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18現在の地球は試作品 |
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国家、社会はやがて崩壊します。文明も崩壊するでしょう。ところが天皇制は崩壊しません。崩壊した後の世界を、救うためにあるのです。天皇制の本当の目的が果たせればいいのであって、日本という国が崩壊してもかまわないのです。 日本は経済的に膨張して、GNP世界第二位の大国になりましたが、これと天皇制は大きな関係があるのです。これが何を意味するのかが分かっている評論家も指導者もいないのです。 この宇宙にはプラスのエネルギーがあります。これはすばらしいものですが、この正体が今の学者に分かっていないのです。それに対抗するマイナスのエネルギーがあります。この正体も分からないのです。 プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーを人格といいます。人格において、プラス、マイナスが決定するのです。 現在の潰れかかっている文明は、ユダヤ人の宗教観念によってできているのです。ユダヤ人が宗教観念から覚醒すると、世界に次元が違った歴史が展開するようになるのです。ユダヤ人の頭にある次元が壊されると、世界の次元がこわされるのです。 良くても悪くても、約束の民はこういう役割を演じなければならないようにできているのです。いいか悪いかの問題ではないのです。ユダヤ教の宗教観念が、世界の文明になっているからです。学問もそうです。ノーベル委員会はユダヤ人の巣窟です。ノーベルはダイナマイトを発明したユダヤ人でした。ノーベル委員会が、世界の学問の価値を決定する権利を持っているのです。 経済についてはいうまでもないでしょう。経済と学問の二つのポイントを押さえれば世界を動かすことができる。これをマイナスのエネルギーが押さえているのです。こういうインチキが公然と行われているのです。 地球の森羅万象のあり方は、それ自体大交響楽です。グレイト・シンフォニーなのです。四重奏ぐらいではないのです。 「ある」というあり方、動いているという事がらのすべてが、大シンフォニーになっているのです。これが神の福音の展開なのです。その全部を知る必要はありませんけれど、その中心を貫くメッセージは、知っていなければならないのです。キリスト教とか仏教という燻少な宗教は、この意味が分からないのです。 人間の歴史展開を性格に認識できますと、永遠の命とはどういうものかが分かるのです。今生きている自分が、どういうものかも分かるのです。 現代人は困ったことに、世界の歴史が展開していることについて、正確な認識がないのです。現在の地球の創造、つまり第一創造が分からないからです。現在の現象世界ができたことを第一創造といいますが、天地万物が存在することの内容が分かりますと、人の魂の実体が分かってくるのです。 これが分からないと、聖書の言葉をいくら勉強してもだめです。イエスは内の光といっています。内の光とは何か。これを理解するためには、第一創造が分からないといけないのです。 神が天地万物を展開している状態と、皆様が砂糖をなめて甘いと感じる感覚の間に、彪大な問題が、山のように、海のように広がっているのです。この全体を見通すような眼力がないと、本当の命は分からないのです。 人間は生きていながら、生きていることの意味が分からないのです。内の光がそのまま永遠の命になっているということが、分からないのです。人が生きていることの中に、光があるのです。永遠の光です。これをすべての人は持っているのです。持っていながらそれが分からないのです。文明が、それを完全に分からなくしているのです。宗教、学問が、それを全く見えなくしてしまったのです。 あらゆる学理学説の根幹は、ユダヤ人がつくったのです。ユダヤ教の宗教観念が、そのような形になって現れているのです。これは誇雫も要でもありません。ユダヤ人が考えなければ、今日の科学はできなかったのです。政治や経済の仕組みはできなかったのです。 日本人は千数百年もの間島国で生活していましたので、何も分からなかったのです。経済はありましたが、現世のような世界的な広がりを持つものではなかったのです。科学も部分的には勝れた考えはありますが、現在のグローバルなスケールの科学には、とても及ばなかったのです。 現在の科学の目覚しい発展は何か。グローバルな政治、経済は何か、これはすべて、ユダヤ教の展開なのです。ユダヤ教が潰れてしまいますと、世界の政治も経済も、法律、学問も、全部潰れてしまうのです。そういう仕掛けになっているのです。 天皇制はのんびりしたものです。日本ではあらゆることを発言できるのです。欧米でキリスト教が間違っているといったら、殺されるでしょう。そのかわり、日本では何をいっても、全く反応はないのです。 