さて、10月といいますと“衣替え”ですが、うちの家でも夏のよし戸を障子戸にと、建具の入れ替えを致しました。毎年、この時期に障子の張り替えをしてもらうのですが、これを見ながら思い出した歌が、“障子はる 破れたらまたはる…”という歌、どこで聞いた歌かいなあと思い出しますと、そうそう『崇徳院』ですわ。で、今月は『崇徳院』を選びました。
話は、御本家に呼ばれた熊五郎が、その御本家へやってくる所から始まります。旦さんによると、若旦那が二十日ほど前から病気で、お医者さんの診立て(みたて)がつかないが、さるご名医にみせたところが、これは気病い(きやまい)で、何か思いつめていることがあるので、それを誰かに打ち明けさせてしまうと、病気は治るということ。ところが、誰が聞いてもその思い事を言わない。それでは誰やったら言うねやと若旦那に聞くと、熊はんやったら言うということで、熊はんが呼ばれたんですな。小さいころからの仲のエエ、ウマ合いなんですな。
事情を聞いた熊はん、若旦那の寝ている奥の離れ座敷へ。いよいよ若旦那がその思い事を語り出します。二十日ほど前に定吉を供に連れて、高津(こうづ)さん・高津神社へお参りに行ったとのこと。参詣を済まして絵馬堂の前の茶店で一服していると、そこへやってこられたのが、歳のころなら十七・八のどこぞのお嬢さん。きれいな人やなあと見ていると、お嬢さんもこちらを見てニコッ。後から来て先に立って帰らはるところへさして、緋塩瀬(ひしおぜ)の茶袱紗(ちゃぶくさ)が忘れてある。忘れ物ですと渡してあげると、ありがとうございますとおじぎをしはって、茶店で料紙(りょうし、紙に筆・硯を添えて出すこと)を借り、“瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の”という歌を書いて、若旦那がもらったとのこと。これは百人一首の崇徳院さんのお歌で、下の句が“割れても末に 逢わんとぞ思ふ”。つまり、今日は本意ないお別れを致しますが、末にはまたお会いできますようにとの意味かいなあと思うと、それから頭が上がらん病気になったとのこと。この若旦那と熊はんの会話の中では、熊はんの茶々が色々と入って、これがおもろいでんなあ。“羊羹なんぼほど食べてん”とか、“笑うたら向こうの負けや”とか…。
つまり若旦那は恋患い(こいわずらい)。相手のお嬢さんに会わして、一緒にさせると、この病気は全快するということですが、肝心のお嬢さん、どこの人や全く分からない。このことをすぐに旦さんに伝える熊はんですが、これがなかなかウマイこといきませんなあ。“高津さん行く手間で、何で生國魂はんへ行かせん”やとか、“茶店の羊羹が食べたい”、“百人一首の人喰いの歌”やとか、なかなかここも笑いのあるところですなあ。ようようのことで相手のお嬢さんと一緒にさせると、病気が治るということを旦さんに伝えると、“熊はん、せがれの命はあと五日しかもたんといわれてんねや。この前の借金は棒引き、ほかにお礼もさしてもらうさかいに、すぐに探し出してんか。”と、早速、このお嬢さんを探しに出かけます。が、その格好、おなかがすいてるというては、おひつを首から紐でぶら下げられ、その中にこうこが丸々一本、腰にわらじを吊ってあるという、荒物屋の化け物みたいな格好。想像しただけで笑えますわ。
ひとまず家へ帰って嫁はんに事情を話すと、借金とお礼の件があるだけに大喜び。すぐに探しに行かされます。その日の夜、家に帰ってきた熊はんですが、御本家から再三のお呼びというので、御本家へ。旦さんはお嬢さんの身元が分かって帰ってきたものと大喜びですが、早々すぐに分かる訳がない。今度は、裏の蔵付きの借家五件とお礼が三百円というのを頼みに、三日だけの猶予をもらいますなあ。それでも、雲をつかむような話、お嬢さんの居所なんかわかるはずがない。
それから二日目の夜には、もう疲れ果てて、ボーッとして家へ帰ってきた熊はん。嫁はんが聞くと、黙って探していたとのこと。そこで、嫁はんから、“その崇徳院さんの歌を歌いながら歩いて、人寄り場所、風呂屋に床屋へ入って聞きなはれ”と知恵をつけてもらって、いよいよ三日目。朝早うから家を出まして、道を歩きながら、“瀬を〜はやみ〜”“ちょっとおかず屋はん”なんて言われながらも、まずは床屋へ。“おたく、つかえてますか、すいてますか?”“すぐやらしてもらいます。”“さいなら〜。”そうそう、すいてたら何の意味もおまへんねん。次の床屋はんは、ちょっとつかえてますわ。待ち合いで煙草を吸いながら、“瀬を〜はやみ〜”と、これに反応する人が…。娘はんがいて、二十二・三日前に高津さんへ行ったことがある、水もしたたるきれいなお嬢さん…、とまでは良かったが、“年の頃なら十七・八”“今年六つです”て、早う言うたり〜な。それから相当数の床屋・風呂屋を回りますが、まだ分からん。しかし、ここで実際に入って見せるのは、床屋はんだけで、風呂屋はんへ入る件りがあるのは、ほとんどありません。新演出として、風呂屋へ入って、一騒動というのはいかがなものでございましょうや?
