古代の迎賓館
こうろかん
鴻臚館
| ●所在地 | :福岡県福岡市中央区城内(舞鶴公園内) |
| ●交通 | :西鉄バス「平和台鴻臚館前」バス停下車 |
| :福岡市地下鉄「赤坂」駅下車 |
| 鴻臚館(こうろかん)は、外国の使節を接待した館で、筑紫(福岡市)・大和宮都の外港である難波(大阪)・平安京(京都)の3ヶ所に置かれました。 難波の鴻臚館は承和十一年(844)摂津国府に転用され、平安京の鴻臚館は、はじめ羅城門の両脇に設けられましたが、弘仁年間(810-824)に七条朱雀へ東鴻臚館・西鴻臚館として移されたと伝えられています。 2004年5月に国指定史跡となった筑紫の「鴻臚館」は、当初、「筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、平安時代初期(嵯峨天皇の時代?)に唐の外務省に相当する役所の“鴻臚寺”にならって「鴻臚館」と名を改めました。 “鴻臚”とは、賓客を迎える時、大声で伝達するという意味です。 日本書紀によると、持統二年(688)に新羅国使を筑紫館でもてなしたという記述が初見。鴻臚館の初見は、承和五年(838)、遣唐副使・小野篁が大宰鴻臚館で唐人沈道古と詩を唱和するという記述です。(注/これより少し後の承和14年(847年)『入唐求法巡礼行記』では鴻臚館の名称で登場) 11世紀になると鴻臚館の呼び名は「大宋国商客宿坊」となりますが、永承二年(1047)この宿坊が放火され犯人が捕らえられたという記述<『扶桑略記』>を最後に歴史から姿を消します。そのため、11世紀半ばまで使われていたと考えられます。 鴻臚館遺構の移り変わりは、5時期に区分されますが、建物の遺構の検出は第1期〜3期までで、第4期(9世紀後半〜)・第5期(10世紀後半〜11世紀前半)は建物の遺構は、福岡城建築による破壊を受けたため検出されていません。しかし陶磁器が豊富に出土しています。 奈良時代<筑紫館時代>は、唐や新羅からの外交使節をもてなしたり、日本から唐や新羅へ向かう遣唐使・遣新羅使・留学生の宿泊施設として利用されたりしました。 平安時代<鴻臚館時代>遣唐使の廃止(894年)後は、唐商人の接待・外国人の検問や貿易などに用いられる外交の場にあてられ、現在それらを示す多くの国際色豊かな遺物が大量に出土しています。 筑紫の鴻臚館は大宰府(福岡県太宰府市)の諸機関のひとつであり、まだその全容が明らかになっていません。大宰府と鴻臚館は直線的な国道(官道)で結ばれていた可能性が高いといわれています。鴻臚館の発掘調査は場所を広げながら2021年度まで続くそうです。今後の発見に目が離せません♪ →「鴻臚館」の解説パネルや看板 2004年現在、発掘調査が終わり、整備された鴻臚館跡の一部は、鴻臚館跡展示館<入場無料>と遺跡広場として市民の憩いの場となっています。 |

鴻臚館跡展示館 入り口側

| 福岡城跡(平和台球場跡)で発掘調査中です。 1987年(昭和62年)末に旧平和台球場外野席の改修工事で発見され翌年度から発掘調査が始まりました。 ※調査が終了した平和台球状跡の南半分において、2011年7月19日から、芝やゴムチップを使った鴻臚館の全体像がイメージできるような暫定整備ががなされました。 |
