31ユダヤ人の回復が一番大きな問題

一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが、人間の運命です。現世の人間は、このために生きているのです。裁きを受けるというのは、地獄へ行くという意味です。

人間は自我意識で生きています。自我意識は、本人が意識してもしなくても、神に逆うのです。神に逆らわないで生きることはできないのです。

寒いとか、暑いとかいって、いつも神に逆っているのです。客観的なすべての条件に対して、主観的に反応するのが、自我意識です。自我意識はそうしないでは、いられないのです。

三十年も五十年も、長い人は八十年も九十年も、たえず神に反抗し続けているのです。それが魂の裁きの原因になるのです。

神に反抗し続けていることは、人間が生きている間、神を裁き続けていることなのです。神を軽蔑し続けているのです。皆、無意識にこれをしているのです。

誰も神を軽蔑しているとは思っていないでしょう。ところがしているのです。寒いことについて、暑いことについて、幸いこと、甘いことについて、すべて文句を言うのです。甘ければ甘いことが気にい入らない。辛ければ幸いことが気にいらないのです。こういう形で、いつも神を軽蔑しているのです。

人間は与えられた客観条件に、心から服従できないのです。なぜかといいますと、自我意識という主観意識があるからです。自我意識という主観意識があるために、客観的な条件にはどうしても反抗したくなるのです。これが神を裁いていることです。これを人間は毎日、毎日、無限に行っているのです。これが皆様の習慣になっているのです。

頭がいい人は頭がいいように、悪い人は悪いように、神を裁いているのです。女は女のように、男は男のように、神を裁くのです。女の人は男よりスケールが小さいですけれど、やはり神を裁いているのです。男は積極的に神を裁きますし、女は消極的に裁いているのです。毎日、毎日、何かをしていても、していなくても、寝ても起きても、神を裁き続けているのです。これが死んだ後に、魂が裁かれる原因になるのです。必らずそうなるのです。裁かれるというのは、地獄へ行かなければならないということです。人間はすることなすことが、皆気に入らないのです。自我意識をもっているからです。自我意識が喜ぶのは、自我意識の欲望に適した時だけです。

人間は神から与えられる条件がすべて気に入らない。だから死んだら裁きを受けることになるのです。

宗教は死んでから何かいいことがあるようなことを言います。キリスト教も仏教も、天理教も創価学会も、どんな宗教でも、神や仏を信じると、死んでからご利益があるといいます。死んでからご利益があるというのは嘘です。

本当の神が分かりますと、生きているうちに魂の目が開かれて、自我意識がすっかり消えてしまうのです。そうして自我意識ではない、全く別の意識を与えられるのです。そして神の懐にすっぱり入ってし事えるのです。これを、神の国へ入るというのです。

イエスはこれを実行しましたので、廷って復活したのです。自我意識を捨てさえすれば、イエスの復活を信じることができるのです。

ところが人間は、自我意識を捨てることができません。自我意識を捨てることは、現存在の人間の本質が分からなければできないのです。

旧約聖書の創世記にありますが、人間の祖先であるアダムが罪を犯したことが本当に分からなければ、できないのです。人間の祖先である人祖が何かが、まず分からないのです。人祖が分からなければ、メシアは分かりません。

人祖とメシアは同じものです。アダムが罪を犯したことが、なぜ現在の私達が罪を犯したことになるか。アダムが犯した罪に対して、なぜ私達が責任を負わなければならないかということです。これに対してキリスト教は、はっきり言わないのです。説明できないからです。

人祖というのは人間の祖先だと思っているのです。そうではないのです。私達が現世に生れてくる前に、前世がありました。その前世にアダムがいたのです。

この説明がキリスト教ではできないのです。アダムが何のために、いたのでしょうか。何をしていたのでしょうか。これが分からないのです。

釈尊もこれが分からなかったのです。彼は素朴な人間で、行をして悟りを与えられたのです。正確にいえば行をすることをやめて、全く無心になって、明けの明星を見て、悟りを開いたのです。偉い人ではありましたが、アダムがエデンの園にいて、神から食べてはいけないといわれた善悪の木の実を食べた。これが何のことか、さっぱり分からなかったのです。

人間は前生で、食べてはいけない善悪の木の実を食べて、罪を犯して死んでしまった。そして現世に追放されてきたのです。現世は罪人ばかりがいる収容所なのです。現世にいる人間は、全員、必ず死ぬ運命にあるのです。六十億の人間は皆、無期懲役刑に処せられた囚人です。だから死にたくないのに死んでいかなければならない。死にたくないのに死んでいくというのは刑を執行されるということになるのです。

人間は罪人ですから、毎日、神を裁いているのです。神をぼろくそにいっているのです。造り主である神を、踏みつけにしているのです。食べるものから着るものまで、健康のことから、天候のことまで、何から何まですべてを悪者にしているのです。神が気に入らないのです。

人間が生きているのは、実はそっくりそのまま、悪魔が生きているのです。それを皆様が知らないだけです。人間は自分が生きていると思っている。自我意識が悪魔の意識です。悪魔が人間というかっこうで生きているのです。まずこのことを、よく承知して頂きたいのです。

聖書に次のように書いています。

「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるのなら、さらに彼の復活の様もひとしくなるであろう。

わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけらゎた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。

もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配していないことを、知っているからである」(新約聖書ローマ人への手紙659)。

仏教では、個々の人間が消えてなくなるとはいわないのです。個々の人間が存在することが、空だと考えるのです。

しかし、現実に存在する人間を、どうすればいいか、説明できないのです。ただ空じてしまえというのです。

ただ空じてしまえというだけなら、観念論になってしまうのです。空じてしまうには、そのような手続きがいるのです。空じてしまう方法がいるのです。

聖書には、十字架という空じる方法があるのです。彼の死の様において、彼と結びつくという形で、人間自身をなくしてしまう方法があるのです。仏教にはそれがないのです。だから、自分で自分を空じるしかないのです。空じたらいいというけれど、なかなか空じられません。具体的な方法がないからです。

