先月、八月二十一日、私の姉に子供ができまして、私もとうとう叔父さんになってしまいました。そこで今月は、それにちなみまして、子ほめをお届けしたいと思います。生まれたての赤ちゃんがでてきて、おめでたいことなのではありますが、話の結末の方はねえ…。このネタ、実は何十年か前に学校の国語の教科書に載ったというので、随分と話題になり、その分、話自体を御存知の方も多いかとも思います。

 まず、主人公の喜六が甚兵衛はんとこの家に上がりこんでくるという、いかにもオーソドックスなところから始まります。ある人に、甚兵衛はんとこにタダの酒があると聞いてやってきたのですが、それが大間違い。兵庫の灘に親類があり、そこから樽がついたので、その“灘”と“タダ”を聞き間違えたとのこと。“どっちでもええから一杯おごってくれ”と喜六は言いますが、逆に、“人に酒の一杯もおごってもらおうと思うと、べんちゃらの一つもしなさい”と甚兵衛さんに言い返されます。べんちゃら、ちょっとしたウソでもいいといわれ、“それなら、わたい、奈良の大仏っつぁんと兄弟や言うたろか”と言いますが、このギャグ、なかなか笑えますな。私も普段の会話の中で、たまに使っています。そんなこんなで、喜六は甚兵衛はんに、どういうふうにほめるかを教えてもらいます。

 久しぶりに会った人に、“お久しぶりでございます。長らくお目にかかりませんでしたが、どちらへ。”と聞いて、“下(しも、九州あたり)へ商売用で”などとおっしゃったら、“どうりで色が黒うおなりあそばして。男は色の白いのより、ちょっと黒い方が苦みがはしってようございます。そうなると、あとは大小のお金儲け、ようございますなあ。時にあんさん、歳はお幾つで。”と聞いて、“四十五”てなことをおっしゃると、“四十五、とはお若う見える、どう見ても厄そこそこ。”と、歳を二つ・三つ若く言うと、天ぷらで一杯とでも、おごってもらえると教えてもらいます。逆に、子供は、“ぼんぼん、かわいいなあ。いくつ。”“九つ、いや、どう見ても十一か十二かいなあと思いました。”と、歳を二つか三つ足して言うと、親が喜んでおごってくれると言われます。それでは、生まれた手の赤ちゃんは?“よぉ、こら、お宅のおぼんさんでござりますか。ようお肥えあそばして、福々(ふくぶく)しい。額の広いところなんか、亡くなったおじいさんに似て長命(ちょうめい)の相がござります。栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)よりかんばし、蛇(じゃ)は寸(すん)にしてその気をあらわす。私もこういうお子さんに、あ〜あ、あやかりたい、あやかりたい”となりますが、なかなか憶えられませんねんな、これが。栴檀は〜、蛇は〜、ということわざは、大成する人は、子供の頃からどこか違っているという意味です。つまり、香木にもされる、香り高い栴檀の木は、既にその双葉の芽が出た頃から香りを発している、蛇は一寸ぐらいの小さいときから、既にその蛇としての気を持っているということですわ。

 これだけ教えてもらた喜六が、まず道へ出て、向こうから来る人に、“長らくお目にかかりませんが”“いやあ、どちらはんでしたかいなあ。”。つまり、知らん人に声をかけてしまいます。ちょっと笑いますな。次に来るのが、伊勢屋の番頭はん。“お久しぶり”と言うと、“昨日、風呂で会うた”と言われ、“色が黒いなあ、黒いの黒ないの、どっか病気ちゃうか”と言ってしまう有様。最後に歳は四十と言われ、四十五しか聞いてないので、サイナラして別れてしまいます。

