25ユダヤ人の真似ばかりしている日本人

皆様は五官の扱い方を誰かから習ったのでしょうか。習わなくても知っているのです。人間は本能を欲望だと思っているのです。そういう考え方が間違っているのです。

そういう教育をしたのはユダヤ人です。日本人の教育はユダヤ教育の真似ばかりをしているのです。

実は学校教育ほど悪いものはありません。学校教育を受ければ受けるほど、魂は盲目になるのです。聖書が分からないのは学校教育を受けたからです。

明治時代に国民の三大義務をやかましく言いました。納税の義務、兵役の義務、教育の義務と言ったのです。ユダヤ人が国を造った時の方法を、日本はそのまま真似たのです。近代日本はユダヤ人の真似ばかりしてきたのです。これを裏返して用いればいいのですが、そのまま鵜呑みにしたのです。

皆様は料理を食べていながら、味の意味が分かっていません。味は分かりますが、味はどういうものかが分からないのです。美しい景色を見ていながら美しさとはどういうものかを知らないのです。人間はこれほど愚かです。こういうことを教えてくれる人が日本にいないのです。日本どころか、世界にもいないから困ったものです。

人間は五官というすばらしい機能を与えられていながら、その意味が全く分かっていないのです。学校で何にもならない理屈だけを覚えるのです。先天的な能力が死んでしまって、後天的な教育ばかりが頭につめられるのです。

義務教育とは何か。いやでも必ず学校へ行かなければならないという義務です。これは魂を政府の力で弾圧していることになるのです。魂の本然性を政治の力でひねり曲げているのです。これは明治維新によって明治の政府がしたことで、明治天皇の名誉となったのです。

人は生まれる前に、無意識で神を経験していたのです。無意識の経験を今皆様は、有意識で経験しているのです。

生まれる前の経験を、聖書は次のように述べています。

「主よ、あなたは世々われらのすみかで

いらせられる。

山がまだ生まれず、

あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、

とこしえからとこしえまで、

あなたは神でいらせられる。

あなたは人をちりに帰らせて言われます。

『人の子よ、帰れ』と」(詩篇9013)。

人をちりに帰らせたというのは、天の姿に帰らせたという意味です。地球の大空にはちりがいっぱい詰まっています。地球で人間が生きていられるのは、ちりのおかげです。目が見えるのも、耳が聞こえるのも、ちりがあるからです。地球の温度が保たれているのは、ちりの作用です。ちりがなかったら、人間は生活できないのです。太陽と地球の間に彪大なちりの層があって、強烈な太陽光線が中和されています。ちりがあるおかげで、人間が住める温度に保たれているのです。もしちりがなければ、地上の温度は二千五百度か三千度位になるでしょう。これでは生物は生存できないのです。

人がこの世に生まれてきたのは、生まれる前の条件を現世で確認するためです。生まれる前に皆様は無意識でいました。そのときの命を、そのまま現世に持ってきているのです。これを生まれてきたというのです。

人は生まれる前に、神のところに住んでいたのです。「主よ、あなたは世々われらの住処でいらせられる」とあります。主とはエホバです。エホバとは何かといいますと、地球があることです。太陽があることです。「有りて在る」ということがエホバです。有も在も両方とも神です。在るということが今の学問では分からないのです。科学でも哲学でも、絶対に分からないのです。

「有」と「在」を分からないようにしたのはユダヤ人です。ユダヤ人は神を信じることができない民族です。そのくせ自分達は選民であると自負している。選民以外の人間に聖書がわかるはずがないというのです。日本人に神の本物が分かるはずがないというのです。

皆様が生まれる前に無意識でいた所が古里です。これをつかまえたらいいのです。聖書を勉強するということは、古里を求めることになるのです。古里はどこにあるかといいますと、生まれる前の自分の出性です。

皆様は五官を持っておいでになります。それをどこからもらってきたのでしょうか。それをどこかでもらってきたにきまっています。五官を自分で製造した人はいないでしょう。五官をもらってきた所へ帰ればいいのです。そうすれば死なないのです。生まれる前の命は肉体がありませんから、死ぬはずがありません。肉体を与えられてこの世に生まれたから死ぬのです。生まれる前に帰ったら死ぬはずがないのです。

