なごやの鎌倉街道をあるく!!
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現地学習 第1回(2013年11月2日)
萱津の街をあるく
善通山 宝満寺<あま市甚目寺西今宿>
旧は金山荒神社の主宰で、境内一反三畝二十二歩が村除となっている。
その始め、兄立坊と称する僧が住んでいて、今の津島市から円蔵坊の譲を受けて寺号とした。
萱津妙勝寺27世宝満院日繁により建立、寺を善通山宝満寺と称した。時に享保9年(1724)であった。
開山日繁聖人は享保14年(1729)8月7日に入寂された。
金山社<あま市甚目寺西今宿>
斯波氏が清洲に築城した頃、つまり600年程以前、斯波氏の武器を製作する鍛冶工を住まわせ
神社を勧請したものと思われる。古老の云い伝えによると、以前の神体は金属製の神像であったが、
焼失したので更に南宮神社より勧請したとのことである。
三百何十年まえの寛文覚書によると、内荒神、外荒神とに分かれていたが、藩政時代の中頃いまの地に
合併されたものであるという。
萱津神社<あま市甚目寺上萱津>
法界橋を過ぎた古道は、直ぐに萱津神社の前に到る。神社は堤防道路の下にある。
そして、古道は、ここから堤防下の道となる。
御祭神は、鹿屋野比売(かやぬひめ)で、漬物発祥の地、漬物祖神、良縁の神として崇敬を集めている。
神社付近の森は「阿波手の杜」と呼ばれ、大和武尊と宮簀媛命(みやずひめのみこと)がここで再会できなかったことから、この森を「不遇の杜(阿波手杜)と呼ばれるようになったという。
萱津社は全国唯一の漬物の神様として知られ、毎年8月21日に「香の物祭(漬物祭)」が行われ、全国から大勢の漬物業者が参拝し、賑わっている。
萱津社は、野の神カヤヌヒメを祭神とし、人々は野菜と塩をお供えしていたところ、ほどよい塩漬物が誕生したという。その後、当地を訪れたヤマトタケルが「藪に神物(こうもの)」と称え、それが漬物をあらわす「香の物」となったという。
日蓮宗長正山 妙勝寺<あま市甚目寺上萱津>
弘法二年(1262)、日蓮の弟子、日妙の創建。尾張国日蓮宗濫觴の名刹で、かつて末寺30余坊を有していた。
時宗横密山 光明寺<あま市甚目寺中萱津>
寺伝創建は弘安五年(1282)に一遍上人の直弟子遊行二世他阿真教を開基とする。その後、72僧寮が立ち並び萱津道場として栄えた。
鐘楼門は寺記によれば、享保八年(1723)萱津屋武兵衛の寄付で建立された。
豊臣秀吉が8歳から10歳まで預けられたという。
日蓮宗長久山 実成寺<あま市甚目寺中萱津>
実成寺の辺りは、かつてこの辺りが東西南北の4つの宿からなる萱津宿と言われていた頃、中心となっていた南宿があった所である。
そのためかどうか分からないが、この辺りが海部郡の鎌倉街道のうちでは、もっとも鎌倉街道らしい道が続いている。
元応元年(1319)創建とされるが、弘安六年(1283)9月26日付け寺領寄進の古地図(富田庄古地図)に明記されており、元応元年より古くなるともいわれる。
本堂は織田敏秀(織田信長曾祖父)が改修したと伝わる。また山門(四脚門本瓦葺)は福島正則寄進と伝わる。
月之宮神社<あま市甚目寺下萱津>
今は、江戸時代に建設された新川堤防萱津橋際にある。それ以前は、庄内川西岸の船着場とされている。
町史には、古老の口碑によると大水の出た時に漂着した神様であるので、「着きの宮」といっていたのが月の宮となったという。
しかし本当は、「堤(つつみ)の宮」の訛ったものであるという説もあり、理にかなっているとしている。そして、「築きの神」つまり堤防を守る神との解釈もある。