 そこで思いついたのが、同じ長屋の竹やん。今朝、子供が生まれたとのことで、祝いに百円出したのを思い出して、竹やんとこの子供をほめて、元を取り返してやろうと、竹やんとこにやってきます。布団に寝ているのを見ると、生まれたての割には、しわが多く、死にかけの、ああ、これはおじやん、子供は奥の間で、嫁はんのおさきさんの隣に寝ていました。ここも、ちょっと笑いますな。なんぼなんでも、子供とおじやんて、ねえ…。しかし、この笑わし所の間も、なかなか難しいですわな。子供を見るなり、“ああ、市松(いちま)人形みたいやな”と言いますが、これは親にとってはうれしい言葉ですな。それもそやけど、最近、市松人形も知らない人が増えてるのではないでしょうか。しかも、“いちまつ”と言わずに、“いちま”て、古い言い方でっせ。しかし、この市松人形に似ている根拠は、赤ん坊のお腹を押したら、キューキュー泣くからだということ。あきれて、ものもよう言いませんな。さて、ここから扇の一本も出して、子ほめの始まりです。“福々しい”が“福助はん”、“亡くなったおじいさんに似て…”て、おじいさんはまだ生きてはります。“栴檀はグリグリで固い、固い。蛇は一寸にして長おます。私もこういうお子さんに、あ〜あ、蚊帳(かや)つりたい、首つりたい。”と、無茶苦茶になってしまいます。しかし、この最後の“蚊帳つりたい、首つりたい”、いつ聞いても笑えますな。ここでも、まだ一杯飲ましてもらえないので、奥の手を出します。“竹やん、この子、いくつや。”“何、今朝生まれたとこ、一つやがな。”“一つ!!!どう見ても、タダとしか見えん。”と、これがサゲになります。昔は、数え年で、生まれたところで一歳なので、一つより下、つまり0歳はないので、“タダとしか見えん”と言ったのであります。しかし、現在は満年齢が一般に使われていますので、“何、今朝!!!どう見ても、あさってぐらい”と、0歳は0歳でも今朝より歳が一日でも早い、あさって生まれたということでサゲにしている方もたくさんおられます。

 東西共に、古くからある落語ですが、上記に示したのは現・桂春團治氏のものを参考にしました。これは、故・立花家花橘(たちばなやかきつ)氏の流れをくむ、上方の古くからある型ですが、近年は、桂米朝氏がまとめ直された型も、結構多く上演されています。始めの喜六と甚兵衛さんの会話やべんちゃらの文句、喜六が長屋へ帰ってから祝いを取られるところなど、上記の型とは少し違っています。どちらがどちらとも言えませんが、私自身として、上記の古い型の方が好きですな。

 上演時間は、だいたい十五分ぐらいから二十五分ぐらいまで、土台が短い話なので、大げさにやらずに、あっさりと二十分前後でまとめるのが良いみたいでありますね。有名な前座ネタではありますが、笑いも多く、話の筋というよりも、出会う人との会話で笑わすところが多いので、会話のしゃべりの達者な方が上演されると良いと思います。

 所有音源としては、故・五代目笑福亭松鶴氏、故・二代目桂春團治氏、三代目桂春團治氏、故・桂春蝶氏、林家染丸氏、故・桂吉朝氏のもの、その他にもたくさんの方のを聞いたことがあります。どれも大御所ばかりですが、それぞれにまた味わい深いものがありますわな。松鶴氏のものは、当然レコードのものですが、子供をほめる文句なんかが、やはり今とは少々違っていますし、サゲは“どう見ても半分ぐらいにしか…”とされています。しかし、間がなんとも絶妙で、さすがにウマイと感じさせられますな。二代目春團治氏のものも、レコードでのものですが、演題が『安産祝い』となっており、やはり五代目さんと同様に、間が何とも絶妙にウマイものでありました。三代目春團治氏のものは、一分の隙もない芸風を反映しているかのように見えて、この子ほめに関しては、なかなか打ち解けた、ほんわかとした雰囲気が出ているのが珍しくて、逆におもしろいですね。親子・師弟だけあってか、このネタについては、二代目さんと、大変によく似た感じがするのは、私だけでしょうか。春蝶氏・染丸氏のものは、共に子供を前にして春蝶氏・染丸氏自身が笑われる笑顔が大変印象に残ります。きっと、お二人とも、本当に子供がお好きなのでしょうね。春蝶氏の息子さんは、桂春菜氏なんですが…。吉朝氏は、結構お笑い本位の、おもろいもんでしたなあ。

 私は、このネタ、実をいうとあんまり好きな類のものではないのですが、笑いも多く、筋も分かりやすいので、よく残っていくのではないかと思っています。

<12.9.1 記>
<17.12.1 最終加筆>


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