現在皆様は五官によって、飲んだり食べたりしています。これが神の言です。これさえ分かれば、死なないのです。神の言は死なない命です。

皆様は生まれる前は地のちりでした。聖書に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」 (創世記27)とあるとおりです。

土のちりは英語でザ・ダスト・オブ・グラウンド(the dust of the ground)となっていますから地のちりと訳したほうがいいようです。地のちりという言い方は現代人には荒唐無稽で御伽噺のように聞こえますが、これは非常に意味深長で、それしかいいようがない表現になっているのです。

生きたものというのは生きている霊魂という意味です。生きている霊魂は人間とは違います。魂は形を持っていることをいうのです。

地のちりに形を与えたのです。形がなかったものに形を与えた。地のちりは形がなかったのですが、それに形を与えた。これは人間を造ったのではないのです。

地のちりになぜ形を与えたのか。形を与えないと神を認識することが難しいからです。皆様は形を与えられたので、形があるリンゴとか、形があるスイカを食べることができるのです。

形はあるが肉体はない自分を理解して頂きたいのです。これが霊的な人です。皆様は肉体があるように見えますが、実はないのです。肉体は瞬間、瞬間に生きているのです。血液の循環と呼吸機能が中心になっている。心臓と肺を中心にして、その他の機能が総合的に働いているのです。生理機能の働きが肉体になっている。肉体があるのではなくて、生理機能があるだけなのです。こういうことを正しく勉強していきますと、生まれる前の自分に帰っていけるのです。

生理機能の働きを霊といいます。霊をそのまま認識すると、生まれる前の自分に帰れるのです。

霊とは状態をさしています。英語で言えばコンディションです。皆様が生きておいでになる状態は霊です。人間が生きているのは状態であって、肉体ではないのです。

生きている状態が目に見えるのです。肉体的に生きていると思っている人は必ず死にます。生きている状態があると思っている人は死なないのです。

自分という人間がいるのではない。生きているという状態があるのです。状態はどこからきたかと言いますと、生まれる前の世界からきているのです。生まれる前の状態が現世に現れているのです。

見る、聞く、飲む、手で触れるというのは、皆様が生まれる前に無意識でしていたことなのです。エホバはとこしえにわれらのすみかであるとありますが、神が皆様のすみかだったのです。魂のすみかが神だったのです。

「天にいますわれらの父よ」(マタイによる福音書611)とありますが、天は霊を意味します。物理的に解釈すれば大空のことになります。大空に皆様の原形であるちりがあるのです。大空の青さは、皆様が生まれる前に住んでいた古里の色です。空の青さ、海の青さは、皆様の古里の色です。大空に神がいる。そこに皆様がいたのです。

天はどこにあるか。地面から十センチも離れたらもう天です。

「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手のわざをしめす」(詩篇191)とありますが、大空とか天は神の根拠地があるところです。神はそこにいるのです。地のちりがそこにいっぱい入っているのです。

神はちりに帰らせた。かつて、善悪の実を食べて陥罪する前は、アダムという単一人格だったのです。アダムが陥罪した結果、何百億というちりに分解されて、大空に分散した。それは人格を与えられた人が天使長ルシファーと同じ罪を犯すのを未然に防ぐためだったのです。

大空に分散された皆様は、そこで神から教育を受けたのです。人間は現世に生まれる前にそこで仕事をしていたのです。ちりの働きをしていたのです。

人は、生まれる前に神と一緒に住んでいて、神と一緒に働いていたのです。その時皆様は、空の青さ、海の青さになっていたのです。地球が地球となる条件を、皆様自身がつくったのです。その時の事をもう一度認識するために、この世に生まれてきたのです。これが地のちりである人に形を与えたということです。

生まれる前の感覚が五官になって皆様に植えられているのです。神の言が植えられているのです。

聖書は言っています。

「だから、すべてのけがれや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、素直に受け入れなさい。御言には、あなた方の魂を救う力がある」(ヤコブの手紙12)。

これは重大な発言です。この箇所を世界中のキリスト教の指導者が全く説明できないのです。心に植えつけているという心は英訳にはありません。ただ植えられている御言(みことば)とあります。この御言が魂を救う力があるといっているのです。植えられている御言は何かといいますと、五官をさすのです。私たちは五官によって見たり、聞いたりしているのです。五官の働きが神の言です。これを素直に受け入れるとはどういうことか。皆様が毎日見たり、聞いたり、触れたりしている御言を素直に受け入れると、魂を救う力があるのです。これが本当の福音であって、人は生まれながらにして神の子なのです。

