熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる
| 清原 元輔 (きよはらのもとすけ) | |
| 908年(延喜8年)〜990年(永祚2年・正暦元年6月) | |
平安時代中期の官人・歌人。 歌人・清原深養父(ふかやぶ)の孫。清原春光の子。(一説によると深養父の子ともいう。) 『枕草子(まくらのそうし)』を書いた清少納言の父。 951年(天暦5年)、源順・大中臣能宣・坂上望城・紀時文とともに内裏の昭陽舎<梨壺>に設けられた撰和歌所(せんわかしょ)の寄人(よりうど)となり、初めて『万葉集』に訓点を付け、『後撰和歌集(ごせんわかしゅう)』を編纂する仕事に就いた。この仕事に携わった彼らを「梨壺の五人」という。 また、元輔は、高貴な身分であった藤原実頼・藤原師輔・源高明などの邸宅に出入りして、和歌を詠むこともあった。 『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』以下の勅撰和歌集に107首入集し、家集『元輔集』を遺す。 百人一首では、以下の歌が収められている。 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは (決して心変わりはしないと約束しましたよね。互いに涙に濡れた袖をしぼりながら、どんなに波が荒れようとあの“末の松山”を波が越えることがないように、私たち二人の心も変わりますまい…と。)
従五位上肥後守に任ぜられ、都から遠く離れた熊本で990年6月に死去。83歳であった。 『今昔物語』では、此ノ元輔ハ、馴者ノ、物可咲ク云テ人咲ハスルヲ役トスル翁ニテナム有ケレ(この元輔は世慣れた人物で、おかしなことを言って人を笑わせることばかりするおじいさんだった)と書かれ、また『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』では、人笑はする事役にするなりけり(折につけて人を笑わせるようなことをよくする人物であった)と書かれるような陽気な人柄であったらしい。 →『今昔物語』・『宇治拾遺物語』の同一エピソード →娘・清少納言から見た父像 |
| ●所在地 | :熊本市春日1丁目6−33 |
| ●交通 | :JR「熊本」駅下車 徒歩15分 |
| :市電「祇園橋」下車 徒歩5分 | |
| (北岡神社の北、清原公民館敷地内) |

|
清原神社
清原元輔は、肥後の国司として寛和二年(986)から正暦元年(990)までの間肥後を治めていました。清少納言の父でもあり、三十六歌仙に数えられるほどの歌人でまた当時の肥後の歌人桧垣とも交流があったと伝えられており、鼓ケ滝や藤崎宮の歌等が家集に残っています。正暦元年に亡くなったときは八十三才でした。 ≪平成十年九月 熊本市≫ |
![]() |
清原神社遠景。 住宅地の中にある小さな神社です。 入口には「清原神社」と書かれた看板が塀に掲げてありました。 (写真右側に鳥居が見えます。) |
| 清原神社の鳥居・扁額 | ![]() |
![]() |
お社。 |
![]() |
お社の真ん中に置かれていた神像です。 清原元輔なのでしょうか。 |
| 右側におられた神像。 | ![]() |
| 左側におられた女性の神像2体。 どなたを祀っているのでしょう。 肥後で交流があったという桧垣という女性なのでしょうか?? |
![]() |
| 【参考】 | |
| 「日本史大事典」 | 平凡社 発行 |
| 「平安時代史事典」 | 角田文衞 監修/角川書店 発行 |
| 【本文引用・参考】 | |
| 「日本古典文学全集24 今昔物語集(4)」 |
馬渕和夫・国東文磨・今野進 校注・訳者/小学館 発行 |
| 「新編日本古典文学全集50 宇治拾遺物語」 |
小林保治・増古和子 校注・訳社/小学館 発行 |