27ユダヤ人がイエス・キリストの復活を受け入れれば、人類は死ななくなる

「天地は滅びるであろう。しかし私の言葉は滅びない」(マタイによる福音書2425)というイエスの言葉が、ユダヤ人には全く理解できないのです。ユダヤ人は聖書を信じていません。彼らが信じているのは、人間がつくったタルムードやミシュナという掟の書です。

私は「天地は滅びるであろう。しかし私の言葉は滅びない」という永遠不滅のイエスの言葉の光が、ユダヤ人の脳裏に反映することを、切に願うのです。これさえできれば、人類は死ななくなるのです。

イエス・キリストの復活という明々白々な永遠の事実がユダヤ人に受け入れられれば、人間の歴史は根本的に新しくなるのです。そして人類は死ななくなるのです。これを私は心から願っているのです。

パウロは言っています。「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」(ローマ人への手紙86)。

思いは英訳ではマインド(mind)になっています。肉のマインドと霊のマインドがあるのです。二つのマインドが現世にあることを示しているのです。現世にないものなら難しいですが、両方共現世にあるのです。霊の思いをつかまえさえすれば死ななくなるのです。これをつかまえないから死んでしまうのです。死ぬか生きるかということは、命のマインドをつかまえるかつかまえないかになるのです。これはしようと思えば誰でもできることなのです。

女性が求めているものは何か。女性が本当に求めているものと、男性が求めているものとは違います。目標が違うのです。女性が求めているものは霊なるものですが、それが何であるか女性は分からないのです。暗中模索の状態で、女性は無意識に霊なるものを求めているのです。

男性は現世での成功を求めています。男性の願いはすべて、実存している天地に基いて考えているのです。現実の世界があるに違いないと思っているのです。そこで原水爆という愚かなものをつくるのです。

現実の世界が譬であるということが分かれば、原水爆をつくるはずがないのです。国民の税金を使って原水爆をつくるという愚かなことをするはずがないのです。男性は現実が本当であると思うから、選挙に熱中するのです。女性でも熱中しますが、男性のまねをしているだけで、本気になってしているのではないのです。

本当に女性らしい人は、現世を求めていないのです。現世だけの愛を求めていない。現世での愛が永遠に続くということが保障されるなら熱中します。

現世から永遠につながるものでなければ、本当の愛ではありません。女性はそれを見分けるのです。本当の愛であるかどうかを、はっきり見分ける直感力を持っているのです。男性はそれを知りません。ただ欲望で女性を見ているのです。女性の愛は願望的なものです。男性とは性質が違うのです。

日本の天皇制は女性的なものです。アメリカ、ロシアの大統領は男性的です。現世で頑張ろうとするのです。日本の天皇は現世で頑張らないのです。頑張るとひどいめにあうのです。戦争で負けることになるのです。

天皇は隠れているものであって、表面に現われたら国が悪くなるのです。表面に現われないからいいのです。日本の天皇はできた時から女性的ですから、歴史の表面には現われないのです。

女性の本当の値打ちは、滅びるものを頼りにしないで、滅びないものを頼りにしているところにあるのです。人間の魂は本質的に女性であって、現世に現われていないのです。女性はそれをあばら骨として体得しているのです。女性のあばら骨とは、アダムの最もすばらしいところを抜き取って造られたものです。これが女性の特徴です。

実は、女性の直感でなければ聖書は分からないのです。男性が女性的になり、女性の特徴をよく勉強しようと思わなければ、聖書は分からないのです。

聖書に、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏が近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタイによる福音書2333)とあります。

いちじくの枝がやわらかくなった時とありますが、これは日本のことをさしているのです。日本が世界の表面に乗り出すようになった時に、キリストの再臨が迫っていることを承知しなさいという意味です。この言い方は全く荒唐無稽の御伽噺のように聞こえるかもしれませんが、世界歴史全体の流れと、聖書の奥の奥を読んでいきますと、そういう結論になるのです。

日本の向上発展は、世界の歴史が新しくなるきっかけをつくることになるのです。世界の歴史が本当に新しくなるためには、現在の文明が崩壊しなければなりません。政治的にも、経済的にも思想的にも、大崩壊が起こるでしょう。天変地異が一度に襲ってくるでしょう。歴史が始まって以来、空前絶後の大混乱が起きるのです。

現在の歴史構造は男性主導によるものですから、滅びるにきまっています。軍備拡張を果しなく続け、ハイテク兵器、核兵器の果しない研究を続けていけば、人類は滅びるしかないのです。現在の歴史は根本から間違っています。

