28世界が混乱している原因はユダヤ人の不信仰による

聖書は次のように書いています。「あなた方を召して下さった聖なるかたにならって、あなた方自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者になりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』とかいてあるからである」(ペテロの第一の手紙11516)。

これは、「我聖なれば、汝らも聖なるべし」(文語訳)という旧約聖書の言葉を引用しているのです。神が聖だから、おまえ達も清くなれといっているのです。これは神と同じものになれという意味なのです。これがキリスト教では何のことか分からないのです。神と同じものになれるのでしょうか。キリスト教の人々はなれないと思っている。これがキリスト教が根本から間違っているという理由なのです。

マタイによる福音書に、「あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(548)とあります。これはキリスト教では絶対にできないのです。神のように完全になることは、どうしてできるのでしょうか。だからキリスト教は偽善者ばかりになってしまうのです。キリスト教の信者も牧師も、十三億のキリスト教信者は、皆偽善者になっているのです。

親鸞のように正直な人間であれば、いつまでもキリスト教におれないのです。天の父の聖なるように、あなたがたも聖なるものでありなさい。これはキリストの命令ですが、これがキリスト教ではできないのです。できないのにキリストを信じている。信じたつもりでいる。これがまちがっているのです。

キリストを信じたいつもりはあるけれど、信じられませんといえばいいのです。そういえば、聖霊に導いてもらえるのです。キリストが完全であるから、私もそうなりたいけれどなれませんので、どうしたらいいのですかと、聖霊に尋ねればいいのです。それを一切言わないのです。

キリスト教の牧師がそれを教えようとしていない。だから日本のキリスト教はだめです。全世界のキリスト教もだめでしょう。

日本のキリスト教は、白人のキリスト教と同じことを言っているのです。白人社会のキリスト教がまちがっているのです。それを日本へ持ってきたのです。

キリスト教を信じている人は、絶対に救われません。第一、天の父のように完全なものとなるということは、キリスト教では不可能なことなのです。神が聖であるようにあなたがたも聖なる者となれ。これも不可能なことです。

キリスト教のどこが間違っているかといいますと、悔い改めていないからです。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書115)という言葉が分かっていないのです。

又、マタイによる福音書に、「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように」(6910)という主の祈があります。これはキリスト教信者なら誰でも知っている言葉ですが、その内容を誰も知らないのです。

神を父と呼べる民族は、ユダヤ人だけです。イエスはユダヤ人に伝道するために来たのであって、キリスト教はこれが分かっていないのです。山上の垂訓はユダヤ人に述べたものであって、キリスト教の信者に述べたものではないのです。

イエスはイスラエルの迷える羊のためにやってきたのです。だからカナンの女が子供が病気だから治して下さいといった時、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」(マタイによる福音書152128)といって断ったのです。これがキリスト教では分かっていないのです。

私はキリスト教を軽蔑します。なぜならキリストの名によって、神に逆っているからです。けしからんことをしているのです。ローマ法王を始めとして、世界十数億のキリスト教信者が、神に反抗しているからです。今にキリスト教はめちゃくちやにされるでしょう。キリスト再臨の直前で、第一にやり玉に上げられるのはキリスト教です。これは絶対に間違いありません。聖書に、「裁きは神の家から始まる」とはっきり書いてあるからです。キリスト教はこういう箇所を一切勉強しないのです。神の裁きは神の家であるキリスト教から始まるのです。キリスト教の人々は良心がないのではないかといいたいのです。

聖とは何かといいますと、神の持ち前をいうのです。聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。万軍のエホバ、その栄光は全治に満ちると聖書にあります。聖というのはギリシア語でハギオスですが、これは驚くという意味が大変強いのです。清いという意味もありますが、それよりも驚くべきことという意味が強いのです。

驚くべきというのは、人間が考えられない広さをもっているのです。ギリシャ語のハギオスを英語でホーリーネスと訳しているのです。神とは驚くべきものである。これはどういうことかといいますと、人の心に思い浮かびもしなかったことという意味です。

パウロが言っています。「目がまだ見ず、耳がまだ開かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えらゎた」(コリント人への第一の手紙29)。これが聖なることですが、人の心に思い浮かびもしなかったことですから、人が信じることができるはずがないのです。