ところが神の言が植えられていながら自分が生きていると思っているために、霊魂が死んでいるのです。魂を自分の思いによって殺しているのです。

皆様の五官の感覚は絶対に間違いないのに、受け止めている気持ちが全部間違っている。自分が生きていると思っているからです。

もっとつきつめていいますと、皆様はこの世で与えられた固有名詞を自分だと思っているでしょう。これが間違っているのです。固有名詞の自分を神は絶対に認めていないのです。ところが、固有名詞の名前を呼ばれると、自分のことだと思い込んでいるのです。神から見ると固有名詞の人間は一人もいないのです。六十四億の人間が一人に見えるのです。

砂糖をなめると皆甘いと思います。五官の感覚で考えますと、人間は一人しかいないのです。一人しかいない人のことをイエスというのです。

皆様は自分がイエスだと思っていたらいいのです。イエスと思わないほうがどうかしているのです。イエスを信じると言うのはこういうことなのです。状態が人間の本体です。固有名詞で見るとイエスを信じることはできないでしょう。固有名詞の人間はイエスを信じることができないのです。それをしようと思うから無理が生じるのです。

これが学校教育の弊害です。教育では一人ひとりの人間がいると教えたのです。ところが神から見ると一人ひとりの人間がいるのではない。イエスしかいないのです。

個人がいないということが分かると、人間は気楽になります。個人がいないから、死ぬ人もいない。死のうと生きようとどっちでもいいのです。

五官の感覚がイエスです。人間の本性は世界中に一人しかいません。このイエスが死んでよみがえったのですから、もう死ぬはずがないのです。皆様の命は死なない命です。死ぬはずがない命を持っているのです。

少し手間がかかるのは、人間の実質がイエスだということを理解することです。これさえ分かれば死ななくなるのです。理論的に理解して、それが実感になればいいのです。

命は一つしかありません。神から見てたった一人の命がイエスです。このイエスを

見て神はアイ・アム・ウエル・プリーズ(I am well please)といったのです。イエスが洗礼を受けて水からあがった時、ナザレのイエスの肉体が消えてしまったのです。それを神はアイアム・ウエル・プリーズといったのです。好きで好きでたまらないという意味です。普通の好きとは違います。イエスが生まれる前の姿で出てきたからです。この世に生まれたイエスは、洗礼を受けた時に消えてしまったのです。

人は神から見ると、生まれる前の人がいるだけです。生まれてからの人間は罪人です。悪魔の子分ばかりです。自分の肉体があると思っているのは、すべて悪魔の思想です。洗礼を受けるというのは、肉体的に生きている自分が生まれる前に帰ってしまうことになるのです。この世に生まれる以前に帰ってしまう儀式です。現世でどれだけ泥棒根性があっても、すべて消えてしまうのです。

キリスト教では頭から水をかけて、なぜ肉体が消えるか説明ができません。ローマ法王でもできないでしょう。世界中のキリスト教は、皆間違っています。なぜ水で体を洗うのか。水で体を洗わなくても、神を信じればいいのではないかと思えるのです。神を信じただけではだめです。水で体を洗わなければいけないと、神がいっているのです。なぜそうするかを説明できる牧師も神父さんもいないのです。

皆様の肉体構造が神に帰ってしまわなければいけないのです。魂は肉体を持って生きている状態を言います。魂が神に帰ると共に、肉体が神の前に消えてしまわなかったらいけないのです。そうすることによって神に帰ることができるのです。固有名詞の自分は一切いないということが本当にいえたら、初めて、神の平安が自分のものになるのです。

皆様は五官の機能によって生まれる前の死なない感覚を与えられていながら、人間としての自分がいるといつでも思っています。口に出して言わなくても、心でそう思っています。この思いが皆様の魂を殺しているのです。肉の思いが自分の霊魂を殺しているのです。霊魂はイエスと同じ状態です。自分がいると考えることが、霊魂を殺しているのです。これをやめて頂きたいのです。

自分がいるという思いを私は蛇鴫(だかつ)のように嫌っているのです。いつでも自分はいないと思っているのです。

自分がいると思っていることが間違っているのです。目の見え方、耳の聞こえ方は、生まれる前の感覚と同じです。この世に生まれた自分をなぜ自分と思わなければならないのでしょうか。霊魂は今、死なない命を経験しているのです。それがありながら、死んでしまうに決まっている固有名詞をなぜ信じなければならないのでしょうか。