文明が混乱し、崩壊に近づけば近づくほど、聖書の真理が光ってくるのです。人間は死ぬべきものではないという大真理です。これが、やがて、歴史の表面に現れてくるでしょう。 今の人間は何のために生きているのでしょうか。ただ死ぬために生きているのです。人間が肉体的にこの世を去るのは当たり前です。人間の常識からいえば、死ぬのは当たり前ですが、聖書から見れば、現在人間が生活している状態が、死んでいることなのです。死ぬに決まっているということは、生きていることが、すでに死んでいるということを意味しているのです。これが現代人には全然分かっていないのです。 現在の人間は、内に命の光を持っています。イエスは「あなたの目が澄んでおれば、 全身も明るいだろう。もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」といっています(マタイによる福音書6・23)。 目が澄んでいるというのは、英訳ではbe singleという言葉を使っています。これは正確な日本語は見当らないようです。 神を信じよという言葉がありますが、これを英訳では、have faith in Godとなっています。これを神を信じよと日本語に訳していますが、正確には神において信仰をもてということになります。神において信仰を持たなければ、聖書は分かるはずがないのです。 目の働きが、be singleになれば、全身が明らかになるとあります。全身とは、人間のあらゆるあり方という意味です。あらゆるあり方というのは、生まれる前のあり方、生まれる前の人生、生まれた後の人生、現世を去った後の人生の全体を意味するのです。これがhole bodyです。bodyとはあり方のことです。人間が生まれる前の実体、死んだ後の実体、そういうものの全体をいうのです。 Be singleとは、一本になるなら、一筋になるならという意味です。そうすると、体が目のようになる。人間が体で生きていることが、目のような働きをするものであって、これがランプのようになるといっているのです。目で見てみるのです。耳で聞いてみるのです。手で触ってみる。口で食べてみる。味ってみる。鼻で匂いをかいでみる。人間の五官の働きは、全部見ているのです。これがそのまま永遠の命になっているのです。だから、永遠の命が分からないという人は、目で見ていること、味っていること、匂いをかいでいること、手で触っていることの意味が、わからないからです。 一つのことしか見ていないのです。これをbe singleというのです。五官の働きが一つになってしまえば、見ていること、聞いていること、生きていることの全体が、一つになってしまうのです。そこに命があるのです。しかも、その命は、生まれる前の命なのです。生まれる前の命が、生まれた後の命になっているのです。 生まれる前の命が分かってくるのです。今生きている命は、実は今生きているのではない。生まれる前の命を、今生きているのです。これが分かると、死んでからがなくなるのです。今生きている命が、永遠に続いていくのです。 もちろん、肉体的には死にますが、それはあり方が変わるだけなのです。あり方が肉体的に生きないで、精神的に生きることになるのです。従って、現世に肉体を持って生きていても、心臓が止まって肉体的に生きていることをやめても、同じことなのです。そういう命を持つことができるのです。 皆様は今生きている命を信じています。今生きている命を信じている人は、死なない命を与えようとしても、受け取れないのです。両手に花ということで、両方の命を同時に持つことはできないのです。皆様がこの世に生まれて、固有名詞をつけられた自分が生きているという命を、捨ててしまわなければ、本当の命を捉えることはできないのです。今生きている命を自分の命と思っている間は、心が永遠の命を信じることができないからです。 信じるというのは、不思議な働きです。人格とはどういうものかです。人格は信じることのためにだけあるのです。皆様が自分を信じている間は、神を信じていないことになるのです。二つのことを同時に信じることはできないのです。 信じることが、人格の唯一の機能性です。信じることが分からない人は、人格を持っていても、その使い方が正解できないのです。人格の正解がなされていない人は、死んでから地獄へ行くことになるのです。 正解していないということは、誤解しているということです。人生を誤解しているのです。この世に生まれた後に、後天的に与えられた固有名詞の自分を自分だと思っていると、人格を誤解していることになるのです。人格を誤解している状態でこの世を去ることになりますと、大変なことになるのです。 肉体的に死ぬのは、眠ることです。いわゆるご永眠するのです。眠った人は、やがて目が覚めるのです。必ず目が覚めますが、その時びっくりするのです。この世と全然違った世界に、目が覚めるからです。第二創造である神の国が輝いているのです。 現在、皆様は、第一創造の現象世界に生きています。聖書はこれを、肉の世界といっています。