| 14キリスト教とユダヤ教が聖書を誤解している |
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聖書は個々の人間の悟りや救いを説いているのではありません。個々の人間の救いを中心に考えますと、宗教になってしまうのです。キリスト教の間違いはここにあるのです。 自分の代わりにキリストが死んでしまった。キリストが死んだことが、すべての人間が死んだことを意味するということが、分かったようで分からないのです。異邦人にはキリストが理解できないのです。キリストという特殊な思想は、約束の民だけにしか分からないのです。 現在はユダヤ人もキリストを知りません。ユダヤ人は宗教的な教義としてのキリストを知っていますが、歴史的に現れたキリストを全く知らないのです。ユダヤ教の教義は歴史から浮き上がっているのです。従ってユダヤ人の立場から考えますと、キリストは歴史と別のものなのです。宗教と歴史は別のものという見解になるのです。従って現在のイエス・キリストが、キリストだとは考えられないのです。 一方キリスト教のほうから考えますと、キリストが歴史の実体だということが分からないのです。キリストは人類の代表を意味するのです。ところが異邦人は人類全体を代表するという思想が分からないのです。ユダヤ人なら分かりますけれど、それがイエス・キリストだということが分からないのです。 異邦人から見ますと、イエス・キリストが全人類を代表するものだということが、どうしても分からないのです。ユダヤ人から考えれば、イエスが全人類を代表することが、合点できないような気がするのです。両方とも分からないのです。 人間は個々の人間があるような気がするのです。固有名詞の人間の罪とユダヤ人との関係が分かったようで分からない。固有名詞の人間の罪をユダヤ人であるイエスが背負って死んだということは、理屈はそうかもしれないが、実感的には納得できないような気がするのです。ですから、贖罪論がどうしても宙に浮かんだ神学論になってしまうのです。 聖書は一体何が書いてあるかということです。ローマ人への手紙六章、七章に書かれていること、コリント人への第二の手紙第五章に書かれていることはすべて事実です。この言葉を一つ一つ取り上げて論証しますと、かえって分からなくなるでしょう。それを理解するためには、非常に綿密な哲学性と宗教性とがいるのです。 宗教哲学の理論性を考える前に、まず皆様は聖書六十六巻を概括的に捉えていただきたいのです。聖書は一体何かということです。 聖書は地球ができてから消滅するまでのことを書いているのです。地球が存在する前に一つの世代があったのです。 現在の地球ができてからのことは、旧約聖書の創世記第四章から書いています。創世記の四章、五章は、地球ができてからの記録なのです。そして新約聖書のヨハネの黙示録二十二章は、地球が終わってしまうことを書いているのです。 聖書六十六巻は、地球がつくられてから、なくなるまでのことを書いている。入間が造られるというのは小さな問題なのです。そこで、地球が造られてなくなってしまう状態を理解することができた人だけが、地球の歴史を乗り越えて、生き残ることができるのです。 日本とかアメリカとかいう小さな問題ではないのです。現在地球に六十四億の人間がいますが、この人間がどうなるかという小さな問題ではありません。どこの国が戦争をして、人間が殺されたという小さな問題ではないのです。 問題は非常に大きいのです。聖書は地球が始まって、なくなるまでのことを書いている。それを皆様が公明正大な感覚で理解して信じることができたとすれば、皆様は地球存在を貫いて、地球存在の主として、永遠に生きることができるのです。地球がなくなっても生きることができるのです。 地球存在を貫いて、地球存在の中心的な命題として、永遠に展開するテーマを、キリストというのです。地球ができてから、なくなるまでに展開する神のテーマをキリストというのです。自分の罪があるとかないとかいう小さなことよりも、聖書全体の大きいテーマを捉えるという考えを持って頂きたいのです。 そういう大きい考えをもって、それを具体的に理解するために、現実における自分自身の古き人という問題、セックスをどのように扱うかという問題が起きてきます。 キリストは地球ができてからなくなるまで、そして新天新地が展開する中心のテーマを言うのです。これを弁えることが、聖書を勉強する中心命題です。自分自身の霊魂がどうなるかと考えると、テーマが小さくなってしまいます。イエスは神の国と神の義を求めよといっていますが、こういう点からキリストを捉えることが必要です。自分の救いがどうなるかを中心に考えますと、どうしても神学的な命題に捉われてしまい、宗教哲学の虜になってしまいます。そうするとイエスが分からなくなるのです。 キリストと私たちの関係はどのようになっているのでしょうか。聖書は次のように述べています。 「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのである。わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現われるであろう」(コロサイ人への手紙3・3〜4)。 現実に、肉体的に生きている皆様は、霊的に言えばすでに死んでいるのです。そしてキリストと共に生きている。キリストにおいて生きている。キリストと一緒に生きたり死んだりしているのです。 キリストの栄光がやがて現れます。その時にあなた方の栄光も現れる。今のあなた方の姿は、本当ではないとはっきり書いているのです。 キリストを勉強するのです。キリストが分からない状態で、いくら命のことを考えてもだめです。キリストと神との関係を知れば、自分自身の命のあり方は、勝手に分かるのです。キリストが再臨する時に、あなたがたの救いの栄光が現れる。現実に生きているあなたがた自身のことは、考えるなといっているのです。 キリストを信じると言うことは、キリストを知ることです。永遠の命というのは、唯一の誠の神と、イエス・キリストを知ることだと言っています(ヨハネによる福音書17・3)。 イエス・キリストを知ることが、永遠の命なのです。自分がとこしえに生きなけばならないことはないのです。イエス・キリストが分かれば、勝手にとこしえに生きられるのです。 実は釈尊はこれを見たのです。釈尊はキリストを見たのです。明けの明星とはキリストのことです。キリストを見て、現在生きている人間はすべて空だといったのです。これが般若心経の思想です。今生きている人間は、形はあるけれど実は死んでいるのです。キリストは生きている。これが釈尊の言いたかったことです。 キリストを知るのです。キリストが救いです。キリストが分かれば、人間は勝手に救われるのです。これが聖書の結論です。 聖書六十六巻は、地球ができてから、なくなるまでの事を書いています。地球が終わった後に、新しい天地が現れるのです。これが理解できた人は、新天新地に生きることができる。これがとこしえの命なのです。 |