感想ファイル


何でも見たもの感想ファイル。
芝居に映画にテレビに本に…。


時の物置


原作:永井愛
個人的に、年代物のお話というのは苦手感があった。
なぜと言われると自分でもよく分からないのだが、多分その時代を描かれることで敷居を感じてしまい、
今一つ親近感が持てず、話に入っていけないからかもしれない。
しかし、現代の劇作家としても有名な永井愛さんの本はやはりそう言われるだけあって面白く、そんな敷居
など全く感じさせずすんなりと入っていける、と言うか惹き込まれる話であった。
つまり、いつの時代であってもそこに生きている人々の生活は一緒だし、想いも一緒なのだという事なのだと思う。
あるいは、時代に左右される些細なことばかりを描くことは、人を描く事が大切であるという演劇に反すること。
だから、良いといわれる物はこうしていつまでも時代を感じさせずに残っていくのかもしれない。

今回は音響も凝っていた様に感じた。
客入れの時から、時代背景に合わせたシャボン玉ホリデーの音楽や当時のCMソングを使っており、見る前から客に
その下地を作るというか、そんな演出が見られた。
途中外国人の歌う、「上を向いて歩こう」が流れた時には“えっ!そりゃないんじゃないの?”とも思ったが、これは最後
まで観て理解した。
結局3時間の公演内に4・5曲の「上を向いて歩こう」が流れたのだ。
それも一つ一つ違う歌手による、アレンジの違う物。
そういう意味で一貫性のある演出。

「演技をするという事が一体どんなことなのか」
これが今一番の関心なのだが、それが必ずしもオーバーアクションで何かを見せることではない、という事を今回改めて感じた。
見ていて身振り手振り、表情がとにかく大きい役者が居り、それが非常に目に付いたのだ。
あるいは、大きな舞台ではそれぐらいでないときちんとした演技には見えないものなのかもしれない。
でも少なくとも、今回の会場では明らかにアレはオーバー過ぎであり、むしろうるさかった。
一方で、娘役をやった役者も動きに多少オーバーなきらいがあったが、それは鼻には付かないのだ。
何故かとその理由を考えてみると、それはそのキャラがしっかり出来ていて、キャラに合った動きだったから。
キャラクター上考えうる動きなので、見ている側もすんなり受け入れられるのだ。
しかし、これがきっと難しい所だと思うのだが、そのオーバーさが受け入れられるキャラクターだけに、繊細さを演じる
のが難しく、そこまでは描き出せていなかったように感じた。
彼女は劇中、自分を置いて離婚し出て行ってしまった母親を追い掛け、自分も女優になる!と言い出す場面があったのだが、
その苦悩というか、若いからすぐに駆け出すというか、そういったモヤモヤ感のような物が今一つ感じられなかった。
またそれを演じながら登場して来て、日常の雑事が目に付いてぱっと気持ちが切り替わるシーンもあったのだが、
そこもあまり切り変わったように感じられなかった。

登場人物の中で、これは初心者じゃないなぁと感じさせる役者が何名か居たのだが、どの人にも共通して感じたのが、
雰囲気があるという事。
そして前述にも通じることなのだが、決して大げさな演技で演技するという事をアピールしている訳ではなかった事、だ。
必要以上の大きな声を出さなくとも、雰囲気があれば演技はしっかりと伝わるものなのだ。
何故なら、そこで伝わるべきものはその役の“心”だから。
で、その雰囲気や巧く見える物とは一体なんなのだろうかと見ていたのだが、不意に思いついた当たり前のような答え、
「普通に見えること」。
何なのかと食い入る様に見ていたのだが、段々“これ、普段やっていることじゃないか。他の役者さんと比べても何かが特別
とかではなく、この人のは数段動きや表情が普通なんだ。”と気付いた。
普通が難しいんだ、その普通が。
勿論普段の生活通りにしていれば良いのかといえば、それもまた違うのだろう。

一つ発見だったのは、この本、実は以前にも当学校で公演をしたことがあり、その際利用した台本などが授業で少々
教材として扱われた事があったのだが、教材として使った場面が自分が想像したのとは違った雰囲気になっていたこと。
つまり字で見て想像していた物が、違う形で舞台として出来上がっていたのだ。
もっと劇中でも山場になるのかと思っていた場面が、それほどでもなく、程々な場面として過ぎていった。
あるいはそこまで演じきれていなかったと見るか。
いずれにしても、つまり台本をどうとるかによって演じられる内容が変わって来るし、当然ながら読めば読むほどに
そこに込められる物は深い物になってくるのであろう。
本の読みこみが大切という、普段言われていることが改めて感じられる一件であった。

今回の公演、同じ期の生徒の公演であったという事で、色々思う所があった。
数ヶ月先自分もああいう風にきちんと観られる物を提出できるのか、という事や、SD科という事で、私達とは授業数が少ない中での
作品作りに関してや。
いづれにしても、自分達の公演が徐々に近づいてきている事を意識せざるを得ない物であった。
とにかく自分の問題として、今のうちにマスターできる事はしておかなければならない。
発声法や、滑舌、基礎体力や普段の動きを意識することなど、心していかねばならない。
さて、自分が参加する時には、一体どうなるのか。
(2003.1.18.)