肉の創造は、霊の創造のための試作品なのです。何か勝れたものを造る時には、試作品を造るに決まっています。初めから本番のものを造ることはないのです。 人間の仕事は、試行錯誤を繰り返しているのです。試行錯誤をしなければ、仕事ができないのです。 神も一回だけ試行錯誤をしているのです。砂漠、地震、洪水、台風、噴火、病気がある第一創造の地球は、試行錯誤にきまっているのにユダヤ人学者はこの地球を本番の地球と考えているのです。この地球にユダヤ王国をつくろうと頑張っているのです。 現在の地球に、昼と夜があることが、非常に明瞭な実体を示しているのです。神が光であるのに、闇が堂々と割り込んできているのです。これが夜です。プラスのエネルギーのある所へ、マイナスのエネルギーが割り込んでいるのです。この地球に、マイナスのエネルギーが、堂々と働いているのです。 光と闇が、縄のようなって、現在の万物ができているのです。光と闇が混在している地球は、本当の創造ではありません。第一創造は、はっきり試作品なのです。 私たちは、第一創造の中へ顔を出したのです。第一創造は、仮の創造です。小手調べの創造です。闇をいっぱいひっかけて、自滅させるために、神が見せかけの創造をしたのです。悪魔を騙すために、本物のように見せかけた地球を造ったのです。これが分かった人だけが、本当の世界、第二創造の世界に入ることができるのです。 肉体的に死んだ人は、第一創造が終わるまで、黄泉(よみ)という待合室で眠っています。やがて、すべての人は目を覚まさせられる時がくるのです。これが復活です。ところが、以前にいた世界とは違うのです。第一創造の世界には、光と闇があったのです。男と女がいたのです。嘘と誠があったのです。 目を覚ました時には、全く違う世界になっているのです。女性がいない世界、輝く神の国に放り出されるのです。そこで困るのです。 特に女の人は困るのです。第二創造の世界に女性はいりません。いるはずがないのです。そこで女性は本当に困るのです。第一創造にいる間に、永遠の生命を見つけた男性の中に入っておかないと、ひどい目にあうのです。本当に悲惨なことになるのです。 第一創造にいる時に、女性がどうやって男性の中に入るかといいますと、肉体関係を持つのではなくて、精神的に一つになるのです。女性が命を見つけた男性に、恋愛感情をもつ。その男性に惚れたらいいのです。そうすれば、その男性に入ったことになるのです。 現在の地球は、試作品の世界です。善と悪はどういうものか、損と得はどういうものか、霊と誠はどういうものか、肉と霊はどういうものかを勉強するために造られたのです。 今生きている固有名詞の自分は、消えてしまわなければいけないのです。この世に生きている人間は、新しい世界には通用しないからです。 新しい世界では、定員が決まっています。生まれることもありませんし、死ぬこともないのです。輝くような金銀玉露の天、神の国と神の家、そして火の池という地獄があるのです。 そこでは闇は何の力もありません。地獄へ行った人は、ただ泣いて悔やんでばかりなのです。 今の人間は、悔やむということを知りません。現世では、本当に悔やんだことがないのです。新しい天になると初めて、悔やむとはどういうことかが分かるのです。残念とも無念ともいいようがない、無限に悔しいものなのです。これが永遠に続くのです。 皆様の現在の目の働き、耳の働き、舌の働きは、神の永遠の命の輝きをもっている。それを経験しているのです。七十年、八十年の問この世に生きていて、食べたり、見たり、聞いたり、触ったりしていた。その実体が全然分からなかったために、地獄へ行かなければならなくなるのです。今までのような生き方をしていると、必ずそうなるのです。 困ったことに、現在の文明は、死ぬ入間のことばかりを教えているのです。死んでしまうことに決まっている人間を正しい人間だと教えているのです。肉体的に生きている人間を、人間に違いないと教えているのです。これがユダヤ教の宗教観念です。 ユダヤ教の宗教観念は、肉体的に生きている人間しか人間はいないと考えています。モーセがそう考えていたのです。モーセの信仰が間違っていたために、ユダヤ人が四千年の間、苦しみ続けているのです。未だに分からないのです。 ユダヤ人が分からないことが、全世界の人間が盲目になっている原因です。皆様は自分がいると思っておいでになっています。その自分というのは、ユダヤ教の宗教観念がそのまま皆様の人生観になっていることを示しているのです。 ユダヤ教の宗教観念が、皆様の中からなくならない以上、イエス・キリストを信じることはできないのです。この世に生まれた自分がいると持っている人は、イエス・キリストを信じることはできないのです。 聖書の言葉で言いますと、例えば神が造り主であるとします。造るとはどういうことか、神の実体は何であるのか。それが、具体的に、はっきり捉えられていなければならないのです。ただ概念として理解していてもだめです。