水城と大宰府

| 福岡市(博多)方面から太宰府へ向かう途中、東西に連なる小高い丘を目にします。この木々が生い茂った丘は、途中、旧国道3号線・国道3号線・九州自動車道・JR鹿児島本線・西鉄電車の線路などに分断されながらも長く横たわっています。 これが『日本書紀』巻第二十七 天智天皇条 に 筑紫に、大堤を築き水を貯へ、名けて水城と曰ふ。 と記された大堤「水城(みずき)」跡です。 水城が築かれたのは、天智天皇3年(664年)のことでした。この時、同時に対馬・壱岐・筑紫国などに防人(さきもり)と烽火(のろし)とを備えています。 水城の規模は全長1,2km、基底部の幅約80m、高さ約10mの人工の土塁<土の堤防>です。土塁には2ヶ所に門が作られ、奈良時代には官道が通っていました。西門は鴻臚館(こうろかん)に通じ、東門は博多に通じていたと推定されています。 そして、かつては水城の名の通り、博多側<海側>に幅60m、深さ4mの外濠が造られ水が貯えられていました。最近の調査結果では、棚田状に並んだ2本の濠(ほり)が並行して掘られていたことがわかっています。<毎日新聞 平成18年10月21日(土)朝刊より> さらに、現在の春日市(大土居、天神山)・大野城市(上大利)にも小規模な水城<小水城>跡が残っています。 秋、八月に、達率答春初を遣はして、城を長門国に築かしむ。 達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣はして、大野と椽、二城を築かしむ。 また天智天皇4年(665年)の秋、8月には百済の貴族を遣わせて、長門国(山口県)・筑紫国に城を築きます。 同じく百済の貴族を筑紫国に遣わせて、大宰府の北2〜3キロメートルにある大野山<四王寺山>に大野城(おおのじょう)を、大宰府の南約10キロメートルにある基山に基肄城(きいじょう)が築かれました。 |
| 大野城 おおのじょう |
大野山頂にある朝鮮式山城。土塁や石垣で山頂全体を囲むように造られており、北と南のみ二重に防御されている。その中に建物が建てられていた。城内の各地域には70棟以上の倉庫を主とする建物跡が発見されている。 大野山は、のちに四天王像を安置する四王院が創建されたため、この山を「四王寺山」ともいう。 大野城は、太宰府市・大野城市・宇美町にまたがっている。 |
| 基肄城 きいじょう |
最高峰415mの基山に築かれた朝鮮式山城。 福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山を含む谷を大きく延長約5kmの土塁で囲み、要所は石垣で固め、その中に倉庫と考えられる建物が40棟ほど建てられていた。城門が北の筑紫野市側に2ヶ所、南の基山町側に2ヶ所確認されている。 |
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水城の東側は、大野城のある大野山<四王寺山ともいう>に接しており、水城の西側も丘陵と繋がっています。 つまり、大宰府の北西側は、塞がれているような形となっています。 大野城と同時期に築かれた基肄城もまた大宰府の南を護る意図を感じられます。 これらは、唐と新羅の攻撃に備えた防衛施設でした。 ・・・というのも、唐・新羅に滅ぼされた百済復興のため、日本は661年から救援軍を朝鮮半島へ派遣していました。しかし、天智天皇2年(663年)8月、白村江の戦いで日本軍は壊滅。このため、日本は防衛に力を入れなくてはならなくなったのです。 |
| 【本文引用・参考】 | |
| 「新編日本古典文学全集4 日本書紀3 巻第二十三舒明天皇〜巻第三十持統天皇」 |
小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 /校注・訳者 小学館 発行 |
| 【参考】 | |
| 「目で見る太宰府市の文化財1 特別史跡 水城跡」 |
財団法人古都大宰府保存協会 発行 |
| 「大宰府史跡発掘調査30周年記念特別展 大宰府復元」 |
九州歴史資料館 編集・発行 |
| 「太宰府紀行」 | 森弘子 監修 (財)古都大宰府保存協会 編 |
| 太宰府市 公式HP | |
| 筑紫野市公式HP→歴史博物館「ふるさと館ちくしの」→シリーズちくしの散歩→85、国指定特別史跡基肄城跡 | |