現地学習 第2回(2013年11月9日)
萱津から中村へ
明神社<東宿町>
鎌倉時代に萱津の東宿の鎮守として、熱田神宮より日本武尊を勧請したといわれている。別名「花の宮」ともいわれていた。
東宿は鎌倉街道の宿駅で賑わいを極め、壮麗な神社であったと思われる。
境内の所在地は字名を宿跡と呼ばれていた。
女郎墓<宿跡町>
明神社の前の道を西へ進み、東宿3号橋を渡って行くと右側に墓地がある。村絵図に「女郎墓七畝拾歩除地」と書いてある。
「尾張地名考」に「東宿に戌亥の方に南北に細長き墓原あり、石佛おほし村民はこれを女郎墓と呼び、むかし娼妓ともを埋葬たるより呼とぞ、今は東宿一切の墓所となる・・・」とある。
地元の人たちは女郎墓と書いて、なぜか「じょろばこ」と呼んだ。
豊国神社<中村町字木下屋敷>
豊太閤(豊臣秀吉)を祀る。明治18年(1885)8月、豊太閤ゆかりの地に中村公園が造成され、時の県令・国貞簾平の尽力により創祀された。以来数次にわたる拡張を経て今日に至っている。
正賢寺<下中村町>
本尊は阿弥陀如来立像。広い境内には静寂の気が漂い、参道の松の古木、周辺の昔ながらの
民家のたたずまいなどが、時の流れを忘れさせる。
日の宮神社<日ノ宮町>
豊太閤誕生にゆかりの深い古祠。もと日吉権現と称した。秀吉の母が男子を授かるよう祈念して日参したところ、ある日のこと日輪が懐に入る夢を見て受胎、天文5年(1536)元旦(1月1日)に秀吉を出産したという。
秀吉の幼名・日吉丸は、この日吉権現にちなんだものといわれる。
下中八幡宮<押木田町>
「下中八幡宮栞」によれば、その創立は保元元年(1156)、鎮西八郎爲朝の手にかかるものとされており、歴史は古い。加藤清正勧請の中村の八幡三社の1つであり、明治初期まではお鍬祭が行われていた。
薬師寺<中村中町>
本尊薬師如来像は、尼僧一代一会の開扉のほかは秘伝とされているが、古書によれば、小田原攻めの帰路に豊臣秀吉が立ち寄ってこの薬師仏を拝んだとも伝えている。
また明治6年(1873)、中村小学校の前身「小学銀杏学校」が置かれたところで、当時の手洗い鉢がいまも残されている。
西光寺<中村中町>
古文書によれば、豊臣秀吉の母の菩提寺であったという。もと清洲にあったものを移したといわれるが、いつのころかは明らかではない。
また笹島焼元祖・牧朴斎の墓がこの寺にある。笹島焼は現・名古屋駅構内の地で焼かれた楽焼の一種で、酒器が多く、絵のほか川柳・落首の類を書いた。本尊は阿弥陀如来立像。
現地学習 第3回(2013年11月16日)
米野から古渡へ
金山神社<長戸井町>
祭神金山毘古。例祭10月17日・18日(今は名古屋祭に協賛して行う)。
石工たちが祀った神といわれているが、創建年月は不詳。笈瀬川の前身、古川は中野川とも呼ばれ、名古屋城築城の際に石を運搬した川と考えられる。
大正4年(1915)の地図には円福寺東側の道を南へ関西線をこえた南に金山神社を図示している。現地には昭和2年に移転した。境内の社務所前に笈瀬川出土の名古屋城築城の残石という石2個がある。
向野橋<長戸井町>
下りの新幹線が名古屋駅に入る少し前、車窓から西の方に大きな照明鉄塔を載せた鉄橋のシルエットが望める。まるで針金細工のように見えるこの橋が向野(こうや)跨線橋である。名古屋市内でおそらく最も古い橋である。
昭和5年(1930)開通なのにおかしいではないか、と思われるかもしれないが、橋桁はよそから持ってきたもので、明治19年(1899)米国製なのである。