本当の命にならなければいけない。ここが難しいのです。 聖書の言葉が私たちの命にならなければいけないのです。理解することと、聖書の言葉を命として生きることとは違うのです。 神を信じるという言葉も、神の信仰を持つことだと論理的に理解しても、神と同じ信仰が持てなければだめです。神と同じ信仰といいましても、質的に同じという意味です。 神は全知全能ですから、神と同じように全知全能にならなければならないというのではありません。信仰の質が神と同じであればいいのです。量的には神の全知全能にはとても及ばないのです。 神の思想は信仰です。信仰が神の思想です。私たちは、神の思想と同じような思想を持つことができるのです。前頭葉がそれを知っているのです。額の真には、恐ろしいものがあるのです。 私たちには、神の人格と同じ人格を与えられているのです。質的には神と同じことを考える能力を、前頭葉にもっているのです。これはものすごいものです。前頭葉に、生ける神の印、リビングのシールがしるされるのです。人が生きていることが、そのまま神である。生きていることがそのまま永遠の命であるということが、額にしるされる。そうすると死ななくなるのです。 やがて、キリストが再臨します。政治も経済も、芸術も文化も、全部キリストに占領されるでしょう。今、空中の権をとっている′のは悪魔です。キリストが空中に再臨しますと、政治的権力、経済的権力、法律の権限は、全部キリストによって押さえられるのです。人権も、経済権も、土地、財産の所有権も、全部なくなるのです。地球上の人間の権利は、全部なくなるのです。だから早く、自分を捨てなければならないのです。 車を運転している人は、理性によって運転しています。理性という神の言葉が人の中に宿って、人の精神状態の基礎をつくっているのです。皆一つの理性で運転しています。日本中で、三千万台という車が走っていますが、事故は非常に少ないのです。 なぜ上手に運転できるかといいますと、一つの理性が全体を動かしているからです。そのために、世界全体の交通機関は、非常に少ない事故ですんでいるのです。 実は、人間が運転しているのではなくて、神の御霊(みたま)が運転しているのです。神の御霊とは、人を生かし、地球を動かしているエネルギーのことです。自分も対向車も、同じ神の御霊で運転しているので、相手の気持ちが分かるのです。ですから事故は非常に少ないのです。 御霊は一つです。命は一つです。それを多くの人間がいると思う。これが間違いなのです。信仰は一つです。一つの命に帰依するのでなければ、絶対に救われないのです。 自分が生きていると考えるのは、ユダヤ教の考えです。自我意識を捨てるのです。自我意識が、皆様を殺すのです。近代文明は、自我の確立、自我の拡大、自我の強化、自我の完成を考えたのです。死ぬに決まっている命を命だと人類に押しっけている。 基本的人権、民主主義はそれです。民主主義は悪いものです。権利を与えて、魂を殺してしまうのです。文明が盛んになればなるほど、自我意識は強くなるのです。教育や宗教は、自我意識を太らせることばかりを考えているのです。ユダヤ文明というのは、恐ろしい文明です。 人間は学校教育にすっかり洗脳されてしまっているのです。テレビ、ラジオ、マスコミが、死ぬべき人間が人間だといい続けているのです。固有名詞の人間を人間だといい続けているのです。私はそれをくつがえそうとしているのです。全世界の文明に、私は一人で闘っているのです。文明は、皆様の自我を徹底的に強めようとしています。文明構造、教育によって、人間の情操は、ほとんど死んでしまっているのです。人権、人権といって、人間をおだて上げて、魂を殺しているのです。肉体的に生きている人間を認めるのがモーセの信仰で、これがユダヤ教の原理になっています。これを叩き壊さなければいけないのです。 モーセの原理は、あらゆる宗教に及んでいます。全世界の宗教は、肉体的に生きている人間を認めるという点で、一致しているのです。肉体的な人間が幸せになるのが、宗教の第一目的です。これがユダヤ思想です。ユダヤ思想が、文明構造の基礎になっているのです。 肉体的な人間を認めるほど、イエス・キリストを憎むことになる。キリストを十字架につけることになるのです。反対に、私はキリストと共に十字架につけられたというパウロの考えに同調するのです。肉体的に生きている自分はもはや死んでいるということに同意すればするほど、皆様は永遠の命に近づくのです。 文明構造と永遠の命は正反対の位置にあるのです。このことをよく考えて頂きたいのです。永遠の命をつかまえなければ必ず死にます。 自分が生きていると思っている人は、人格をわたくししているのです。人格は神から与えられたものです。これわたくししすることが恐ろしいのです。この人は必ず地獄へ放り込まれるでしょう。そして、あなたの思いが、あなたを裁くのです。火の池は、自分という思いが、自分を裁くのです。だから自分という思いを脱いでしまわなければいけないのです。 |