女性はこのことを知っているのです。女性は不思議な心理状態をもっているのです。女性がねらっているものは現世のものではありません。現在の文明が滅んで、全く新しい神の王国が実現して、初めてそれが分かるのです。やがて、キリストの復活が、人間歴史のまん中へおりてきます。その時初めて、現在の人間の考え方、文明のあり方が根本から間違っていたことが、明かにされるでしょう。その時、女性が狙っていたものがはっきり現われるのです。これが神の国です。

女性の直感は神の国を狙っているのです。現世にあるものを狙っている女性は、本当の女性ではないのです。

人間文明は滅びるのです。宗教も教育も、法律も道徳もすべて滅びるのです。人間社会の秩序も根本的に潰れます。そして、キリストの再臨という来世的な現実が、歴史の実体として現われるのです。女性は知らず知らずにそれを狙っています。これが骨の骨の特徴なのです。

現世は女性にとって不合理な社会にきまっています。現世で不合理な状態に置かれている女性であるから、来世の合理性が直感できるのです。来世の実体に興奮を感じるのが女性の実体です。女性は人間のハートだからです。これがあばら骨です。

女性は惑わされて善悪の実を食べた。男性は惑わされたのではなくて、自分自身の意志によって食べたのです。騙されて食べた女性と、自分の意志で食べた男と、どちらが罪が重いでしょうか。女性の罪は軽いものです。子供を産んだら許されるのです。

男性は女性のあり方をじっと勉強する必要があるのです。女性の本性をじっと見るのです。そうすると本当の魂の願いは現世にあるのではなくて、来世にあることが分かってくるのです。

天地は滅びるであろうとありますが、天地どころか人間自身が滅びるのです。男性がつくっている現代社会、個々の人間の家庭、文明構造はやがてどうなるか。天地が滅びるとありますから、当然滅びるのです。男性がつくっている文明構造は完全に滅びるのです。仮に社会や国家が滅びなくても、皆様自身が死んでしまうのです。皆様が死んでしまうと、現世で経験したこと、人間の記憶は全く役に立たなくなるのです。

女性は現世を真剣に信じていません。女性が本気になるのは自分の家庭や子供のことでしょう。女性は肉親や子供という血族的なつながりに惹かれることはあるでしょう。国家社会についてはあまり考えないでしょう。なぜかと言いますと、人間社会に目的がないからです。だから潰れるにきまっているのです。

日本人が考えている天皇制と、神が日本に与えている天皇制の処置とは全然違うのです。全世界の流れから見て、天皇制がどれほどの値打ちがあるかを、日本人は全然知らないのです。誠の神を知らないからです。

日本の天皇制は人間社会がある時には影の存在です。表面上に出てはいけないのです。やがて天皇制が重要な役目を果すことができるようになるでしょう。いちじくの枝がやわらかくなると書いてあるからです。いちじくの枝がやわらかくなると、キリストの再臨が近いと大変なことが書いてあります。キリストの再臨は東から始まって、稲妻がひらめくように西に伝って、イエス・キリストがやってくるとあるのです(マタイによる福音書2427)。

これが何のことかキリスト教では分からないのです。世界の歴史の動きによって、マタイによる福音書を見ることができないからです。もちろん仏教やイスラム教でも分かりません。それをいくら勉強しても、イエス・キリストの再臨がどうしてやってくるか、世界の歴史がどうなるか分からないのです。

マタイによる福音書二十四章を詳しく解説すると治安維持法にひっかかるかもしれません。これをよく日本政府が許してくれていると思うくらいです。社会がめちやくちやになるとはっきり書いているからです。

聖書は人間歴史が大混乱すること、世の中が潰れること、世界の中心が崩壊することを、堂々と書いているのです。聖書は本当に恐ろしい書物です。聖書は宗教の教典ではありません。人間が生きていることの実体です。人間文明が潰れてしまう事を断言しているのです。

いちじくの枝とは日本を指しているのです。枝とはヘブライ語でヤマトといいます。ヤマトは大和となり、日本を示しているのです。

イエス・キリストの再臨とは何か。どのようにして再臨するのか。これが大問題です。日本には天皇制という不思議な制度があるのです。天皇は王ではありません。王は人民を支配して人間の権力によってできたものですが、天皇はそうではありません。天が初めから選んだものです。これがエンペラーです。