保津川下りの邪魔にならないよう配慮して280フィート(85.3メートル)という当時日本一の長さを採用した。当時、官設鉄道の桁の最大は208フィート(63.4メートル)であったから、かなり思い切った長さであった。大鉄橋の出現に保津川下りの観光客は驚いたに違いない。
神明社<愛知町>
社司は熱田社の長岡数太夫。祭神は天照大神、末社に熊野社がある。現在は合殿。境内には鳥居をくぐった左側に、東面して、昭和3年建立の安井徳左ヱ門の顕彰碑がある。
安井徳左ヱ門は文久年間(1861~64)にはこのあたりの豪農で、八石余の石高を持っていたほどだ。彼はこのあたりの水害の難をどうかして除こうとして、私財を投じ、水路を開鑿した。そのためか、その後は水害を受けることが少なくなったとのことだ。人は、この川を徳佐川、この川に架した橋を徳佐橋と呼んで彼の徳を偲んだ。現在、その橋の石柱が境内に保存されている。
小栗橋<広川町>
桓武天皇の曾孫高望王の7代の子孫、平重家は、久寿2年(1155)に小栗御厨の保司となって小栗山に築城し、小栗氏と称した。
応永30年(1423)8月2日、14代小栗城主小栗孫五郎満重の時、鎌倉公方足利持氏との戦いに敗れ、小栗城は落城。落城の際、小栗満重は、子の助重と十勇家臣と共に、三河に住む一族小栗貞重らを頼って落ち延びた。
その途中、相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で歓待宴中に毒を盛られ、家臣十名は毒殺されて上野が原(藤沢市)に捨てられた。これらの家臣の遺骸は、清浄光寺八世(遊行十四世)他阿太空上人が手厚く葬った。
照手姫の助けでこの大難を逃れた小栗助重は、熊野本宮湯ノ峰温泉(和歌山県牟婁郡本宮町)に浴して快復し、父満重の死(応永33年3月16日)後、十余年を経た嘉吉元年(1441)、結城合戦で幕府軍の将として活躍し、その論功によって再び小栗領に復した。
闇森(くらがりのもり)八幡社<正木町>
中央に応神天王、左仁徳天皇、右神功皇后を奉祀してある。その創祀の年は明らかではないが、大永元年11月(1521)鶴見道観等が造営したという。俗に闇森八幡といっている。
鬼頭(尾頭)景義は摂社の尾頭神社を崇敬するとともにこの本社をも崇敬した鬼頭家の氏神としても崇敬した。すでに明治40年(1907)10月26日には村社八幡社として指定されている。
山王稲荷<古渡町>
山王稲荷は通称、正しくは稲荷神社。古渡稲荷とも呼んだ。もと愛知郡古渡村、今の中区古渡町二丁目西側に当たる。通称の山王とは境内摂社に、日吉神社あるよりである。
初め、藩主吉通卿(四代目)の産度神をして、丹羽郡石枕村より造営遷座正徳3年4月25日に成った。祭神は倉稲魂命、伊荘冊尊、猿田彦命、住吉四大神、今は之に藩主義直、二代光友、三代鋼誠の三卿を合祀し、現在は村社である。
現在の例祭は10月8日・9日の両日、市より供進使の参向ある外、徳川家より代拝ありとは、さもあるべき事である。江戸時代は、境内広く、三千坪以上を数えた。
現地学習 第4回(2013年11月23日)
古渡から御器所へ
尾陽神社<昭和区御器所>
尾張藩初代藩主の徳川義直(家康の第9子)と14代藩主徳川慶勝を祀る神社である。
大正11年に名古屋開府300年を記念して創立され、昭和24年に天照大神を主祭神としている。
この地はもと、土豪佐久間氏の居城の址といわれている。なお、境内には稲荷社がある。
神宮寺<昭和区御器所>
