ、神が天地をつくった本当の意味が分からないのです。そういうわけで、人間が住んでいる宇宙船地球号は、実は、ユダヤ人を中心にして動いているのです。 しかも、このユダヤ人が、人間の罪の標本なのです。ユダヤ人の世界観が、罪の標本になっているのです。罪とは、人間の業なのです。世界の歴史は、ユダヤ人を中心にしなければ成立しないような、業があるのです。これは、世界の人間の業なのです。 これが、仏教では分からない。ユダヤ人問題が分からないようでは、世界の人間の歴史とか、世界の文明の流れを正確に勉強することはできません。つまり、人間が生きていることが霊魂であって、人間が本当に幸福になろうと思ったら、世界歴史をわきまえなければならないことを、申し上げたいのです。 聖書は人間存在について四つのあり方を書いています。人間のあり方は、第一態、第二態、第三態、第四態と四つあるのです。第一態の人間は、創世記第一章二十六節の状態です。『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』とあるのです。これが人間の原則なのです。『男と女とに創造された』という二十七節は、第一態ではなくて、第二態に属することになるのです。 第一態の人について、歳言は次のように述べています。 『主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの始めとして、わたしを造られた。いにしえ、地のなかった時、初めに、私は立てられた、まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、私はすでに生まれ、山もまだ定められず、丘もまだなかった時、私はすでに生まれた。すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、私はそこにあった。彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、海にその限界をたて、水にその岸を超えないようにし、また地の基を定められたとき、わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、その地で楽しみ、また世の人を喜んだ』(8・22〜31)。 これは地球が造られる前のことなのです。陸と海が定められる前です。水と水との間に大空があって、大空の上の水と、下の水とが分けられたとあります。万物が造られる前に、人が造られたのです。これが第一態の人なのです。第一態の人は、こういうすばらしいものでした。神と一緒に万物を造り、天地創造したのです。大したものです。 第二態の人間は、詩編で次のように記されています。 『主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。山がまだうまれず、あなたがまだ地と世界とを造られなかった時、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子よ、帰れ」と』(90・1〜3)。 人間のすみかは神です。私たちの理性は、自分のすみかをたずねているのです。生きている状態をたずね、死んでからどうなるかをたずねるのです。これが理性の本質ですが、これを説明できる日本人がいないのです。聖書には書いていますが、日本人は聖書を真面目に読もうとしないのです。だから日本人は、理性が正しく働いていないとさえ言うことができます。 人間が生きていることの根本的な道理、命についての根本的な道理を、理性は知りたと思っているのです。命の原理を知りたいと思っているのです。ところが、現在の学校制度が人間の理性をだめにしたのです。 良心は善悪を判断する機能です。理性は弁える機能です。弁えることと判断することとは違います。判断するとはどういうことかといいますと、人間の生活には善と悪が混戦しているのです。これを判断して、より分けるのが良心の役目なのです。今の人間はこれができなくなっているのです。自分の利害得失の方から善悪を考えている。これは間違っているのです。得をしようが損をしようが、良いことは良い、悪いことは悪いのです。 教育を受けると、自分の立場を第一に考えるようになるのです。これは良心ではなくて、欲なのです。皆様は教育制度のために、人間が本来持っている能力を破壊されたのです。これが近代教育の仕事なのです。 なぜユダヤ人がこういう教育を始めたかといいますと、人間の理性と良心が使えなくなるようにするためです。そうなると、魂の方向づけができなくなり、魂が盲目になるのです。その結果、現在の訳の分からない人間ができたのです。 今の皆様は、魂の方向が分からないでしょう。人間の魂を盲目にしてしまうことによって、ユダヤ人が世界の指導者になれるのです。学校教育は、これを狙っているのです。異邦人が魂の目を開くと、ユダヤ人の失敗が分かるのです。ユダヤ人は世界の指導者になろうと考えて、聖書で目が開かれて理性と良心がはっきりしている人間を、世界から全部なくしてしまおうと考えた。ナザレのイエスのような人物が出てくると困るのです。釈尊の一切皆空ぐらいならまだいいのですが、ヨハネやパウロのような人物が現れると、ユダヤ人の間違いをいちいち取り上げるので困るのです。 ユダヤ人は世界を引きずり回すために、人類の理性と良心を盲目にしたのです。