今から約二千六百五十年程前に極西のユダヤの十部族が滅びました。その頃に極東の日本で天皇が出現したのです。

そして今から二千年前に、イスラエルでキリストが十字架につけられて殺されて復活しました。四十日の間地上にいて昇天して、世界から消えてしまったのです。キリストは人類と万物を統括する代表者です。万物と人類と地球を完成し、全く新しい世界を創造するのがキリストの役目です。

このキリストが地球上から消えてしまった。もしキリストが本当にいるなら、その影がどこかに残っていなければならないのです。もしキリストが本当なら、その模型、サンプルがどこかに存続していなければならないのです。それが日本の天皇です。

伊勢神宮とエルサレム宮殿の構造が全く同じでいることはよく知られていますし、伊勢神宮のいたる所にダビデの星があるのです。天皇家の菊花十二弁の紋章はダビデの分家を意味し、天皇家で行なわれている割礼の儀式は、ユダヤ系であることを示しているとしか言いようがない事です。

日本国憲法には、天皇は日本国民の統合の象徴であると書いています。キリストは人類と万物統合の象徴です。この意味から言っても天皇はキリストの雛形であることがはっきり言えるのです。

世界がいつまでも混乱している原因は、真の地球の主(あるじ)であるキリストが不在だからです。現在、地球は力の強い者が権力を握り、地球を勝手に食い荒らしています。このまま放っておいたら地球は破壊されるばかりです。真の主が現われなければ、本当の平和、絶対平和、完全平和は実現しないのです。

やがて、天皇家がユダヤ系であることの決定的な事実が現われるでしょう。どういう方法でそれがなされるか、いつそれがなされるかが、世界歴史の転換となる大問題です。天皇陵が発掘されて、その中からユダヤ系である証拠品が出土するか、伊勢神宮に安置されている壷が、かつてユダヤ民族がエジプトを出て、四十年間荒野にいた時、天から降ったマナを入れた壷であることが証明されるか、いずれにしても天皇家がユダヤ系であることの決定的な証拠が出現して、それが稲妻のようにイスラエルへ伝えられるでしょう。そして本来の地球の主であるキリストが再臨するのです。

いずれにしても、これは極めて重要な問題ですので、軽々しく発言することはできませんが、世界の歴史はそういう方向へ進んでいることは間違いないのです。

現在の歴史はいんちきそのものです。ごまかしそのものですから、潰れるにきまっています。聖書はそれを堂々と書いているのです。それを今の男性は一生懸命に信じています。信じているから戦争をするのです。この世の損益が本当であると思うから、戦争という愚かなことをするのです。

国があるのは一時的な現象です。国家構造、社会構造は、人間文明のあり方の一つにすぎないのです。これは本当のものではないのです。

このように人間歴史全体を見ることができれば、男性は冷静にもう一度考え直そうと思うでしょう。女性は特にそう思うでしょう。

女性が求めているのは神の国です。神の国が現われるに違いない真理を、女性は直感的に知っているのです。

女性は男性を中心にした社会構造に何となく疑いを感じているのです。この見方は正しいのです。

人間が現世に生きていること、社会生活をおくっていること、皆様がこの世で何十年か生きていらっしやった記憶が、認識の世界をつくっているのです。家庭とか、国家、社会をつくっているのです。

ところが現世を去りますと、認識の世界は夢うつつの世界になってしまうのです。何十年の問この世に生きてきた人生は、心臓が止まると無になるのです。どれだけ勉強しようが、どれだけ学問をしようが、どれだけ貯金をしようが、この世を去ればそれで終わりです。そうすると今生きている人生は何かということになります。よくよく考えてみれば、なるほど現世は幻だということが分かるはずです。現世が幻だということが本当に分かったら、初めて、自分を捨てて自分の十字架を負うことができるのです。これが分からないから、この世に生きている自分がいかにも価値があるように思えるのです。

この世に生きがいはあるでしょうか。明日に交通事故に出会えば、その瞬間にその人の生き甲斐は無になるのです。こんな簡単なことが世界六十億の人間に分からないのです。自分の人生があると思っているのです。仕事をするのはけっこうですけれど、仕事はその場限りのものです。人間はその場かぎりのことばかりしているのです。これは本当のことではありません。仕事のため人間は生きているのではありません。命のために生きているのです。