9世紀、仁明天皇(834~850)の勅願によって、熱田神宮別当補佐職が、熱田神宮良位除け鎮守大宮の神秘の修法祈願所として、医王山神宮寺をたてた。
それ以前、嵯峨天皇(810~822)の勅願があり、常盤山神宮寺と呼ばれた時期もあった。本尊は薬師仏で御器所村最古の寺である。
御器所八幡宮<昭和区御器所>
祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)・5男3女神・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・弥豆波能女命(みずはのめのみこと)・菊里姫命(くくりひめのみこと)。境内に天神社・稲荷社・白龍社がある。
嘉吉元年(1441)御器所西城主佐久間美作守(みまさかのかみ)家勝が、領内の総鎮守・居城鎮護の大神として、医王山神宮寺の西にある八所大明神を修造したと伝えられるが、創建は不明である。
また永禄7年(1564)佐久間家盛・信盛らによって修復されている。万治2年(1659)になって八幡宮と改称された。
龍福寺<昭和区滝子町>
真言宗。元禄2年(1689)、興正寺開基天端和尚の生母、普照尼の草創。
尾張三弘法、熱田三弘法法等三弘法の札所が名古屋市を中心として愛知県下に多くあって参拝者で賑わっているが、これらの三弘法の元祖といわれる古い札所であり、昔日は香煙の絶えたことがない程であったという。名古屋二一大師霊場の一つ。
なお、この三弘法の本尊は柳の木一本より三軆を山伏がつくったといわれる。尾張藩家老津田氏の祈願所でもあった。
現地学習 第5回(2013年11月30日)
高田から井戸田へ
盛屋寺<瑞穂区太田町>
天正2年(1574)に虎岩賢龍大和尚により開創され、以来、聖観世音菩薩を本尊としている。
薬師堂・観音堂・鎮守の社を創建して日待ち、月待ち、庚申待ちなど当時の信仰の寺として名を残している。また、門前左側には2体の青面金剛の石像がある。
富士八幡神社<瑞穂区雁道町>
鎌倉期に宇佐八幡宮の分霊を、さらに冨士浅間神社の分霊をそれぞれ勧請して高田城の鬼門と思われるところに祭られたのが創始と伝えられる。
その後、文政9年(1826)に現在地に合祀されたという。大正の初期までは夏祭りに男獅子が奉納されていた。
蛇塚と直来神社<瑞穂区直来町>
木曽義仲は、義経軍との宇治勢多の戦いを前に女たちを木曽へ都落ちさせた。落ちのびる途中このあたりで「かつら姫」は、できものがもとで亡くなり、この地に葬られた。
(女達がこのあたりを通ったのは、高田四郎重家、泉次郎重忠、葦敷太郎重澄ら尾張源氏の縁者を頼ったものと思われる。)
その後、姫の墓に植えられた桂の根元にある小石で、できものをなでると治るという信仰が芽ばえ、おできの神様としてあがめられるようになったという。
田光八幡社<瑞穂区大喜新町>
クスノキ、ムクノキが立ち並び閑静なたたずまいをみせるこの神社は、明治31年(1898)の竣工。仁徳天皇、応神天皇などをまつる。
境内の中でひときわ大きく樹高25m、幹回り7mのクスノキは別宮白竜大神の神体となっており弘法大師手植えと伝えられている。
また境内には夫婦円満の木とされる、ムクノキとエノキの和合の木もある。
増益山 大喜寺<瑞穂区大喜町>
増益山と号し、真言宗豊山派で高野山弥勒院に属する。創建は正保元年(1644)と伝えられる。本尊の大日如来は熱田神宮本地仏とされる秘仏。
境内に安置される地蔵座像石仏は、もと鎌倉街道沿いの寺山地蔵塚にあったと伝えられ扁平な花崗岩の中央に地蔵菩薩の座像を彫り、光背を彫りくぼめてある。鎌倉時代の石仏としては市内唯一。同じく境内には青面金剛像の庚申塔があるが年紀は明らかでない。
