秋らしいお話を、一つ。『まめだ』でございます。ご承知の通り、三田純一氏による新作でございますけれども、もう、新作というほどのものでは、なくなって来たように思えますね。だいたいが、明治時分のお話でございます。案外、秋らしい噺というものが、すけのうございますので、楽しませていただけますな。今年は、暑かったせいか、秋も短いみたいですけどね。

 主人公と申しますのは、役者はんでございます。市川右團治さんの弟子で、右三郎と申します、大部屋の役者はん。もちろん、明治時分でございますので、芝居でも、歌舞伎でございます。お家が、ミナミの三津寺筋で、膏薬を売ってございます。家伝びっくり膏。貝殻に、膏薬を詰めて、売ってあるという、がまの油みたいな感じ。大部屋の役者はんですので、お手当ても、すけない。家業と合わして、お母はんと二人、それなりに生活をしております。しかし、トンボの稽古でも、よろしいわな。尻餅付いても、ケガしても、びっくり膏がありまっさかいに、何ぼでも、治せるてなもん。今日も今日とて、道頓堀の芝居小屋、芝居がハネまして、親方やら先輩、下足番にまで挨拶をいたしまして、小屋を出る。太左衛門橋を渡りますと、秋の時雨、雨がポツポツとしてきた。こころやすい芝居茶屋で、傘を借りまして、三津寺筋を西へ。下駄を履いておりますので、カタカタと、音を鳴らしながら、歩いておりますというと、傘の上がズシッと、重とうなる。何か落ちて来たんかいなあと思いまして、傘をすぼめてみますというと、なんとも無い。また、さして歩き出しますというと、ズシッと。「ははぁ、まめだの仕業やな。」と。豆狸、まめだでございますな。“雨のショボショボ降る晩に まめだが徳利持って 酒買いに”のまめだでございます。これが、イタズラで、こんなことしよったんですなあ。要するに、傘の上へ乗って、すぼめると、どっかへ逃げると。今度はと、一計を案じまして、傘をさして、しばらく歩きかけますというと、傘の上へ、ズシッと。ここやというので、傘をさしたまま、下駄を履いたまま、ポーンと一つ、トンボを切った。さすがに、大部屋の役者はんですな。「ギャッ」という声がしたかと思いますというと、何かのかたまりが、暗闇の中へ、スーッと逃げて行く。まめだが、地べたへ叩きつけられたんですな。「ざまあ見さらせ、まめだめ。キジも鳴かずば、打たれまい。益ねぇ殺生…。」と芝居のセリフを口ずさみながら、家へと帰ってまいります。

 三津寺はんの、向かい側が、家でございまして、びっくり膏の看板が、掛かったある。朝も早いうちから、芝居が始まるんでっさかいに、もうクタクタ。お腹も減ってる。まだ、芝居も、初日開いてすぐと見えまして、帰りも遅いので、ご飯を食べて、すぐに寝てしまします。明くる日。朝も暗い内から、小屋へ出かけまして、芝居をいたしまして、家へ。「ただいま。何してんねん?」「ゼゼが合わんねん。」って、おかしな話。一つ一銭、一貝一銭でっさかいに、こんな分かりやすい勘定は無い。売れた貝の数と、銭の数が一緒のはず。間違うたんかいなあと思えども、銭が一銭足らいで、イチョウの葉が、一枚入ってる。向かいの三津寺はんの、イチョウの葉が入り込んだんでもない。銭函の蓋がしたあるんでっさかいにな。それに、今日は、ついぞ見かけんような、絣の着物を着た、陰気な男の子が、買いに来たやて。「そんなもん、イチョウの葉が、入り込んだんも、不思議は、無いわいな。それより、はよ、飯や飯。」と、ご飯を食べて、寝てしまいます。明くる日、また芝居へ行きまして、家へ戻ってまいりますというと、お母はんが、浮かん顔。昨日と、おんなじことなんですなあ。今日は、銭函に、重しまで乗せて、開けるたんびに、イチョウの葉が入ってないか、見ながら、勘定してたて。ほなまた、あの絣の着物の陰気な子が来て、銭函へ銭入れて、次のお客さんが来た時に、開けてみたら、イチョウの葉が入ってると。ほんで、一銭足らんと。「そんなことより、はよ、飯食わしてえな。」と、この日も、寝てしまいます。これが、四・五日続きまして、家へ帰ってまりますというと、「イチョウか?」と、なんじゃ、挨拶みたいになってしもた。