いくら大きな仕事をしても、現世を去ればその人の功績は神の前に三文の価値もないのです。現世の地位、名誉、財産は、全く無価値になるのです。

人間は一体何のために生きているでしょうか。食って寝て子供を産んで死んでいく。子供を産んで死んでいく。死ぬために生きているのです。

聖書に、一度死ぬことと、死んだ後にさばきを受けることが確定しているとありますが、これに反対することができないのです。死ぬにきまっている人生をおくっていながら、これをおかしいと思う人がいないのです。こんな人生は生きる値打ちがない人生です。こんな国は生きる値打ちがない国です。

国が悪いかというとそうではありません。こういう国をつくっている人間が悪いのです。現世のどこが間違っているか。人間は何を間違えたのか。根本的な秘密があるに違いないのです。

現世の人間は、生きていてもしかたがない人間ばかりです。目的がないのですから、文明社会は潰れるにきまっています。学問に目的がない。政治に目的がない。経済にも目的がないのです。目の前の目的はあります。結婚するとか家を建てる。貯金をするとか子供を育てるという目的はあります。このために努力するのはいいのですけれど、これは本当の目的ではありません。ただの生活目標なのです。

ただ今の人間は現実に生きていますが、人生目的を持っていないのです。これは人生は空であることを意味するのです。これが五慈皆空です。人間の常識、知識は全部空です。学問も宗教も全部空です。皆様が現在生きていることが空です。何にもならないのです。死ぬことと、死んでから地獄へ放りこまれることだけは間違いないのです。人間はそのためにだけ生きているのです。今まで生きていた自分の人生を捨ててしまうのです。持っていてもしかたがないからです。皆様がこの世に何十年か生きていらっしやったことが何になるのでしょうか。何か分かったのでしょうか。命については何も分からなかったでしょう。死んだら分かるのです。皆様の人生は全く空だったのです。単なる抜け殻にすぎなかったのです。

皆様の何十年か生きいてらっしやった記憶は蝉の抜け殻みたいなものでした。形はありますが内容がなかったのです。地獄でさばかれるための形だけがあったのです。形がなければいいのです。記憶がないとかえっていいのです。皆様の人格には記憶があります。人格が記憶によって裁かれなければならないのです。人格が記憶をつくり、記憶が死んでから人格を裁くのです。これが人間の人生です。

皆様の人生は、矛盾の連続だったでしょう。人の世話をして裏切られ、人にお金を貸して踏み倒され、善事善行を施して裏切られたでしょう。

皆様が生きていらっしやった人生は、捨ててしまうためにあるのです。捨ててしまうと新しい人生を与えられるのです。捨ててしまわなければ、蝉の抜け殻の人生に皆様の魂は食いものになるのです。死んでから自分の記憶によって、魂が食われてしまうのです。これが裁きです。

人格はどこからきたのか。どうすればいいのか。人格を与えられている世界六十四億の人間が、これを考えようとしないのです。人間は何と愚かなのでしょうか。もう一度よくお考え頂きたいのですが、皆様の人生には目的がありません。生きていても罪をつくるだけです。死にたくないのに死んでいくのです。人生は捨ててしまうことによって、始めて人生の値打ちがあるのです。その意味で人生は不思議なものです。

皆様が現世に何十年か生きていらっしやった記憶が、皆様の人生を地獄にひっぱっていくのです。自分がいる、自分はこういう人間だと思っているのは、記憶に基いて思っているのです。ところが記憶は皆様自身とは違います。本当の皆様とは違うのです。これをよく考えて頂きたいのです。

実は、とこしえの命は、五官の中にあるのです。それをつかまえようとしないで、常識の方ばかり見ている。常識を見ないで五官をみるのです。そうすると前頭葉が働いてくるのです。

人の実体は、今ここにいることだけです。昨日いたのは嘘です。明日いることも嘘です。今を本当につかまえたら死なないのです。

今を本当につかまえるために、今までの自分を切ってしまうのです。切ろうと思えば切れるのです。やる気があればできるのです。

己を捨てて十字架を負えといわれると、難しいと思うのです。これは悪魔に威かされているのです。悪魔が皆様の記憶をがっちりと握っているのです。これが皆様を威すのです。悪魔の洞喝はよくきくのです。

人間は自分がいるということが真赤な嘘であることが分からない。だから己を捨てよといわれても捨てられないのです。皆様はいつも悪魔に個喝されて困っているのです。だから素直になれないのです。