〜ネイティブ企画 第一回公演〜

大学の先輩が、現在フリーの役者として頑張っている。
私は今の学校に入る際、先輩に電話をした。
「なぜ、そんな不安定な生活をしてまでも、芝居をやりたいというのですか?」
そしたら、こう答えてくれました。
「芝居を通して、その役の人物の人生を生きられるから」
…私には難しかった。
そんな綺麗事では、理解できないと思った。
そう教えてくれた先輩の演技を、初めて観る事が出来ました。

〜かつて新潟に荻野久作という産婦人科医がいた。
大学で研究するだけが医学の道ではないと、あえて町医者の道を選んだ荻野…。
彼の世界的な大発見に協力してくれたのは、彼の妻であり、そして農家の嫁達であった…。

この題名、このテーマ。正直、ふざけた芝居なんだと思った(荻野久作がピンと来なかった為)。
企画公演だし、若い役者さんばかり出演するし。
見終わって、3時間。
感動した。
本当に、心から感動しました。
ストーリーだけではなく、先輩の言ったこと、そして現在学校で言われている事、色んな事がはっきり見えた気がしました。
初めて私の中で、今経験している事の幾つかが結びついたのです。
このお話は、登場人物の”気持ち”で成り立った芝居でした。
子供を産みたいと望んだ女性の想い。子供を作りすぎてしまう女性の想い。研究をする主人公の想い。
しかもそれらが、ただ自分の想いだけではないのだ。
自分を守ってくれる人への想いゆえに、子供をほしいと望む女性。
自分を愛して身篭ってくれた親への想い故に、自分も子供を産みたい、おろしたくはないと望む女性。
患者のことを想って研究を続ける荻野。
挙げきれないほどの想いにあふれた芝居。
ただストーリを観ているだけなのに、一つ一つの台詞に気持ち込められている事が十二分に感じられるのだ。
気持ちの結果、言葉が口から出てきているだけなのだ。
これこそ演劇の意義の一つなのではないかと思った。
人々の行動、人々の関係の中に生まれるストーリーは、人の気持ち故に作られる不思議なもの、それを伝えたいだけなんだ。
重要なのはストーリーなのではないんだ、と。

もちろん今回のお芝居、本が良いのは当然ある。
ストーリーは面白かったし、おそらく人の気持ちがよく映される本にもなっているのだろう。
でもそれ以上に、役者がその気持ちを伝えるのに十分に成功していたのだ。
年配女性役を演じた女優さん、とても上手かった。
本当にあんな小母さん、居そうだものな。
あれだけ役になりきるなんて、どんなにか難しく技術の要る事なんだろうと思う。
言葉遣いだけではない、立ち振舞いと醸し出す雰囲気。
あれだけの演技をするのであれば、それは当然役の人生を垣間見るに十分足る作業なのだと思う。
それは確かに、先輩の言った言葉に繋がるのだろう。
その役を生きる。

そしてまた、今現在自分がよく先生に言われること、どうして綺麗に読むことが間違いなのか。
それは、気持ちがこもって聞こえないから。
綺麗な朗読だけでは、本心の言葉には聞こえないのだ。
それは人の心を動かさないのだ。
そしてもう一つ、どうして恋愛気質の人が演技をするのに向いているのか。
それについても、一つの自分なりの答えが見つかった気がする。
人の行動は気持ちによって動かされているもので、その多くは誰かへの愛情から成り立っている。
愛情の何らかの現われに過ぎないのだ。
…だから人を愛することの出来る、よく愛している人はそれを表現することに長け、ひいては演技をするのにも向いているという事なのではないか。

もちろん色んな演劇があるわけで、色んな演劇鑑賞法もあるわけで。
今回見た演劇はその、たった一つ。
けれども、私にとってとても意義深い、大事な一舞台となった。
今まで役者のスター性ばかりに惹かれて芝居を観ていた私への、そしてこれから自分も演技をして行こうと思う私への、貴重な一舞台である。

(2002.6.30.)