 「ただいま。今日もイチョウの葉が入ってんにゃろ?」「不思議な。違うねん。今日は、イチョウの葉が入ってのうて、銭がちゃんと合うたある。」「不思議な。」違いまんがな。そんでエエんですがな。しかし、今日に限って、あの陰気な子が、来てへんのですて。災難逃れみたいなもんやがなと、今日も、ご飯を食べて、寝てしまいます。明くる朝、表で、なんじゃ、ザワザワと騒ぎ声。聞いてみますというと、三津寺はんの境内で、まめだが死んでるとのこと。しかも、体じゅう、貝殻引っ付けてやて。どうも思い当たる節がございますので、お母はんと一緒に、境内へ。やっぱりそうやったんですなあ。あの、まめだ。傘をさしたまま、トンボを切ったもんですから、叩き付けられたようなもんで、痛かったとみえまして、毎日、イチョウの葉を銭に変えて、子供のなりをいたしまして、膏薬を買いに来てたて。知らんかったんでしょう、膏薬を、貝殻ごと、体に、引っ付けてたんですな。ご承知の通り、紙や布なんかに伸ばして、それを貼り付けますのにね。毛がフサフサとしておりますところへ、貝殻ごと、膏薬引っ付けたんでは、効くもんも、効かんようになりますがな。「おっさん、これ、わたいが、殺したようなもんだんねん。どこぞ、境内の隅になと、埋めたっとくなはれな。どんな安もんのお経でもエエさかいに、あげたっとくなはれ。線香の一本でも、あげとくなはれな。」哀れな場面ですけれども、大勢の人が立ち去った後、親子の者と、お寺のおっさんが見ておりますというと、秋風が吹いてまいりまして、イチョウの葉が、ハラハラ、ハラハラ。「お母ん、見てみなはれ。狸の仲間から、ぎょう〜さん、香典が届いたがな。」と、これがサゲになりますな。要するに、イチョウの葉を、銭に変えて、この、まめだが、膏薬を買いに来ておりましたので、死骸を埋めました所へ、イチョウの葉が集まってまいりますというと、これが、香典になっているということです。しかし、最近、葬式でも、香典取ら〜らへんとこ、増えてますな。というか、むしろ、香典取らはるとこのほうが、珍しなってますけどね。

 上演時間は、二十分前後。長いものではありません。また、長ければ、良いというものでも、ないでしょう。何か、物悲しい季節の秋に、ピッタリの、物悲しい噺でございます。冒頭、役者の右三郎さんにつきましての、周りの話から、ボチボチと話が始まります。ちょっと説明しながらでないと、そら、なかなか、分かりづらいですからな。びっくり膏やとか、芝居の話とか。そして、小屋がハネてから、雨が降ってまいりまして、芝居茶屋で傘を借りるなんて、想像しただけでも、なかなか風情のある所でございます。傘の上へ、ズシッと、これが、まめだの仕業ですて。イタズラですわな。しかし、イタズラした相手が、良うなかった。大部屋の役者はんでっさかいに、傘持ったまま、トンボを切ると。ウマイ人なんか、物持ったままで、トンボ切らはりますもんな。この人がまた、びっくり膏の息子はんやったちゅうのも、おもろい話で。次の日から、絣の着物を着た、陰気な子が、膏薬を買いにまいりますと、その後で、銭が、イチョウの葉に変わると。不思議ななあと思うておりまして、その子が来なかった、明くる朝に、三津寺はんの境内で、貝殻を引っ付けた、まめだが死んでるて。話の本編に、どないして関係があんのかいなあと思うておりますというと、これが、エライこと。まめだが、人間に化けて、イチョウの葉を銭に変えまして、膏薬を買いに来てたて。我々、お客のほうは、うなずかされる所ですな。しかし、紙や布に広げて貼ることを、知りませんでしたので、貝殻ごと、毛の上から、引っ付けてたて。哀れな話ですわいな。そして、弔いが済んで、おっさんと、親子の者が、しんみりとしておりますところで、サゲになると。ようでけたサゲですな。

 東京にも、移されているかも分かりません、近ごろでは。所有音源は、桂米朝氏のものがあります。気に入ってか、ちょこちょこ、やったはりましたな。筋がありますので、おもしろいだけではなくて、物悲しさもあり、何か、芝居を見ているような、そんな気分にさせられます。で、最後に、意表をつくサゲと。案外、落語に合わないような感じも、しないようではありますが、それが、見事に合うのは、やはり、サゲなのかも分かりませんね。

<22.10.1 記>


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