津賀田神社<瑞穂区津賀田町>
古木がうっそうと繁り荘厳な雰囲気のこの社は、仁徳天皇を祭神に天照大神を配祀する。若宮八幡あるいは井戸田八幡とも称され、神社は古墳の上に建てたと伝えられる。
このあたりは松原が長く続き長森ともよばれ『本国神名帳』には従三位津賀田天神と呼称されたとある。
竜泉寺と亀井水<瑞穂区井戸田町>
行基の開山とも伝えられ、曹洞宗、熱田円通寺の末寺。本尊薬師如来は聖徳太子作と伝えられる。源頼朝の誕生地であるという説があり、表門脇の亀井水は、頼朝が産湯の水に使ったといわれている。
また境内には昭和58年(1983)まで残っていた大黒塚の塚上にあった大黒石(原始五輪塔という説もある。)という古石が保存されている。
安楽寺<と為麿史跡<瑞穂区井戸田町>
長岡為麿をまつる。長岡為麿は元禄期(1688~)熱田祠官といわれ彼が老後職を辞して閑居したのがこの地である。彼が唱えだした彼一流の神道は、民衆の信仰を得て大いに流行したという。
現地学習 第6回(2013年12月7日)
高田から井戸田へ
白毫寺<南区岩戸町>
白毫寺は平安時代中期に開山し、元亀2年(1571)桂岩昌久和尚によって創建されました。
鎌倉街道(中の道)は白毫寺→村上社→古鳴海→二村山の道を通り、当時白毫寺の下に船着場に至ったといわれています。昔、このあたりは、あゆち潟、知多の浦を望む景勝の地であって、万葉歌人などが歌を詠んだところです。
芭蕉句碑・年魚市潟景勝碑・万葉歌碑・黒田清綱歌碑などが境内にあります。この場所は古来松巨島の北西部に位置し、高台地の下は「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれていました。
八幡社<南区呼続町>
八幡社の祭神は応神天皇で、『尾張徇行記』には「八幡祠境内3反7畝御除地…東宝寺ノ支配」と、また『尾張志』には「大地欠という地にあり」と書かれている。
境内には桜田貝塚碑、桜田勝景の碑、悠紀殿御屏風歌碑、棒術碑、万葉歌碑、整地記念碑など各種の碑があります。
桜田貝塚<南区呼続町>
八幡社の入り口南側に桜田貝塚の碑があります。昭和59年(1984)に八幡社保存会の手によって建立されました。
桜田貝塚は、弥生後期に掘られた濠の中に形成されたもので、貝のほか魚骨、魚形土器などが出土し弥生時代の漁の様子がわかります。出土品の「魚形土器」は全国的にも珍しいもので市指定文化財になっています。
境内の西側には高市連黒人の万葉歌碑が昭和60年(1985)に八幡社保存会によって建てられました。
村上社<南区楠町>
標高約14mの場所に村上社があり、境内には幹周り約11m、樹高約20mにおよぶ巨大なクスノキがあります。
樹齢約千年といわれ、昭和62年(1987)名古屋市の天然記念物に指定されました。この木は、鎌倉時代、野並と桜の地を結ぶ、船人の目印にもなっていたと伝えられています。
また、『万葉集』高市連黒人の歌「櫻田へ たづなきわたる あゆちがた 志ほひにけらし たづなきわたる」と刻まれた碑が建てられています。
こんな民話が残されています。「村上社の楠に大蛇が住んでいて近在を暴れまわり、住民が困っていたのを見かね、鳴海の蛤地蔵(如意寺)さんが蛤を投げて大蛇の目をつぶし、湿地に生えていた片葉の葦で矢を作り退治しました。その大蛇の尾が北尾(桜小学校)まで達しました。」このいい伝えから土地を大蛇(大地)掛と名づけられたといわれています。