ここをよくお考え頂きたいのです。人の心で想像できることなら信じられるのです。人の心で想像できないことを、どうして信じることができるのでしようか。

「時は満ちた。神の国は近づいた。汝ら悔い改めて福音を信じよ」(文語訳)。時が満ちたとは、ユダヤ人に与えた約束の時期が盈満している。神の国は来ているから、汝ら、福音を信じよといっているのです。口語訳では、あなたがたといっていない。これは大変な間違いなのです。

イエスは異邦人を全然問題にしないという観点で伝道したのです。ところがイスラエルがイエスを拒否したために、福音が異邦人に及んだのです。イエスが地上にいた時は、あくまでユダヤ人を問題にしていたのです。異邦人を問題にしていなかった。異邦人である私達は、この点を十分に承知しなければいけないのです。

キリスト教の牧師は、キリスト教の教義は説いていますが、福音を説いていません。だから悔い改めがわからないのです。汝ら悔い改めよという言葉は、ユダヤ人に対して言った言葉です。

ユダヤ人さえ悔い改めたら、地上に神の国はすぐに来るのです。現在でもそうです。ユダヤ人が悔い改めれば、世界の政治状態、経済状態は一変します。「汝ら悔い改めよ」という言葉は、現在でも通用しているのです。

世界を混乱状態に引き込んでいるのは、ユダヤ人が間違ったからです。ユダヤ人が悪いのは、神を正しく信じていないこと、神の約束を踏みにじっていることです。キリスト教はキリストの名をふみにじっているのです。イエスの名を信じていないのです。イエスの名を信じるとはどうすることか分からないのです。

キリスト教は神とキリストを信じていないのです。牧師は教義の受け売りばかりをしているのです。信仰は少しもないのです。

キリスト教が間違っているのは、悔い改めていないからです。悔い改めるとはどうするかが分かってないのです。約束を破ったこと、人に嘘を言ったこと、人を騙したこと、焼きもちをやいたり、人の悪口を言ったことを改めることが、悔い改めだと思っている。そんな事は悔い改めではないのです。

悔い改めるとはどうすることか。自分の自をみずからと読むか、おのずからと読むかによって、天地の違いが出てくるのです。

この字の読み方がキリスト教では分からないのです。白人社会では、自分が救われることが一番大きな問題になっています。キリスト教では自分が救われることをテーマにしています。教会へ行く人は、自分が救われたいから行くのです。

ところがイエスは、「自分の命を愛する者はそれを失う」(ヨハネによる福音書1225)といっているのです。

自分が生きていると思っていること、自分という人間が存在すると思っていることが、根本的な罪です。自分が存在すると思っている人は、宗教でも、セックスでも、道徳でも、法律でも、全部間違ってしまいます。自分が生きていると思っている人は、自己中心の判断をするにきまっているからです。

ヤコブ書に、「欲がはらんで罪を生み、罪が熱して死を生み出す」(115)とあります。なぜ欲がはらむかといいますと、自分が生きていると思っているからです。

命は自分のものではありません。それを自分の命だと思っている。これを罪というのです。

命は神のものです。人は神のものである命を、預けられているのです。ですから人は神に生かされているのです。これが分かりますと、天にいます我らの父という意味が分かってくるのです。

人間は脳波が正常に働いているから生きているのです。脳波が止まってしまいますと、死んだことになるのです。心臓が動いていても、脳波が止まれば、人事不省になって、人間の権利、義務を有していないことになるのです。

問題は脳波です。脳波の正体がキリスト教では全然分かっていないのです。実は、脳波と新約聖書は大関係があるのです。脳披を止まらないようにする方法があります。脳波は皆様方自身がつくったものではありません。自分で脳波を挿入することはできないのです。新約聖書を信じて、聖霊に満たされると、脳波が止まらなくなるのです。

そこで皆様に必要なことは、悔い改めることです。悔い改めをしないままで自分が生きているままで、いくら聖書を信じてもだめです。自分本位の聖書の解釈になるからです。それではイエス・キリストを信じることはできないのです。

イエス・キリストを信じるとはどうすることか。イエスは、「汝ら我におれ」といっています。我におれとは、私に住みこんでしまいなさいという意味です。イエスの中に住みこんでしまうのです。イエスの同居人になるのです。イエスの人格の中へ皆様の人格が入りこんでしまうのです。これが悔い改めです。これがキリスト教ではできないのです。