イスラム教にもないのです。イスラム教は現実に生きていることを問題にしているのです。これは現実にいる人間を認めた上での神になるのです。つまり、現実の人間という意識の方が強いのです。神より人間の方が先にあるのです。これがイスラム教の非常に悪い点です。イスラム教はどこまでも現実主義です。

現世に人間が生きていてもしかたがない。なぜなら、現世の人間は、必らず死ぬからです。現世の人間を認める宗教は、やがて滅びていくでしょう。宗教そのものがまちがっているからです。

仏教は現世の人間を認めていないのです。認めている宗派もありますが、これは仏教ではないのです。空じるという宗派は釈尊に近いのですが、空じると行っても、空じる方法がないと空じられないのです。自分自身が消えてなくなることが不可能です。

聖書にはキリストの十字架によって結びつけられるとあります。イエスが死んだ状態によって、イエスに結びつくとあります。十字架をまともに信じることによって、十字架につけられて人間は消えてしまうのです。これ以外に自分をなくす方法はないのです。

個々の人間は、必ず一度死ぬ人間です。死んでから必ず裁きを受ける人間です。毎日、朝から晩まで、神を裁き続けているからです。自我意識に逆うと、いちいち文句をいうのです。口に出さなくても、心の中で文句を言っているのです。神を憎み続けているのです。だから、人間は死んだら裁かれるに決っている。そして地獄に行くことになっているのです。

人間は自分が自分の力で生きているのではないのです。天然自然によって生かされているのです。それを自分が生きていると思っている。自分が生きているという考えが原罪なのです。

人祖であるアダムが罪を犯した。人祖アダムが何者であるかを、はっきり言ったキリスト教は、世界にないのです。創世記二章、三章がわからないからです。

未だかつて、アダムの正体が解明されてことがないのです。神話だと思っているからです。アダムとイエスの関係が分からないのです。

アダムが罪を犯した結果、大変なことが起ったのです。善悪を知る木の実を食べて死んでしまった。その結果、一人の人格が、数百億に分裂した。

聖書に、現象世界が造られた理由について、次のように書かれています。

「わたしは口を開いて譬を語り、夜の初めから隠されていることを語り出そう」(マタイによる福音書1335)。キリスト教では神が地球をつくった基本的原理が、全然説明されていないのです。十字架の救い、罪の許し、購罪論ばかりを言っているのです。購罪論は基本的原理ではないのです。

一度死ぬにきまっている人間、死んで地獄へ行く人間は、基本的原理が全然分かっていないのです。人祖アダムが善悪の実を食べて罪を犯した結果、一人の完全人格が無数に分裂した。無数に分裂した人格が現世に生れてきたのです。

現在の文明は、瀬戸物の欠けらのような人格の集りです。その人間が、神をあざけったり、ののしったり、軽蔑したりしている恐るべき集団です。嘘を言ったり、人を憎んだり、人をののしったり、呪ったりする人格ばかりです。

完全人格は神を誉めること、神を賛美すること、神を喜び神の内に命を見いだす人格です。今の地球に、こういう人格が全くいないのです。神を信じることができない、欠陥人格ばかりなのです。

自分で神を信じようと思う。そんな信仰は神の前に通用しないのです。皆様は個々の人格を問題にする悪い癖があるのです。この癖をやめるのです。そうすると聖書が分かってくるのです。自分自身が生きていると、どうしても人を呪ったり、憎んだり、苦しんだり、悲しんだり、文句を言ったり、腹を立てたり、軽蔑するにきまっているのです。

地球ができる前の世界、数百億に分裂しない前の人格に帰るのです。そうすると信じることができるのです。

自分が信じるのではなくて、地球ができる前の基本的な原理で信じるのです。神が太陽系宇宙を構成している原理、天地万物の構成原理で信じるのです。現在の地球に、六十四億の人間が生きている原理を知らないで、聖書を勉強しているから分からないのです。

分裂した人間は原罪の欠けらです。原罪の塊がアダムです。アダムが何百億に分裂してしまった。分裂した人間は欠陥人格です。こんなものがいくら聖書を勉強しても、分るはずがないのです。神を信じることができるはずがないのです。

この点で、世界中のキリスト教は全部まちがっています。地球構造、太陽系の構造じたいが、聖書の構造の第一原則なのです。ここから勉強していかなければならないのです。

皆様は数百億に分裂する前の人格に帰らなければならないのです。これはイエス・キリストに結びつくことが、罪を犯す前のアダムに帰ることになるのです。

アダムは罪を犯したために、数百億に分裂した。私達は分裂した人格ではなくて、分裂した前の人格に帰れるのです。これをイエス・キリストを信じると言うのです。

分裂した人格は統合しなければならない。統合すれば、死から逃れることができるのです。

この点、日本国憲法は重要な示唆を与えてくれています。天皇は、日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴であると書いています。日本国民の統合とは人格の統合を意味するのです。ここに人間が救われる秘密があるのです。

天皇は日本国民の人格の象徴ですが、キリストは、全人類と全生物の統合の象徴です。人間一人ひとりがばらばらに生きていれば、必ず死んでしまいますが、全人類、全生物が統合しますと、絶対に死なない、完全人格になるのです。ここにおいて、人類と地球が完成されるのです。

やがて復活したキリストが地上にやってきます。そうして、完全な人間が歴史的に証明されるでしょう。そして千年間の完全平和、絶対平和が実現するのです。私はこの日が一日も早く実現することを、心から望んでいるのです。