あんとくてんのうにしいちごりょうぼさんこうち
安徳天皇西市御陵墓参考地
(王居止御陵)
| ●所在地 | :山口県下関市豊田町大字地吉(豊田湖の畔) |
| ●交通 | :バス停「天皇様」下車 |
![]() |
山口県下関市にある豊田湖の畔に安徳天皇西市御陵墓参考地の入口があります。 |
![]() |
入口には「安徳天皇御陵墓」と書かれています。 |

| 山口県下関市の山奥、豊田湖の畔にあり、遠くから見ると全体が円墳のように見えます。(前方後円墳という説もあります。) 柵の内側には石の階段があり、外からは様子がうかがいしれません。この画像左の碑には「御陵墓傳説地」と記されています。 壇ノ浦で二位の尼に抱かれて入水した安徳天皇の陵墓と伝えられおり、昭和3年、宮内庁より陵墓参考地として指定されています。 毎年4月24日、安徳天皇を偲び「先帝祭」が執り行われるそうです。いつか神事の折に訪ねてみたいものです。 この西市陵墓参考地のほか、全国には安徳天皇の陵墓参考地として、岡益陵墓参考地<鳥取県鳥取市>・佐須陵墓参考地<長崎県対馬市>・越知陵墓参考地<高知県高岡郡越知町>があります。 |


![]() |
御陵墓附近案内図 (地図のみの拡大写真を撮り忘れたので位置関係がわからなくなってしまいました。) |
| 石碑がありましたが、読めませんでした。(^^;) | ![]() |
![]() |
網掛之森 烏賊ケ湖 の碑 石碑の意味については下記でご紹介しています。 |
![]() |
「御陵墓傳説地」の碑 |
![]() |
| 安徳天皇御陵墓伝説地由来碑 御陵並に御篭建場由来 寿永四年三月二十四日、壇ノ浦の海戦あり 午刻平氏敗頽 安徳帝二位禅尼御抱きて入水 源氏方百万捜索せるも発見せられず 因って沿岸浦人を召して捜索中沢江浦人の網に御尊骸掛りたれども神剣なし 義経心あらずや網の侭御棺に移して潜幸紀民部大輔光季守護し奉り沿道を猿山庄司に命じ義経御奉送のため野陣を今の法ケ原に進出 豊浦大津の郡境にて御棺微に動かず 因って南方奇しき地形の小丘此処に埋葬し奉る 御棺の動かずなりし××人御篭建場と称す 網掛森 烏賊ケ渕由来 御尊骸と共に送りし網の穢れを渕にて洗ひし時 いか二尾渕の深みに生きかえり、宝歴年中まで御祭事当日姿を見せしと伝ふ 網は田圃中の小森にかけ之が後世網掛森、渕はいかが渕と云ふ 御衣洗池の跡由来 御尊骸の御衣の穢れを此の池水で洗ひ清めしと伝ふ |
| 壇ノ浦の合戦後、源義経は沿岸の漁師を動員して、三種の神器のうち、水没した神剣<天叢雲剣>を探していました。 沢江浦の漁師が底引き網を曳いていると、安徳天皇の御尊骸が網にかかって発見されましたが神剣はみつかりませんでした。 御尊骸と網を棺に移して運んでいたところ、急に重くなり運ぶことができなくなりました。そのため、棺を立てて休憩したことから、その地を「御篭建場<御籠立場(かごたてば)>」と称するようになりました。 休憩したのち、南方の人里離れた丘に御尊骸を埋葬したのが現在の「安徳天皇西市御陵墓」なのだそうです。 御尊骸と共に運んだ網の穢れを渕で洗った時、烏賊(いか)が2はい 渕の深みから生き返ったことから、その渕を烏賊ケ渕(いかがふち)というようになりました。 また、網を田んぼの中の森に掛けたことから、「網掛けの森」というようになったという伝承もあります。 |
![]() |
御陵墓前から見た豊田湖。 前方50メートルの湖底より古刀が出土したそうです。 |
![]() |
左側が御陵墓です。 安徳天皇の御尊骸の御衣の穢れを洗い清めました。 (場所はよくわかりませんでした。) |
![]() |
豊田湖に架かる橋から見た安徳天皇西市御陵墓参考地。 手前のこんもりとした山が御陵墓です。円墳のようにも見えます。 |
![]() |
豊田湖 おそらくこの辺りが烏賊ケ渕(いかがふち)ではないかと思われます。 |
| 【参考】 | |
| 「水都の調べ 関門海峡源平哀歌」 | 安冨静夫・著/吉岡一生・写真/下関郷土会・発行 |