自己紹介です
| 名前 |
上秋津遼 |
もうこんなに若くはないけどね 小じわにシミ、ソバカスを加えると ちょっと似てくるかな |
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| 職業 | ジャーナリスト | ||||||||||
| 某放送局のアナウンサーが出発点 フリーになってからは、テレビ・ラジオの番組・司会・CMなどに出演 ラジオのニュースジョッキーをきっかけに、ニュース報道にシフトする (吉本・松竹などお笑いタレントさんとの番組出演はこれ以降やってないです) テレビ報道解説委員の講演原稿を書くなど、ニュースの勉強をする 病気で全ての仕事をやめる |
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| 経歴 |
阪神大震災にあう 被災地のラジオ局から「修羅場でしゃべれる人」との依頼で、倒壊して使用禁止と認定されたスタジオ内で、震災報道にかかわる 放送内容は、聴取者からよせられた安否情報、ライフラインの紹介(水、ガス、電気、救援物資)、大学などからの告知(期末テスト、入試などが迫っていた時期)、病気の方への薬や治療の告知(人工透析、心臓のペースメーカー)等、今までのアナウンサー経験でもなかった告知が多かった CMタイムでふと我にかえった時に大きな余震の揺れがあり、もしここで死んだらと、死の恐怖感が心をよぎった一瞬を、今も鮮明に覚えている 「市民救援基金」のボランティア活動を続ける ボランティアグループの支援と震災レポートの両面で忙しく被災地を走り回っているうちに、病気も回復したようで、再発の可能性もなくなったようだ 2年間の被災地取材記録があります 興味のある方はどうぞご覧ください 被災地や仮設住宅に、大勢のテレビクルーが被災者を取り囲み、ライトをたいてのテレビ取材に違和感を覚える しかし、一方で、もし病気療養中でなかったら、スタッフの一員として私も同じように取材していたのだろうと思うと、被災者達の言うように彼らを責める気にはなれなかった 又、大手新聞社を止めフリーのジャーナリストとしてコソボへ取材にいく用意をしていた東京在住のAさんは、コソボ行きを延期し、神戸にやってきて長田区でボランティアを始めた ここへ、全国からマスコミが取材にやってきたので、混乱する被災地の中で、Aさんは、いつしか取材の応対を担当する羽目になった Aさんが、実感をこめてこう言った。『生まれて始めて取材される側になって、分かったことがある。それは所属する会社には関係なく、ジャーナリストは個人の資質によるところが大きい』と。 私自身の体験とAさんの実感をあわせて考えた時、アメリカで活躍しているビデオジャーナリストの事をテレビ局の先輩から聞く。それは、ニュースの企画、撮影、編集までを一人で行い、内容に責任をもって報道にあたる人々だということ。 カメラ、マイク、編集機などの機材をそろえ、ビデオジャーナリストにチャレンジすることにした。今までは、カメラマンが撮影してくれたし、マイクを持つだけでよかったのだけれど。テレビ報道局長、デスクなどカメラマン経験者にカメラ撮影の手ほどきを受ける 放送局に就職したいと熱望する若者に、ジャーナリストの個人レッスンを行う。その二人は、それぞれの故郷である仙台と広島で、報道カメラマンと報道ディレクターとして、現在活躍中。一人は、金沢に転勤になったと連絡をもらった。 地方局(北海道、青森、秋田、岐阜、愛媛、長崎、鹿児島など)にニュースを配信する 現在に至る |
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