家や家族がいるのは、神の処置によってそうなっているのです。子供がいる。ご主人がいる。奥さんがいるということが神です。夏は暑い、冬は寒いということが神です。良くても悪くても、与えられた条件が神です。

あるがままをありてあるといいます。あるがままが人の神です。自分はいないのです。市役所に登録してある固有名詞は、世の中の習慣でそうしてあるのであって、神の前には全く通用しないのです。これが分かりますと、この世の人間ではなくなってしまいます。そうすると死なないのです。

五官の感覚は生まれる前の感覚です。生まれる前の死なない感覚で生活していながら、死んでし事つに決まっている固有名詞をわざわざかつぎこんで魂を殺すという愚かなことをしている。こういうことをやめたらどうでしょうか。

自分という思いを捨てて、とこしえの命、生ける神の子である命だけが、自分の本体であることに気がつけばいいのです。実は女性はこう考えている男性を狙っているのです。こういう男性はめったにいませんが、そういう男性を求めてやまないのです。女性はこの世で一番上等なものを狙っているのです。

生まれながらの五官は死ぬはずがない命です。ところがこの世に生まれてからつけられた固有名詞を自分だと思っているので、死ななければならないことになっているのです。

新約聖書の中にありますが、ナザレのイエスは公生涯では自分がナザレのイエスだと一言も言っていません。自分は人の子だといつも言っていたのです。人の子は名無しの権兵衛と言う意味です。

人の子とは生まれる前の人間を言うのです。イエスはたった一度だけ、自分はナザレのイエスだと言いました。ローマの兵隊が、「ナザレのイエスはいるか」と聞いた時、それは私だと答えたのです。この時以外に、ナザレのイエスだとは一言も言っていないのです。イエスは固有名詞を全く問題にしなかったのです。市役所の戸籍台帳にのっている名前を自分だと思っていますと、神の前に立つことはできません。

皆様は生まれたときは日本人ではなかったのです。両親が日本人として届ける前の人に帰ったらいいのです。

皆様が現世に生まれてきたのは、皆様の意思ではありません。自分が生まれたと考えなくてもいいのです。親が勝手に生んで、勝手に名前をつけたと思ったらいいのです。名前なんかやめたと思ったらいいのです。イエスがナザレのイエスをやめたように、固有名詞をやめたらいいのです。

自分を一切考えないのです。ただ生きているということが、神の前にいることなのです。生きていることが神ですから、皆様が生きておいでになることが神の前にいることなのです。神の目から見れば、信じても信じなくてもそうなっているのです。

自分の経験、聖書の勉強が多いか少ないかを、一切考える必要はありません。ただ五官があることが、イエスと同じであることに気がつけばいいのです。イエスの復活が、そのまま皆様の新しい命になっていることを、黙って受け取ればいいのです。

皆様の心臓が動いていることが、イエスと同じなのです。五官もイエスと全く同じです。

太陽光線、風の流れは神の手です。神の手が光になったり風になったりするのです。味、香、色も神の手です。神は人の魂が好きで好きでたまらないのですから、神の方からさわりに来るのです。神は人にさわりたくてしかたがない。それほど人を愛しているのです。

「神は、私たちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」(ヤコブの手紙45)と聖書に書いています。人を愛しているので、鯛、ふぐ、ひらめ、マグロの刺身を食べさせるのです。メロン、スイカ、リンゴ、桃を食べさせるのです。新鮮な空気と水、太陽光線を毎日、毎日与えているのです。これは驚くべき神の愛です。

おいしい魚、ステーキの肉を食べるのは、神の愛を食べているのです。空気を吸っているのは神の愛を吸っているのです。

生きているのは神の子です。神の子だから、山の幸、海の幸、川の幸を毎日、毎日与え続けているのです。悪魔の子だったら与え続けるはずがないのです。神は皆様をイエスとして扱っているのです。難しく考える必要はないのです。

ただ一つ難しいのは、生きているのは自分ではない、イエスが自分という状態で生きているということを理解することです。これさえ分かれば、何でも分かってくるのです。イエスをはっきりつかまえたら、明日この世を去ってもかまわないのです。イエスが死なないように、魂が死なないことが分かるのです。