自分が救われたいと思うことは、神をばかにしていることになるのです。神は人間を救うためにイエス・キリストを使わしたのではありません。神の国を実現するためなのです。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うとイエスは言っています。キリスト教はこれが分からないために、自分が生きているままの状態で聖書の勉強をしようと思っています。生きているというのは、皆様の目が見えること、耳が聞こえることです。これが悪いのではありません。五官の働きは間違っていないのですが、自分がいるという気持ちが間違っているのです。自分が生きているという気持ちのままで聖書の勉強をすることが、間違っているのです。自分が救われるという目的を持って聖書の勉強をすることが、間違っているのです。

宗教は現世で生きているままの人間が、そのままの状態で救われるといいます。悔い改めていない人間を救うというのです。固有名詞の自分が存在するという気持ちのままでキリストを信じますと、皆宗教家になってしまいます。

罪とは何かといいますと、自分が生きていることです。自分が生きていると考えることが罪です。自分の自をみずからと読むと、罪に陥ってしまいます。

皆様の命は、みずからのものではありません。皆様は自分で生れたいと思ったことはないでしょう。仮に生れたいと思った所で、自分で命をつくることはできません。

従って、皆様の命は、自分自身のものではないのです。自分で生れた事実がないにもかかわらず、自分が生きていると思っている。これが罪です。

自分という意識が発生したのは、この世に生れて、何年かたった後です。生れた時には自分という意識はなかったのです。これが今生れた幼児です。イエスは自分自身のことを幼児といっているのです。自分という思いが人間を苦しめ、悩ましているのです。イエスは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」といっています。イエス自身があなたがたを休ませてあげるといっているのです。イエスの中に入ってしまえばいいのです。イエスの心の中に入ってしまえば、イエスに同化できるのです。そうすると無限の平安が与えられるのです。

イエスの中にどうして入るのか。御霊によって導かれて、聖書を読めば、聖書の一つ一つの言葉が命になる。そうすると生かされている当体がイエスであることが分かるのです。

人間の命はおのずからのものです。おのずからとは何か。日本的な言い方をすると御天道様です。天然のことです。天然の本体は愛です。皆様は天然自然に生れてきたのであって、天然自然の原則が皆様の命の根本です。

聖書を学ぶのは、天然自然を学ぶのです。天然自然の根源が、神です。天地の造り主とは、天然の主(あるじ)です。キリスト教は天然の主が分かっていないのです。

天然の主が父なる神です。天にまします神とは、この神をいうのです。天然の本体が何であるかが、創世記の一章、二章、三幸に書かれていますが、宗教ではその読み方が分からないので、分からないのです。イエスは弟子達にいっています。「だれでもわたしについてきたいと思ったら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書1624)。これが悔い改めですが、キリスト教ではできないのです。自分が救われたいと思っていますから、自分を捨ててしまえば救われる自分が消えてしまうことになる。だから、恐ろしくて自分が捨てられないのです。ところが、救われたいと思っている自分を捨てることが、実は救われることになるのです。

自分が生きているという気持ちを捨ててしまうのです。そうすると、自分が救われたいという気持ちがなくなってしまいます。これが救いです。

自分が生きているという気持ちを捨ててしまっても、まだ心臓は動いています。これがイエスなのです。

自分という気持ちを捨ててしまっても、人格はなくなるのではありません。五官の働きは消えるのではありません。自分はいないと思っても、命はあります。これがイエスが持っていた、生ける神の子としての命なのです。これが分かると、初めて聖書が自分のものになるのです。

そのためにどうしても必要なことは、五慈皆空です。人間自身を空じるのです。空じるということは聖書にかいていませんが、聖書は、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシア人にはギリシア人のようにといっています。ギリシア人にはギリシア人が分かるように、聖書を説かなければいけないのです。ユダヤ人にはユダヤ人が分かるように、聖書を説かなければならない。日本人には日本人に分かるように、説かなければならないのです。

日本人が聖書の原理を本当にマスターしようと思えば、日本人にとって一番分かりやすい般若心経の五蘊皆空を実行することです。究竟涅槃です。自分が消えてなくなってしまうのです。

般若心経の空という感覚こそ、本当の悔い改めです。日本人にはこれが一番分かりやすいのです。「日々十字架を負え」といっても、どうすることか分からないのです。空というのが日本人には一番よく分かるのです。

