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32人の内にある永遠の生命の実体 |
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人間の愚かさは、自分とは何かが分かっていないことです。日本人とは何か、自分自身の本来あるべき姿、本来あるべき場をアイデンティティ(identity)といいますが、それがわかっていないのです。 ユダヤ人はそれを知りたいと思っているのです。ユダヤ人だけはアイデンティティを話すと、耳を傾けるのです。ところが、それが彼ら自身に思っても見ないことなので、困惑するのです。それが神の子であると言われると、思わず反抗するのです。反抗はしますけれど、アイデンティティを知ろうとしているのは、さすがにユダヤ人です。 日本人にはそれがないのです。人間は何のために生きているかといいますと、人間のアイデンティティを知るためなのです。人間の本来あるべき姿は何かを知るために、生きているのです。それが分かれば、人間は勝手に救われるのです。 人間が本来あるべき状態は、生ける神の子です。皆様が生きていることが、皆様の実体です。日本人であるというのはその姿です。生きていることが第一です。生きているからこそ、日本人でありうるのです。死んだら日本人でなく、単なる死骸になるのです。 生きていることが人間のアイデンティティです。これを正確に知ることです。自分自身が生きていることが魂だということが正確に分かれば、人間は死なないし、地獄へ行かなくてもいいのです。 アイデンティティがはっきり分かっていないものは、死ぬにきまっているのです。人生を自分のものだと思っている人は、アイデンティティが分かっていないのです。こういう人は愚かな人です。 生きているから人生があるのです。アイデンティティがなければ、生きているとはいえません。生きているということはどういうことか。どこかの国に属する人であって、現実に生活していること、目が見えていること、耳が聞こえていること、五官が働いているのでなければ、生きているとはいえないのです。 日本人であることは絶対ではありません。やめようと思えばやめられるのです。手数がかかりますけれど、日本人であることはやめられるのです。 生きていることはやめられません。やめてしまえば、アイデンティティがなくなってしまうのです。人間であることがなくなってしまうのです。ですから生きていることは絶対です。これを正確に弁えることができさえすれば、人間は死なないのです。それを正確に弁えるためには、聖書を勉強するしかないのです。 アイデンティティは自分が生きていることの実体であって、これは必ずしも自分が気にいることばかりではないのです。気にいらないこともあるのです。 聖書を正しく認識することが、自分のアイデンティティを正しく認識することです。アイデンティティを認識することが神を信じることであり、同時にとこしえの命を持つことなのです。宗教的な言い方をすれば、救われることになるのです。救われると思っても、自分自身の実体を認識しなければ、救われないことになるのです。 自分自身が現在あるがままの状態をしっかり捉えていることが、アイデンティティを捉えていることになるのです。これが救いになるのです。自分自身が生きている状態を正確に捉えなければ、救いはありえないのです。 南無阿弥陀仏でもそうなるのです。阿弥陀如来の名号を唱えることはどうすることか。阿弥陀如来の名号が、そのまま自分自身の命の本質になることを心得て唱えると、阿弥陀如来の名号が、そのまま自分の命になるのです。これを心得ずに唱えるから悪いのです。心得て唱えるなら、名号が自分自身の命になるのです。 阿とは無という意味です。禅宗で無(む)といいますが、真言宗では阿といえば無のことです。弥陀とは限りです。阿弥陀は無限です。 如来とは、前世の命の状態で人が生きていることをいいます。皆様の魂は、実は阿弥陀如来そのものです。魂の実体は、前世の死なない無限の命が、現世に生きていることをいうのです。 人間は現世に生きているために、魂であることを全く忘れて、肉体的に生きている固有名詞の自分、基本的人権を主張する自我意識の自分だけを見ている。死なない魂の自分が全く没却されて、死ぬべき固有名詞の自分だけを見ているので、死んでしまうのです。 人間存在には、死なない魂と、死ぬべき自分と二重人格になっていますが、人間はわざわざ死ぬべき自分を選んでいるので、絶対に死んでし事つことになるのです。どうしてそんな愚かなことをするのかといいたいのです。人の魂は阿弥陀如来です。阿弥陀如来の名号を捉えて、名号のいわれを心得て、名号を唱えるなら、阿弥陀さんが迎えに来てくれるというのです。仏説阿弥陀経にそのように書いていますが、これはキリスト教のまねをしているのです。 イエスとは神に生かされている状態です。魂の本来あるべき姿はイエスです。イエスが主であるということが、南無阿弥陀仏ということです。 イエスを主よということと、南無阿弥陀仏と唱えることとは同じことなのです。南無阿弥陀仏はただの宗教ですが、イエスが主であるというのは、実体があるのです。 イエスが主であるということは、とこしえの命としての実体があるのです。この実体を御霊によって教えられなくて、ただ主よ主よといっていると、ただの空念仏になるのです。 