これが、現代文明の実体なのです。文明の度合いが高ければ高いほど、人間はばかになるのです。こういうことをあげつらう人が異邦人の中から出てくると、ユダヤ人はつらいのです。 良心がはっきりしてくると、初めて神の御霊の流れが分かってくるのです。そうして悪の霊の働きが見えてくるのです。神の御霊の働きと、悪の霊の働きを見分けるのです。これが良心の役目なのです。 魂の目が開かれると、理性が天地創造の原理、大原則を知りたいと思うようになるのです。太陽の光が輝いているのはなぜかを知りたいと思うようになるのです。そうすると、私たちの命がまともな命に帰るのです。死なない命が見えてくるのです。そうなって初めて、人間の第一態が分かってくるのです。 『神が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにいた』とあるのです。『神が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、海にその限界をたて、水にその岸を超えないようにし、また地の基を定められたとき、わたしはいた』とあるのです。こういうすばらしい人間が堕落して陥罪し、さらに教育によって、全くばかになったのです。 人間をばかにしない限り、現世を絶対と考えるようにはなりません。今のユダヤ人は、現世を絶対と考えるようにしているのです。しかし昔のユダヤ人は、そうではなかったのです。方向は間違っていても、神の国を考えようという思想だけはあったのですが、今のユダヤ人はそういう思想さえもなくなったのです。現世が最高のものだというように、方針を変更したのです。ルネッサンスを言い出したときに、方向転換してしまったのです。 ユダヤ教の本質はヘブライズムです。それは、神を基本にしたものです。その看板を下ろして、ギリシャ文明と一つになろうと、積極的に言い出したのです。これがユダヤ人の本心かどうか分かりませんが、そういう運動をヨーロッパで展開した。これが文芸復興、すなわちルネッサンスです。その後、人類全体が極端に悪くなったのです。 ルネッサンスによって人間を解放した結果、人間に対して誰も責任を持たなくなったのです。そのため、人類が全滅して全部火の池へ放り込まれるというまったく恐ろしいことになったのです。これがルネッサンスの目的です。 文明が発達して、一体何になるのでしょうか。生活は楽になったでしょう。基本的人権があると信じて何が益になったのでしょうか。若い人達が人権を振り回す結果、年寄りはわけの分からないことを言うものだ、年寄りの言うことは悪くて若者の言うことは正しいとされて、世の中の秩序が立てられなくなったのです。従って、若者の立場から言うと、先生や両親の意見は無視してもいいとなったのです。 民主主義の目的は何なのかわからないのです。社会がどうなったらいいのか、今の政治家は説明ができないのです。説明ができない政治をしているのです。人権をやたらにいう結果、政治の目的がなくなったのです。自由、平等、民主主義、資本主義、自由主義とやたらに言う結果、人間の目的も、歴史の目的もなくなった。文明の目的もなくなり、地球全体に目的がなくなった。人間自身が目的を持たなくなったことによって、地球そのものが現実的に存在する価値を失ってしまったのです。 人間の目的がはっきりしていれば、地球の目的がはっきりしているのですが、人間自身が目的を失ったので地球そのものが目的を失ってしまった。その結果、大混乱をしなければならないことになったのです。世界はやがて収拾がつかない混乱が始まるでしょう。 今の文明は底抜けです。穴があっても底がないのです。その中から黒い煙と共に、イナゴの大軍団が現れてひどいことをするのです(ヨハネの黙示録9・1)。イナゴは大変な自身を持っている。鉄の胸当てをつけていて、矢でも鉄砲でも持って来いと威張り返っているのです。今のジャーナリズムがそれなのです。何も分からないのに、大変な自身を持っている。金の冠をかぶり、女の髪の毛をたらし、ライオンのような歯を持っていて、何でもかみつぶしていくのです。大統領の一人や二人は平気でかみ殺してしまうのです。その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようだとあるのです。テレビとラジオと新聞で、世の中をめちゃくちゃにしてしまうのです。そのために明は、ひょろひょろになっているのです。 現代人の頭の中は空っぽです。思想も、理想も、希望も目的も、自信もない。皆、イナゴに食いつぶされているのです。文明の正体は、本当にひどいものです。第一態の人間は、神と一緒に地球を造ったのです。そのとき、人は名匠のような働きをした。名匠というのは、名人かたぎの職人です。花を見てください。バラでもチューリップでも、菊でも水仙でも、まったく職人かたぎの名人芸です。第一態の人は、こういうすばらしい働きをしたのです。 第二態の人は、神と一緒に天地を造った人が粉々にされて、人の子になったのです。その結果、自分自身のあるべき姿がわからなくなったのです。第三態は、この世に生まれてきた人間です。第一態と第二態の人は、この世に出るまでの状態です。第三態はこの世に出てからの人間です。 創世記の第一章から第四章までは、人間がこの世に出るまでの話なのです。エデンの園は、この世のこととは違うのです。