「オテサーネク」
〜あらすじ〜
子供のいない夫婦が、木の切り株を子供として育てるというチェコの民話に題材をとったシュヴァンクマイエル長篇映画。

映画のチラシにはちょっと綺麗でおしゃれなものが多いので、私の部屋にはなぜか見てもいない映画のそういったチラシが壁に貼られている事がある。
この映画もその一つ。
なので今回オールナイト企画で映画を見ることになり、オテサーネクが入っているのを知った時、これはきちんと見なきゃと思った。
仮に他を見逃しても、これだけは気合を入れてきちんと見る、と。
ストーリは面白く、しっかり見られました。
…しかし、始めから非常にイライラした。
登場人物に、イライラ。
始めのうちは、自分の子供を切望するノイローゼ奥さんに、そして後半はその隣に住む家族の一人娘に。
大体、子供がほしい事を側から見ても分かるくらいに思い悩み、情緒不安定になるまでなんて、そんな女性大人としてバランス感覚足りない。
幻覚を見るほどに思い悩んでいるなんて、…子供とはそこまでして望むものなのか?
仮にそこまでのものであったとして、そこまで偏った愛で望まれてきた子供が、果たしてまともに育ててもらえるのだろうか。
そのことがまずは気にかかり、女性の思い悩みぶりにイライラした。
そして、そんな妻をコントロールできない夫。
そんな、バランスの取れない女なんか愛するなよ、と言いたい。
そんな夫の態度がまた、妻の甘えや分からず屋振りを助長させるのだ。
そういう意味では、あの女優さんの顔つき、演技は非常に良かった。
あの目でしたから見上げられて見つめられたら、そりゃあ気が狂ってる事の表現には十分だし、彼女の言い分も聞きたくもなってしまう。

そしてまた、隣の一人娘。
この子がホントに子供としては生意気で可愛らしさのかけらも無い。
それでも母は彼女を心から愛し、父に横暴な言われ方をされてもその夫を嗜め、一生懸命彼女の言葉に耳を傾け、
時には彼女を思って「この子に何かがあったら私は生きていけないわ」とまで口にするのだ。
それなのに彼女はそんな想いにも気づかず勝手なことをし、暴徒とかす隣家の子供へ生贄を選ぶ際自分の両親をも平気でエントリーさせる。
何考えてるんだ、と。
もっとこの状況を理性的に見極めて、こっそり自分の思いつきだけで動くなと腹立たしくなった。
…子供だから仕方なし、と言われればそうなのだが。
そして映画はまるで童話通りに話が進み、最後には童話の中でのヒーローであったキャベツ畑の見張り番よろしく、
管理人さんの登場で一件落着のように進みエンドを迎える。が、ここで騙されてはいけない。
童話の中で皆が助かったのだから、映画でもこのまま進んで気に食われてしまった人々が皆助かると思ったら、大間違い。
あの人々は助からない、なぜなら童話では皆飲みこまれただけだったけど、映画ストーリーでは人々は肉ごと食われてしまったのだから。
骨だけ食い残されたように。
それもあの小娘の所為かと思うと、憎たらしくて木以上に小娘への殺意を感じた。
しかし結局、そこまでの熱い何かを思わせながら最後まで見せてしまうあの映画は、やはり面白い、という事で。
おそらく監督の思うつぼなのだ。

(2002.6.29.)






「十二夜」〜asc第24回公演〜

会場に入ると、幕の降りた舞台の中央に木製の船が置いてあるのが見えた。
あんな所に置いて、幕が開いた時どかすのが大変じゃないか、どうするんだ、と思いながら開演を待っていた。
銀座みゆき館劇場。
私はこういった、どちらかと言うとあまり広くない劇場でお芝居を見るのは初めてであり、その広さを利用した様々な演出もまた、初めてのものばかりであった。
開演。
これもまたただ幕が開くのではない。
会場の入口がしまり、そこに入ってきた女性がおもむろに歌を歌い出す。
私は一番前列に居り、その女性のすぐ近くにいたので、まじまじとその様子を見ていたが、少しも震えることなく堂々と歌を歌っているその女性に見入ってしまった。
後でパンフレットを読み返し納得したのだが、歌劇団出身の女優さんであるという。
その役者の持つ特質を存分に活かして芝居を作り上げていく。
役者たるもの引出しを、しかも中途半端ではない引出しを多く持つに超した事は無いのだなぁと思いながらその様子を見ていた。