ヤコブは、「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(みことば)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」(ヤコブの手紙1・21)と言っています。 人間の日常生活は、甚だしい悪になっています。人間の常識はピンからキリまで、偽善ばかりです。お早ようございますといっても、もう偽善になっているのです。することなすことが、すべて、本心から出ていない。偽りの思いになっているのです。 そういう根性で人間の魂を見ても分からないのです。そこで、すべての汚れや、甚だしい悪を捨てよというのです。人間の顕在意識はすべて甚だしい悪です。汚れです。これを捨てるのです。 そして、心に植えつけられている御言を受けるのです。心にというより、人が生れた状態に植えつけられているのです。人の命に植えつけられている御言が魂です。その御言をすなおに受け入れるのです。 例えば五官の働きの状態が、そのまま植えつけられていることなのです。それが神の言です。御言(みことば)です。目で見ていることが御言です。聞いていることが御言です。手で触っていることが御言です。 例えば花を見ているとしますと、見ている目の働きが御言です。又花そのものが御言です。御言としての花を、御言としての目が見ているのです。命が人に植えられている状態を魂というのです。 見ているのは自分の力ではありません。神の力です。犬でも猫でもこの力は働いています。他の獣でも見ることができます。動物に植えられている言(ことば)によって、見たり聞いたりしているのです。 クモが巣をつくるのは、クモに植えられている言によってつくっているのです。神の言がクモに働いているから精巧な巣をつくるのです。クモは大学に行って建築工学や幾何学の勉強をしたのではないのです。すべてのものの力、すべてのものの命は、神の言の働きです。これを神の言として認識することができるのが人間です。人間以外の動物は、認識できないのです。 聖書を信じていない人は、自分自身に与えられている五官の力が、神の言であることを知りません。そういう人は、獣と同じことになるのです。魂を持っていますけれど、獣の状態でもっているのです。 植えられている五官が、神の言であることをはっきり認識できる人は、神の子になるのです。生ける神の子であるかないかは、これできまるのです。 神の子以外の人でも、同じように目が見え、耳が聞こえますが、自分の目が見えると思っているのです。自分の目が見えるのではありません。神の言として植えられている目の働きによって見えるのです。神の言が働いて目が見えるのです。 人間が生きているのは、すべて神の言で生きているのです。万物は神の言でつくられたものですが、神の言でつくられた五官によって、味ったり、見たり、聞いたりしているのです。 私達が、五官によって見たり、聞いたり、味っているものは一体何か。聖書は次のように述べています。 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について、このいのちが現われたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今や私たちに現われたものである」(ヨハネの第一の手紙1・1、2)。 地球ができる前に、死なない命、永遠の命があった。これが地球に現れたので、私達はそれを五官で捉えることができるようになった。ところが人間はそれを受け取ることができない。それは前世で大失敗したからです。 これについては、旧約聖書、創世記の二章、三章に詳しく書いていますが、人祖アダムは、最初、死なない命を神から貸し与えられたのです。 命を受け取ったのですけれど、その命を神のものとして受け取っていながら、私のものと考えたのです。神のものとして受け取っていながら、自分のものと考えこんだのです。これが前世での失敗です。 命を与えられたというのは、貸し与えられたという意味です。貸し与えられたという意味は、貸し与えられることによって命の本質を正しく弁えることができたら、本当に与えられるのです。もし間違えて受け取ることになると、命を与えられたことが、かえって仇になるのです。滅ぼされることになるのです。 現世の人間は生きてはいますけれど、命を知らないのです。命を知らないということは、自分のものではないからなのです。命を持っていながら、命の説明ができないのです。命を貸し与えられている証拠に、持っていながら説明ができないのです。自分のものではないからです。 冷静に考えれば、自分のものではないことが分るでしょう。しかし持ってはいるのです。自分のものではないけれど、自分のもののように使いこなすことができるのです。 自分の命のように使いこなすことができなければ、命の善し悪しを知ることができないのです。命の善し悪しを知ることができなければ、命の本質が分かりません。命はどれだけ有難いものか、どれだけ尊いものかが分かりません。命の値打ちがよく分からないので、自分の気持ちのように使うことができるように、神が無条件で与えているのです。 人間は無条件で与えられていることをいいことにして、わがまま勝手に使っている。命は自分のものだと思いこんでいるのです。これが大変な間違いです。 命は自分のものではありません。自分のものではない証拠に、命の本質を説明できないのです。自分のものであれば、命の本質が分るはずです。そこで、命を持っているけれど本質を知らないということが、与えられてはいるけれど、自分のものではないことになるのです。 