この世のことに大きな関係がありますが、この世の人間の話ではありません。 第三態の人間が、この世の人間です。これは人の子ではなくて、人間様なのです。人間様は全部、火の池へ投げ込まれることになっているのです。パウロは、『すべての人は罪を犯したために、神の栄光を受けられなくなった』と言っているのです(ローマ人への手紙3・28)。 人間様は、神が認めていないのです。固有名詞の肉の人間を、神は認めていないのです。しかし人間様を生かしているところを見ると、私たちの魂を神が認めていることになるのです。魂とは私たちが生きている実体です。自分が生きているのではありません。生きているという実体があるのです。これが魂です。神は魂を認めようとしているのです。 読者の皆様は困ったことに、人間様である自分を認めているのではないでしょうか。それは、魂を全然知らないということになります。神は私たちの魂だけを見ようとしているのです。私たちは人間である自分が幸福になりたいと思っているのです。私は二回、世界一周旅行をしてきました。雄大なメコン川流域、エジプトのピラミッド、美しい地中海、アフリカのサバンナ、広大なアマゾン川、地球最後の秘境といわれるギアナ高地、美しいカリブ海、雄大なカナディアンロッキーの山々が印象的でした。人間はその美しさは分かりますが、その意味が分からないのです。 景色は第一態の人が神と一緒に造ったものです。第三態の人間はそれを見ても何が造られたのかさっぱり分からないのです。私達の元は、第二態である人の子です。第一態は、元の元になるのです。私たちの元の元が造ったものを、第三態である私たちは目で見るけれど、それが何を意味するのか全然分からないのです。景色はすばらしいと思いますが、景色はどういうものかが分からないのです。それが分からなければ、私たちの魂は死んでいるのです。 イザヤは人間の精神状態を次のように述べています。 『あなた方は聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』(使途行伝28・26、27)。 認めるというのは、景色の本質をはっきり認識することです。それができない人は魂が死んでいることを証明しているのです。 この世に生まれた人間は、第三態の人間です。この人間は皆、罪を犯したから、神の栄光を受けることができないのです。富士の景色は神の栄光を現しているのです。それを人間は受け取ることができないのです。心で受け止めて消化することができないのです。 私たちの目の機能は、神の御霊の働きです。神の御霊の働きが、肉体機能として私たちに宿っている。この働きによって、私たちは見ることができるのです。ところが私たちの精神がだめになっているために、富士に表れた神の栄光を受け取ることができないのです。 富士に現れた神の栄光は、地球ができる前の栄光なのです。地球ができる前の栄光が、富士の姿になって現れているのです。これが分からない人は、現世から去るという死と共に、第二の死にあずからなければならない。第二の死にあずかった人は、永久に裁かれるのです。第二の死はとてもひどいものです。私たちは現世で肉体生活のことばかりを考えていた。これを徹底的に裁かれるのです。 景色が分からないようでは、とても神の前に出ることはできません。神は景色の奥にいるのです。私たちは第一態の人の時には、死なない命を持っていたのです。その時、神の手伝いをして、山を造り、海を造ったのです。それほど有能な力を持っていた私たちを、なぜ神が粉々にしたのか。その時、ルシファーという大天使が神に反逆した結果、悪魔になって、淵のおもてに座ったからです。彼が、形あるものを認識するという個性を主張し始めたからです。 心理状態が形のあるものにへばりついた。これが悪魔と同じ状態になってしまう前の真理状態でした。悪魔が天から地に落ちたのと同時に、人が粉々にされたのです。人が粉々にされたのと、悪魔が天から地に落ちたのとは、ほとんど同時だったのです。 粉々にされる前の人は、悪魔に充分に太刀打ちできるくらいの、大変な力を持っていたのです。神と一緒に地球を造るぐらいの、すばらしい力を与えられていたのです。これが粉々にされて人間様になったのですが、陥罪という事件を起こしたために景色がまったく理解できない状態になっているのです。 そこで第一態でも第二態でもない、景色を理解できる性能を持った人ができた。これがイエスという第四態の人です。イエスは第三態と同じ姿をしていたが、天から来たのです。それで景色の本当の姿を見分けることができたのです。第一態とほとんど同じ状態の人がイエスです。第三態の人間は、この人を頼りにするしか方法はないのです。この人をつかまえるしか方法はないのです。 世界六十四億の人間は皆、自分がいると固く信じている。これは死んでいくに違いない人間です。この間違いをいくら説明しても、人々は絶対に信じないでしょう。そこで神は、人々に隠されている死なない人間、永遠の命の実物を、目に見える状態で現したのです。これが第四態であるイエスです。 このイエスを、冷静に、平明に、綿密に見れば、それがすべての人の客観的な姿であることが分かるようにできているのです。イエスと自分が全く同じだということが分かるのです。これが分かったことが、イエスを信じて受け入れるということなのです。死ぬべき第三態の人間から脱出する方法はこれしかない。これが永遠の生命を得る唯一の方法なのです。 |