演劇を原作から読んでいるなんて、そう無いことである。
それで無くとも非常に読みにくい戯曲を、今回の「十二夜」は原作を知った上での観劇となった。
映画・TV等ではよく言われる事だが、原作とそれを元にした作品は共存しない。
どちらが先であっても、共存できない。
なぜなら、やはり人は先に目にした方の印象をもってその作品を捉えてしまうからである。
後から出てきた方の作品を見て、自分の想定してた人物と違う、なんか声がしっくりこないんだよね、とはよく聞く話である。
とは言え、戯曲はそういったものではない。
はじめから上演を目的とされて書かれた演劇の台本であるが故に、一概にそれは当てはまらない。
演出家がその作品をどう捕らえるかが一番重要であり、演出家が捉えたそのポイントをどう観客に伝えるのかが一番の大切になってくるのだ。
とは言うものの、正直驚いた。
私が読んでいたあの本が、こんな風に舞台化されるとは到底思わずにいたので、あまりの印象の違いに驚きました。
兄を亡くし、誓いを立てて喪に服す女性オリヴィアがあんなにも積極的にヴァイオラを追いかけ、ヴァイオラにつれなくされると身をよじらせたり可愛い声をあげるほどにコミカルな女性だったとは。
まずは、そんなオリヴィアの印象の違いに驚いた。
そしてマライア。原作本を読んだだけでは、悪知恵の効く嫌らしい中年女性かと思っていたが、演じられたマライアは決してそんな女性ではなかった。
頭の回転が速く、ちょっとばかりいたずら心に富んだかわいらしい女性。そんな女性に描かれていた。 

そしてまた舞台装置。
音楽、照明を変幻自在に使わなくとも、舞台の張られた2枚の幕だけであんなにも様々なことが出来るとは。
観ていてとても面白かった。
ある時は、ヴァイオラとオリヴィアの追いかけっこを演出する壁となり、またある時はマルヴォーリオを陥れる画策を裏でする際の垣根。そしてある時はマルヴォーリオが捕らえられた牢屋。
何も無い舞台を逆に有効利用した演出であり、そういったものは私は初めてだったので、非常に楽しめた。
先に書いたように、原作とそれを元にした作品とは共存しない。
なぜならば人は始めに目にした方の印象に捉えられてしまうから、と書いたが、思いもよらない心地良い裏切りというものもある訳で、今回の「十二夜」は、全くそんな感想を持つお芝居となった。
同じ本を読んでも私の想像力ではあそこまでの想像は及ばなかった。
けれどもあんなにも色が付けられるという事に非常に驚いた。

そして最後に一番印象に残ったシーン。
セバスチャンにやられ怪我をしたトービーに、アンドルーが心配をして声をかけたシーン。
その後のトービーの台詞。「ばかが介抱する?ばか言うな…」なぜあの台詞を、あの演出でトービーに口にさせたのか?まるで素の発声でアンドルーを心から馬鹿にし、軽蔑しているかのように口にさせていた。
そしてそれを聞いたアンドルーの、急に言われた相手からの侮蔑の言葉に拍子抜けし、やり場の無い表情。
あそこだけが、やけに毒味として私の中に残ってしまった。
本の中ではあそこはそこまで重きを置かれた場面ではなかったはずなのに。
むしろ、演出家の中であそこが一番何らかの意味をもったことだったのだろうと、逆に考えさせられてしまう。
あのシーンのおかげで、マルヴォーリオよりも、この作品ではアンドルーが可哀相な人物であるとまで印象付けられてしまった。
是非機会があれば、あの演出の理由を聞いてみたいものである。

(2002.6.15.)






「ティファニーで朝食を」
2カ国語放送にて見ました。
観たのが初めてではない筈なのにすっかりストーリを忘れており、新たな気持ちで全編を見直す事に。
…こんなストーリだったっけ?
あの映画、非常に人気高いはずなのに。
オードリーペップバーンのかわいらしさには敬服でしたが、映画としては個人的にはあまり好みではなかった。
おそらくストーリーに感情移入が出来なかったのだと思う。
どうしてもやはり私はストーリーで作品を見てしまうなぁ。
あの映画を観て惹かれるというのは、オードリー演じるところの女性の生き方に羨ましさを感じるという事なのだろうか?
そうか、やはり世の中にはあんな自由奔放な女性、型破りで何ものにも属さないことを望む人々が多いという事なのですね。
愛する男に、店で万引きをさせる女性。
熱い気持ちが不意に込み上げキスを交わしたはずなのに、翌日には知らん振りをする女性。
子悪魔的魅力の人物を描く時によく出てくるけれど、そんな人間、私は人として惹かれないなぁ…。
「野生の動物を飼うのがいけないのよ…」急にやけに詩的な台詞が出てきたりなんかして。
やはりそこが主題なのか?
そして最後には、やはり男性を追ってタクシーを飛び出す主人公。
男性に抱きつき、分かり易く愛を獲得する訳ではないけれど、…自由奔放な女性もやはり愛されることが一番なのだ、と言いたいのだろうか。

(2002.6.22.)