命の本質を知るためには、どうしても聖書を勉強しなければならないのです。聖書を勉強すると、命が自分のものではないことが分るのです。 今人間は、神に貸し与えられた命を使っているのです。その命を本当に使いこなすことができるかどうかが問題です。本当に使いこなすというのは、神の命であることを承知して使うことができる人を言うのです。その人は命を使いこなした人なのです。 その人には、改めて命が与えられるのです。生きているうちに命がその人のものとして与えられるのです。そうすると、命の性質がわかるのです。命の説明ができるようになるのです。これを信仰といいます。 イエスは命を使いこなしました。イエスの説明ができるようになったら、始めて、皆様は命の説明ができるようになったのです。イエスの説明ができない人は、命の説明ができない人です。命は自分のものではありませんけれど、命の説明ができるように使いこなさなければならないのです。自分のものではないことをよく心得て、使いこなすのです。 命は自分の思うとおりにはなりません。思うとおりにはならないけれども、与えられた条件のように生きていかなければならないのです。ヨハネによる第一の手紙の方では、とこしえの命のことばが私達に現われたといっています。ヤコブの手紙の方では、命のことばが私達に植えられたといっています。人間が生きているのは、私達の五官の働きと、人格の働きの二重構造になっているのです。 ただ五官の働きだけなら、目とか耳とかだけの働きですが、人格の働きがあるのです。人格の働きと五官の働きが重複しているのです。人格と五官が重っています。これによって私達自身が、人生の重み深みを知ることができるようになっているのです。 例えば甘いものを甘いと認識することができることが、宇宙的にどういう意味があるかを、判断することができるのです。 犬や猫でも、甘いものを甘いと思うに違いありません。人間はただ甘いものを甘いと思うだけではない。宇宙的にそう思うのです。犬や猫は、ただそう思うだけなのです。 人間はそうではない。神的に、宇宙的に甘いことを認識するのです。神的に、宇宙的にということは、今という時だけを考えているのではない。宇宙的認識は、地球ができる前の認識であり、同時に地球が終ってからの認識でもあるのです。前世、現世、来世の三世を貫いている認識を、人間はしているのです。これが人格です。人格には時間的制限がないのです。五官には空間の制限はありません。時間と空間の制限がなくなっているのです。 砂糖をなめて甘いと思うのは、世界中の人間が全部甘いと思っているのです。世界中の人間が、時間、空間を超越して生きているのです。人格と五官はそういうすばらしいものなのです。これがそのまま永遠の命の実体になっているのです。これが生ける神の子です。これを説明したのが、ナザレのイエスです。 生ける神の子であるイエスと、皆様は同じ人です。同じ人格の同じ機能を持っているのです。これが分かりさえすれば、皆様は死ななくなるのです。 人格と五官は時間と空間を超越しています。今までこれをはっきり説明した哲学者も宗教家もいません。イエスはこれを実演し、それを記したのが新約聖書です。 イエスの命は死後の世界にまで延長しています。それが復活です。一度殺されたが整って、魚を食べてたり、ぶどう酒を飲んだりしているのです。復活してもなお味覚があることをイエスは証明しているのです。これは尊い記録です。今の人間はこれを知らないのです。 人間は死んでからでも食べられるのです。ぶどう酒が飲めるのです。そういうことをイエスは証明したのです。 本当の命を経験することができると、現世の矛盾がなくなるのです。現世の矛盾は、人生を深く経験していないから起こるのです。目の前だけのことを人生だと思うからいけないのです。 目の前だけの自分はありません。今の経験をさせられているだけなのです。利害得失はありません。人に誤解されても、失敗したりしても、それはただの誓であって、本当の損失ではないのです。 物事を大きく考えるのです。現世だけの小さなことに捉われずに、三世を考えるのです。生れる前に生きていた。現在生きています。現世を去ってからも生きていくのであって、現世だけの善悪利害を考えてもしかたがないのです。そういうことはどうでもいいのです。 世間並の命で生きていると、死んでしまうことになります。イエス・キリストの復活の命を受け取ってしまいますと、今の命から出てしまうことになって、本当の命にかわってしまうのです。この命をつかまえるのです。 神はイエス・キリストを復活させたことによって、人間を新しく生んだのです。その命を受け取ってしまうのです。 自分の思いが一番悪いのです。自分が生きていると思いこんでいるからです。自分が生きているという思いを握りこんでいる以上、必ず死にます。死ぬにきまっている命を抱いていると、必ず死ぬのです。 死ぬにきまっている命を離してしまうのです。イエス・キリストの甦りの命をつかまえるのです。そうすると死ぬ命と関係がなくなるのです。 甦りの命を捉えることになりますと、死ぬにきまっている命と関係がなくなるのです。死ぬにきまっている命を自分の命だと思うことをやめるのです。イエス・キリストの復活の命に目をつけるのです。そうすると現世の矛盾が気にならなくなります。 現世の命を考えていると、いつも損した得したと一喜一憂するのです。 イエス・キリストの復活の命に目をつけると、自分の命から解放されて、死なない命の中に入っていけるのです。命が切り替わるからです。 |