源範頼
蛭子谷城跡
えびすたにじょうあと
| ●所在地 | :福岡県北九州市八幡西区本城(本城霊園内) |
| ●交通 | :市営バス・西鉄バス「千代ケ崎」下車 徒歩10分 |
| :JR「本城」駅下車 徒歩15分 |
| 源 範頼 (みなもとののりより) |
| ?〜1193年(建久4年)年8月17日? |
| 平安末期〜鎌倉時代初期の武将。 父は、源義朝。 母は、遠江池田宿の遊女。 義朝の第6子で頼朝の異母弟、義経の異母兄。 通称:蒲冠者。 妻は、安達盛長の娘。 遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿とも呼ばれる。九条兼実の日記『玉葉』によれば、幼いうちは藤原範季が養育したという 頼朝挙兵に馳せ参じ、頼朝の命令のもと、弟・義経とともに西国への遠征隊の総指揮官となった。 寿永4年=元暦2年(1185)3月24日、義経は平家軍と壇ノ浦で戦い、平家一門を滅ぼした。その後も範頼は九州に残留し戦後の経営に努め、同年文治元年(1185)10月に鎌倉に帰還する。 建久4年(1193)8月、頼朝から謀反の疑いをかけられ鎌倉から伊豆に流された。その後、殺されたのではないかと推測される。 |
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本城城<ほんじょうのしろ> (蛭子谷城<えびすたにじょう>跡 寿永2年(1183)安徳天皇を奉じて都落ちした平家一族は、太宰府に入った。しかし緒方惟義氏の攻撃を受けるという噂におびえ山鹿城に移った。 寿永4年(1185)平家追討の命を受け九州入りした源頼朝の弟 範頼は、本城の蛭子谷に陣をおいて、芦屋にいた平家方の原田種直と戦ったといわれる。 本城城は別名蛭子谷城ともいい、地元では一般に城山といわれている。 「筑前国風土記拾遺」には、「参河守範頼陣されし所」と記されている。 城跡から須恵器・青磁器、白磁器、捏鉢、鍛冶滓など12世紀後半の遺物が出土している。 なお本城霊園建設のため、城跡は消減し、古城の面影はみられない。 学園都市折尾開発会議 |
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「増補改訂 遠賀郡誌」 下巻(聚海書林 発行/遠賀郡誌後刊行会 編者)によると 大字本城の項に 当区の名義は故老の説に、三河守源範頼此の地に城を築きて本城となし、暫く滞留して香月山鹿等の国士と合戦ありし、故に此名ありといふ。 と記されています。 源範頼が城(本城)を築いたので、この地域を本城というのですね。 |
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源範頼は、壇ノ浦の戦いの後、平家方の追討のために、この本城城(蛭子谷城)に滞在したと伝えられています。 現在、城跡は本城霊園の中にあり、小高い丘(本丸跡)に蛭子神社の祠があるのみです。 霊園の背後には、城の要害として利用されていたであろう池が残っています。 合戦では、平家方の武士である香月秀則父子、山鹿秀遠連合軍に阻止され、平家は筑後以南に落ちのびることができたそうです。 |
| ・源範頼が平家追討を祈願した神社 | 八劔神社 |
| ・戦で傷ついた武士たちが傷の手当てのために湯治した跡 | 湯庵堂 |
| <参考> | |
| 「ブリタニカ国際大百科事典 | フランク・B・ギブニー 編集・発行 |
| 「平安時代史事典」CD-ROM | 角田文衞 監修/(財)古代学協会・古代学研究所 編 |
| 「折尾史跡めぐり」 | 折尾公民館史跡探訪の会 |
| 「本城小学校創立百周年記念誌 本城」 | 百周年記念事業実行委員会 編集 |
| 「折尾周辺の史跡巡り」 | 小田弘之 著 |
| <参考サイト> | |
| 『北九州まちかど探検隊』→「史跡や遺跡の探索」→「陣原・本城地区」 | |
| 『わいわい広場』→「風と歩く わがまち本城」 | |