お暑うございます。五月の下旬、真夏並みですな。今年は、ちょっと暑い。いうても、季節の変化は、それなりに、なるのかも分かりませんが、とりあえず、今月は、お珍しい『軽業講釈』で、お楽しみいただきます。

 一部、『軽業』と重複いたしまして、伊勢詣りの『東の旅』の一部分として、演じられることもありますし、関係も無く、村祭りの軽業興行として演じようと思えば、できるものでもございます。要するに、喜六・清八の二人連れ、伊勢詣りの途中、ある村へと差し掛かります。土地の氏神さんの六十一年目の屋根替えの正遷宮、お祭りでございまして、にぎやかなもん。参詣を済ませまして、クルリっと裏手へ回りますというと、ひときわ目に付きます、軽業興行の小屋。正面には、十二枚の絵看板、横手には、葛の葉の障子抜けの絵。札場には、札が積み重ねてあって、木戸番が、呼び込みをしております。『軽業』の中の、軽業興行の部分と、一緒です。

 この小屋の、隣りにございます小屋が、これまた講釈小屋でございまして、街なかの席と違いまして、ムシロ張りになっておりますような、要するに、簡易形式のもの。講釈師といえども、腰には刀を帯びておりまして、総髪という、いでたち。出てまいりますというと、悠々と、白湯を飲みまして、最初は、聞こえるか、聞こえへんかというような声から、だんだんと、調子を取ってまいります。

 「お早々からの、お詰め掛けさまにて、ありがたく御礼を申し上げます。」と、少し、口上のようなものを述べまして、『難波戦記』の大阪の陣の部分。これは、『くっしゃみ講釈』に出てまいります部分と、重複いたしますので、ここも、詳しくは述べませんが、語り始める。と、張扇でポンポンと釈台を叩いておりますうちに、なにやら、横手から、にぎやかなお囃子の音。下座から、にぎやかな音がいたしますな。「かるわざ〜、かるわざ〜。」って、講釈の先生、怒ってなはる。呼ばれて、軽業小屋から、使いが来ますと、うるさいという注釈。講釈が、やってられまへんのやな。お囃子の音が大きすぎて。

 祭りのことで、御神酒も入っておりますので、にぎやかなほうがエエやろうということやったんですが、そこは、隣りが講釈小屋ですからな。とりあえず、気を取り直しまして、先生が、しゃべり始めます。最初は良かったんですが、だんだんと、やっぱり、お囃子の音が大きなってまいりまして、先生の声が聞こえん。「かるわざ〜、かるわざ〜。」っと。再び、軽業小屋から、使いがやってまいりますと、今度は、頭ごなしに怒り爆発。そらそうですわいな。二回目ですからな。先生の声が聞こえんぐらいに、お囃子が騒がしい。

 今度も、平謝りに謝りまして、また最初から。しゃべり始めますというと、やっぱり、隣りの音が大きくなってまいります。一方、軽業小屋のほうでは、口上言いが口上を述べまして、太夫さんの出。身支度も整えまして、綱渡りの芸当。ここも、『軽業』と同趣向。「野田の古跡は、下がり藤の軽業、軽業。」っと、ヤマ場を迎えますと、隣りの講釈小屋では、ここも、名乗りの大音声。「かるわざ〜、かるわざ〜。」って、いよいよ、怒ってはるで。軽業小屋から、三度使いがやってまいりますが、今度は、こっちも言い返す。「そっちも商売か知らんけど、こっちも商売。このお玉杓子!」って、さすがに、先生も、怒り心頭。「この刀が、目に入らんか!」っと、刀を抜きまして、軽業小屋の、この男を追い掛け回す。さすがに、軽業一座とみえ、足も早く、すばしっこいので、捕まえることがでけん。しおしおと、先生が帰ってまいりますと、それを見ておりました、お客さんのほうが、「足の早い男ですなあ」と。「お客さん、あれを称して、"悪事千里を走る”というのじゃ。」とこれがサゲになります。「それでも、なぜに、追い掛けまへんのや?」「好事(講師)門を出でずじゃ」というのが、元来のサゲみたいですけどね。詳しくは、私も存じません。

 上演時間は、二十五分ぐらいですか。お囃子がふんだんに入りますので、にぎやかなネタで、落ち着いたネタばかりが続いているさなかですと、気分転換になって、よろしいな。あんまり、うるさすぎるのも、具合悪いですけれども。話の内容は、『軽業』と『くっしゃみ講釈』をつなげたようなものですが、しかし、趣きがちょっと異なりまして、おもしろいものでございます。要するに、軽業と講釈が、小屋を並べて隣りに立ってしまったので、大騒ぎになると。難しいのは、講釈の途中で、だんだんとお囃子の音が大きくなり、講釈が聞こえなくなりますので、大きな声を出さなければいけないのと、間が悪いと、ウケなくなるということでしょうなあ。

 これは、故・五代目桂文枝氏の復活ネタでございまして、東京では聞きません。上方でも、桂小枝氏なんか、やったはりますけれども、非常に珍しい物で、なかなか聞けるものではございません。お囃子さんとも間の合わせ方なんかも、重要ですしね。そう再々、演じられるものではありませんな。文枝氏は、にぎやかに、やったはりました。その割りに、講釈師の先生なんかも、収まって、堂々としてはったんですがね。また、変わったものがイイのでしたら、講釈の演題を変えたりして演じられても、変化が出て、おもしろいかも分かりませんね。


<27.6.1 記>


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