人間は自分が生れたいと思って生れてきたのではないのです。だから、自分という人間が生れているはずがないのです。これをよく反省して頂きたいのです。

自分という人間は生れているはずがない。従って、自分が生きているという考えが間違っているのです。これを五蘊皆空というのです。

自分が生きていたと思っている考えが、間違っているのです。自分が得をする。自分が損をすると考える。これが五経です。これを捨てても、皆様の心臓が止まるわけではない。皆様の人格と自分が生きているという気持ちは、何の関係もないのです。

そこで、みずからではなくて、おのずからになるのです。イエスはおのずからの存在であると考えた。これが生ける神の子です。イエスは現世の親を問題にしなかった。母親のマリアをつか事えて、「女よ、汝と我と何の関係があるか」といっているのです。イエスの本当の親は神だったのです。これが聖書の信仰です。これを、悔い改めて福音を信じるというのです。

悔い改めても、毎日、肉体的に生きているという事実はありますから、日々十字架を負うことが必要です。自分はいないといいましても、やっぱり自分が得をした、損をしたという気持ちがあります。自分を立派な人間として考えてもらいたいという自尊心があります。

これは現世に生きている間の惑わしです。誘惑です。この世に肉体をもって生きていると、いつもこういう惑わしがきます。いつでもそれとけんかをしていなければならないのです。ずうっとけんかをして、勝ち続ければいいのです。負けないのです。自分がいないと思えば、負けないのです。

私がいないと思う以前に、私は何十年かこの世に生きていました。自分がいないということが分かっても、毎日誘惑され続けていることはあります。イエスも誘惑され続けていたのですが、それに勝ち続けていたのです。

イエスは我父にありといっています。アイ・アム・イン・ザ・ファーザー(I am in the father)、父にいることが私だといっているのです。皆様の目が見えること、心臓が動いていることが、父なのです。これさえ分かれば、

父の内にいることは何でもないのです。自尊心、自我意識を捨ててしまえば、自分がいることがそのまま父のうちにいることになるのです。この要領が分かれば、イエスと同じ心境で生きることは、十分できるのです。

パウロは言っています。「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかしわたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ人のへの手紙219

20)。

私はキリストと共に十字架につけられた。これが十字架の本当の見方なのです。教会では、これをはっきり言わないのです。

ペテロの第一の手紙の四章では、肉にて殺され、霊にて生かされたと言っています。イエスの肉が十字架で殺されたのです。そこで、イエスの十字架を信じるということは、イエスの肉と一緒に、自分の肉が死んだことを信じるのです。

これは自分の肉だけではありません。全世界の肉、地球の肉が全部死んでしまったのです。これはとても大きいことなのです。イエス・キリストの十字架の本当の説明をしますと、驚かれるでしょう。

肉なる人間が死んだことは、肉なる地球が死んだことです。動物も植物も、人間も全部死んだのです。今は霊の地球があるのです。これが十字架の本当の見方なのです。

これは、使徒行伝第二章十七節のヨエルの予言を見ても分かるのです。イエスが十字架にかかったことは、すべての人の肉が十字架につけられたことになるのです。私は罪を犯したことが多くありますが、それがイエスの十字架につけられたのです。これをキリスト教でははっきり言わないのです。その意味でキリスト教は十字架を信じていないのです。

私はキリストと共に十字架につけられた。私の肉は否定されたことをキリスト教は言わないのです。十字架は肉体的に生きている人間が死んでしまった印なのです。自尊心とか固有名詞の自分は存在していないのです。この立場から聖書を読んでいくのです。私が生きているのではない。神の子の信仰によって生きているといっているのです。これを英文で見ると、フェイス・イン・クライスト(faith in Crist)というのはこれなのです。

パウロはキリストの信仰という言葉を、しばしば使っています。自分がキリストを信じるのではありません。キリストが信じている。キリストの信仰がそのまま自分の信仰になるのです。

般若心経が分かった人は、キリストの信仰が分かるはずです。日本人にとって一番頼りになるのは、般若ハラミタです。この世の人間は空であって、生きていない。無眼界乃至無意識界、目で見ている世界はないし、意識している世界もない。仏教で般若心経を見ると分かりませんが、聖書で般若心経をみると、よく分かるのです。

聖書を見ている目で般若心経を見ると、よく分かりますし、般若心経を見ている目で聖書を見ると、又よくわかるのです。般若心経は聖書を証している。聖書は般若心経を支持しているのです。般若心経と聖書は宗教を離れてしまいますと、全く見事な関係になるのです。

日本人にとって悔い改めるというのは、般若心経が分からないとできないのです。そういう意味で、私は仏教ではない般若心経と、キリスト教ではない聖書を、提唱しているのです。