笠寺観音<南区笠寺町>
東光院<南区笠寺町>
武蔵が宿坊とした東光院は、笠覆寺十二坊のひとつで、武蔵にまつわる遺品三点(自筆の書・自作木刀・肖像画)が、寺宝として残されています。 剣の達人・宮本武蔵の足跡をたどると尾張城下、現在の南区に滞在していたこともあるようです。
南区笠寺にある東光院は、武蔵が宿坊にしたと伝えられており、笠覆寺(笠寺観音)には、武蔵の弟子によって建立された顕彰碑があります。
宮本武蔵が尾張を訪れた時期は、巌流島の決闘から10年以上が過ぎた寛永7年(1630)以降だと言われており、滞在期間は、数ヶ月とも数年とも言われています。
現地学習 第7回(2013年12月15日)
野並・古鳴海
八剣社<天白区野並>
祭神は、日本武尊、天照大神のほか7祭神を併祀しています。八剣社は、野並村が旧熱田大神宮大宮司であった千秋家の領地であった関係から熱田神宮にある八剣社の分神として当地に祀ったのがその始まりです。野並道はここで終点ですが、八剣社北側に鎌倉街道が残っています。
桂林寺<緑区鳴海町>
桂林寺は昔、薬師堂といい、本尊は薬師如来像です。寺伝によれば宝物の薬師如来像は、福原遷都をした治承4年(1180)の工事の際、平清盛公から報奨として賜ったものといわれています。
八幡神社<緑区鳴海町>
上野山に鎮座する八幡社の旧名は神明社で、室町時代以前の創建であると思われます。明治42年(1909)に八幡社を合祀し、神明社は無格社であったため、社名を八幡社と改称しました。 立札に「当神社は、鳴海本貫の古邑であり、古代鎌倉街道が通じていた歴史をもつ、古鳴海地区の鎮守である。明治の神社合祀令により、上ノ山神明社鎮座地に明治42年小森地区(現在の県営古鳴海住宅)に坐ました八幡社を遷座合祀し、以後八幡社と称している。尚合祀するまで、天白地区(現在の環境事業所鳴海工場北の天白川添地)に神供田があり、中央には応永年間(1394~1427)まで奈留美の松と唱われた大松(神木)があったと伝えられている。」と記されています。
赤塚古墳<緑区赤塚>
6世紀頃のもので円墳(玄室は約3m×2m、羨道は約3m×1.7m)。昭和5年に発掘され、現在基底石の一部が残っている。
大塚古墳<緑区赤塚>
6世紀頃のもので円墳(横穴式)。赤塚古墳より大きく、玄室が二室ある。昭和5年、赤塚古墳とともに調査され、人骨などが出土した。
現地学習 第8回(2013年12月21日)
鳴海から二村山へ
庚申堂<緑区鳴海町>
お堂の前の手水鉢には「天保十二年丑三月」と刻まれています。
この道は白土道の一部でもあり、室町から江戸時代にかけての鎌倉街道の道筋だともいわれています。
浄蓮寺<緑区相原郷>
浄蓮寺は『尾張志』の浄土真宗東派の条に、「相原村にありて本山直参なり。天正3年僧慶念創建す。もとは高田宗なりしを、享保18年牛四月京都西本願寺末となり、元文3年午十一月高田宗に帰宗し又寛延元年辰十月東派となる」とある。
永禄3年の桶廻間合戦は、当地方が国史に登場する唯一の事件であろう。それだけに後世にいろいろな影響を残した。前哨戦は早くからあり、天文9年の2月9日に、岡崎城主松平広忠は尾張を侵そうとして鳴海に陣し、所在に放火したし、天文17年には、今川義元が野々山新平衛政兼に命じ、織田信秀の属城の大高城を攻めている。
諏訪神社<緑区鳴子町>
諏訪神社は平安時代の創建と伝え、成海神社と勢力を競っていたが、足利時代に係争があり、足利氏族の地頭職本田氏が相原郷を支配してより諏訪神社の勢力は急速に衰えた。
なごや中村まち歩きの会