結局、死ぬべき自分を捨てなければ、死なない自分は与えられないのです。死なない自分はイエスのことです。自分がイエスを信じてもだめです。これは宗教の信心です。宗教観念は神の前には一切通用しません。自分がキリストを信じているのを宗教というのです。ユダヤ教はこればかりしているのです。自分を捨てなければ、イエスを持つことはできません。自分という人格を捨てて、イエスという人格を受け取るのです。

人が生きているのに、主観的な面と客観的な面とがあるのです。生きている自分と生かされている自分があるのです。

皆様は自分が生きていると思っていますが、その自分はどこにいるのでしょうか。生きていることが自分のように見えるだけのことです。今まで何十年か生きてきたという記憶があります。その記憶を自分だと思っている。それは皆様を地獄へひっぱっていく自分です。

記憶はあってもかまいません。それを問題にしないで無視するのです。なぜならそれは死んでいく自分だからです。死ぬにきまっている自分を自分だと思うことをやめるのです。瞬間、瞬間生きている当体を自分だと思うのです。思いを切り替えるのです。これができたらイエスをつかまえることができるのです。聖書はこれだけを言っているのです。これができなければ聖書をいくら信じてもイエスは分かりません。

主観的に生きている自分と、生かされている自分とは違います。生きている自分は嘘です。生かされている自分は本当です。生かされている自分の中に入り込んでしまえば、死なないことがすぐに分かるのです。死なないどころか新しい命を与えられますから、このまま永遠の命に生きていることがはっきり分かるのです。

昨日まで生きていた自分は、霊魂には何の関係もありません。それは肉的な自分です。肉的な記憶です。

生きているのは今生きているのであって、これが魂です。今生きていることに目をつけて、それが自分だと分かってくると、死ななくなるのです。

皆様の記憶の中にある自分は、肉の思いの残像です。肉体的にこの世に生きてきたという記憶が肉の思いになって、皆様の中にへばりついているのです。死んでしまうと、記憶が皆様の主体になるのです。肉体は電気釜で焼くと灰になりますが、記憶は灰にならないのです。生きているという記憶が皆様を地獄へひっぱっていくのです。記憶という獣を退治するのです。

人格は神からきたものです。神に与えられたものです。神から与えられた人格を、自分の思いで自分勝手に使っている。これが記憶になっていくのです。神からのものであれば、神の御心に従って用いれば死なないのです。神の御心に従わないで自分の心で人格を用いているから、死ななければならないのです。肉で生きている記憶が、頭に一杯つまっている。それが皆様を地獄へ放りこむのです。地獄なんかあるもんかという人がいますが、自分の記憶が地獄になるのです。

人格は神から与えられたものです。神の御心に従ってそれを用いればいいのですが、神の御心に従わないで自分の心で生活していますと、その責任を魂が全部持たなければならないことになるのです。

直感、推理、判断、記憶という神の位の四つの生き物がありまして、これが皆様の中に働いているのです。人間が考えているのではありません。神の位の回りに働いている四つの生き物が、人の中に住んでいるのです。そこで手足が動くのです。目が見えるのです。耳が聞こえるのです。五官の働きとは神の位にいる四つの生き物の働きなのです。これが皆様の命の本体です。

人間は自分で考えたり、動いたりしているのではありません。神の御座(みくら)が人の中にあるのです。こういうすばらしいものが人格です。人には格があります。格が御座です。人間が生きているのではありません。神の大いなる白い御座が人の中にあるのです(ヨハネの黙示録42)。これが生きているのです。自分が生きていると思ったら大間違いです。

今までの自分が生きてきたという思いを捨てて、人間の真ん中を神に譲るのです。格の座がスローン(throne)です。これは宇宙の位、命の位です。人格とは命の位です。これは自分で勝手に使ったらいけないのです。勝手に使ったら、後からひどいめにあうのです。人格の真ん中にあるのが神という位です。神の位が皆様の中心になっているのです。

だから神を信じるのはあたりまえです。神を信じると言わなくても、直感、推理、判断、感受性が働いている状態が神です。神の御座なのです。人間がいるのではなく、神の御座という宇宙構造が人の中に働いているのです。ですから人間はどこにもいないのです。人間が生きていることに対する知識がないから考え違いをしているのです。本当に無知は大変な罪悪です。

人格を正しく見れば、人の内にある命は死なないものだということが、勝手に分かるのです。神を信じる必要はありません。ただ自分の肉の記憶を捨てればいいのです。

捨てたとはっきり決心すれば、人格は神に返っているのです。目が見えることが信仰です。手で触っていることが信仰です。五官の機能はイエスです。これさえ分かれば死なないのです。