パウロは言っています。

「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペソ人への手紙42224)。

心の深みまで新にされることが必要です。キリスト教の牧師は、本当の意味で心の深みを知らないのです。この箇所を英文で読んでみますと、ザ・スピリット・オブ・ユアー・マインド(the spirit of your mind      )となっています。精神の霊となっています。精神の霊を新しくするのです。これが難しいのです。これはよほど聖書を深く学んでいないと分からないことです。

精神(mind)とは何か。精神という言葉は誰でも知っていますが、内容が分からない。精神は神が人間だけに与えている特殊機能です。精神を持っているものは人間だけです。神が持っているのは、御心の聖霊です。

人間の精神をよほどよく知っていないと、人間の特徴は分からないのです。人格と精神はとても深い言葉です。これを知るためには、天地創造の原理を知らなければならないのです。

天地がどうして造られたのか。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(創世記11)とあります。これが地球が造られた根本原理です。これを細く説明しますと、悪魔の性質、神の性質、天地がなぜ造られたのか、なぜ万物が存在するのか、人間とはどういうものかが分かってくるのです。

神が造った野の獣の中で、ヘビが最も狭滑であった。ヘビが女のエバに言った。なぜ悪魔をへビといっているのか。悪魔はなぜへビになったのか。こういうことがはっきり分からなければ、悪魔の働き、肉の思いの働きは分かりません。肉の思いが分からなければ、精神の霊を新しくすることはできないのです。

精神の霊を新しくするというのは、肉の思いを全部霊にかえてしまうことなのです。これができる人は、めったにいないでしょう。

天地創造の原理から考えますと、人間が生きているという事実はありません。地球があるだけです。地球の頂点に人間がいるのです。地球の中に、人間と万物が皆含まれているのです。この地球の頂点に人間がいるのです。人間の頂点にキリストがいるのです。キリストが死んで廷みがえったことは、万物が死んで生きかえったことを意味するのです。本当の神の御霊(みたま)を受けますと、これが分かるのです。

日本には本当に御霊を受けた人がいません。自分を神に渡してしまった人がいないからです。

皆様が今までの生き方をこれから何十年続けても、何にもなりません。ただ死ぬだけです。これをよくお考え頂きたいのです。

般若心経と聖書の神髄をお受け取りになれば、皆様は神の子としての命の実体を見つけることができるでしょう。皆様とイエスは同じものですから、キリストが私の内に生きていると、はっきり言うことができるのです。

今までの皆様の生活をお続けになっても、人生目的は何もありません。これをよくお考え頂きたいのです。

全世界の人間は、目的なしに生きているのです。何となく、漠然と生きているのです。人間文明はとりあえずあるのです。一人ひとりが目的を持っていませんから、文明も目的を持っていません。人間社会は目的なしに存在しているのです。

やがて、キリストの再臨によって、人間社会は完全に叩きつぶされるでしょう。キリストの再臨は驚くべきことなのです。

固有名詞の人間を、神は造っていません。市役所の戸籍台帳にのっている固有名詞は、現世の生活のために、便宜的に使っているものです。だから固有名詞の人間像を自分だと考えていると、嘘の自分を見ていることになるのです。

固有名詞の自分の感情とか、自分の立場、自分の記憶にこだわる必要はありません。それは皆五蘊なのです。

般若心経の般若ハラミタというすばらしい世界観が分からなければ、とても聖書を理解することはできないでしょう。キリスト教が間違っているのはこの点なのです。

自分の気持ちを持ったままで救われたいと考えるので、皆宗教になってしまうのです。人間は万物の霊長であって、万物の責任を持たなければならないのです。地球を良くするのも悪くするのも、人間しだいです。

今の地球はいつ地震が起るか分かりません。いつガンやエイズになるか分からないのです。こんな地球のままで放っておくのは、皆様の恥です。地球を完成させるのは、人間の責任です。

そのためには、イエスの命が自分の命であることが分からなければだめです。

永遠の命とは何か。「唯一の、まことの神でいますあなたと、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ること」(ヨハネによる福音書173)です。これが新約聖書全体の急所です。

人を生かしている可能根拠が神です。人の生理機能、心理機能、五官はイエスです。これが永遠の命の実体です。この他に永遠の命はどこを捜しても見当たりません。ぜひ永遠の命をつかまえて頂きたいと思います。