ということで、やってきた床屋はんは二回目で、また“瀬を〜はやみ〜”の歌を歌いながら、待ち合いで煙草を吸いつけています。ところへ、やってまいりましたのが、棟梁風の男で、急いでいるのでヒゲだけと、順番を変わってもらって、ヒゲを剃ってもらい始めます。床屋のおやっさんにその男が言うのには、この人の母屋のお嬢さんが気病い。お乳母(おんば)はんを呼んで聞き出すと、二十二・三日ほど前に高津さんの絵馬堂の前の茶店で、どこぞの若旦那に会い、忘れた茶帛を渡してもらったのが縁で、恋患いとのこと。それでその相手の若旦那を探しに行くので、急いでいるとのこと。まさに、熊はんの探していた相手のお嬢さんですわ。キセルを震わせていたかと思うと、いきなりその男の胸ぐらをつかんだ熊はん、“うちの本家へ来い”、その男も探す若旦那が分かって、“うちの母屋へ来い”と、双方がもみ合いになり、手が当たったんか、床屋はんの鏡を割ってしまいます。そこで、床屋のおやっさんが、“この始末はどないしてくれんねん。”というと、熊はんが、“心配すな。崇徳院さんの下の句や。”“下の句とは?”“割れても末に 買わんとぞ思う”とこれがサゲになります。“買わん”と“逢わん”がかけてあるわけですな。他に、もめている二人を見ていた床屋のおやっさんが、“ここの母屋の娘はんいうたら、町内でも今小町といわれるほどのべっぴんさんや。あんたとこの若旦那て、よっぽど仁徳のあるお方ですなあ。”というと、熊はんが、“仁徳があるはずや。見そめたんが高津さんや。”というサゲもあります。これは高津さんには、仁徳天皇がお祀りしてあるというところからくるサゲであります。また、サゲ自体が取って付けたようになってしまうので、“なにわともあれ、一対の夫婦ができます”とサゲなしにしてあるものもあります。しかし、私の意見としては、元来の一番最初のサゲが、百人一首の歌の文句になっているという、なんとも風流な形態で、一番良いのではないかと思います。
上演時間はやはり三十分はかかるという、どちらかというとちょっと長めのお話かと思います。ただ、短くしようと思えば、若旦那の思い事を親旦那に話す所や、最終日の床屋はんを回る件りなんかを短くするなどの工夫で、25分ぐらいにはできると思います。また、長くしようと思えば、熊はんと嫁はんとのやりとりを多くしたり、床屋はんのところを延ばしたりして、随分と長くなると思います。笑いを取る場所も多く、熊はんと若旦那のやりとり、それを伝える熊はんと親旦那のやりとり、最終日になって、熊はんが床屋はんを回るところなんか、非常におもろいでんなあ。しかし、やはり最大の笑い所・見せ場は、“今年六つです”のところと、相手のお嬢さんが分かって、キセルを震わしながら、棟梁風の男に詰め寄る所でありましょうなあ。
話自体が、現代では考えもつかない恋患いを扱っている割に、切実な部分があまり感じられず、それを笑いにしてしまっているのが、また落語らいいところですな。新派かなんかでやったら、大泣きの芝居になるでしょうなあ。つまり、この話が落語らしく、笑い話になっているのは、主人公として熊はんに焦点が当たっているためでしょう。演者としては、この熊はんを中心に描くことによって、若旦那・親旦那・嫁はんなどの、ほかの人物が演じ分けやすくなることであろうと、私は推測しています。
このネタ、やはり元々は上方落語のネタなのでありますが、東京では、故・三代目桂三木助氏が十八番として、よく演じておられたようであります。この方のものは、おそらく上方の二代目三木助氏から伝えられたものだと思われますが、東京での話として、場所は高津さんではなく、上野の清水さんになっていました。しかも、一目惚れをしたときに、藤の棚かなんかの木につるしてあった短冊がハラハラと落ちてきて、これに崇徳院さんの歌が書いてあるという、なんともロマンチックな演出でありました。まあ、実際にはちょっと無理がありますが…。で、よくよく調べてみますと、上方での『崇徳院』も、実は上に取り上げた型に決まっているわけではなく、場所も高津さんばかりでなくて、京都の清水さんなんかで演じられたこともあるみたいで、やはり短冊の落ちてくる演出、茶店の料紙ではなくて、短冊・扇子・色紙などもあったようです。
所有音源としては、故・三遊亭百生氏、故・六代目笑福亭松鶴氏、故・桂文枝氏、笑福亭仁鶴氏、桂ざこば氏、月亭八方氏、桂雀三郎氏、笑福亭松喬氏、故・桂吉朝氏、笑福亭三喬氏などのものがあります。百生氏のものは、東京での高座らしく、ちょっと短めで、少々荒い感じがしないでもありませんが、人物の描き分けが大変よく、おもしろいもんですなあ。羊羹ではなく白酒、緋塩瀬ではなく紫塩瀬、料紙ではなく短冊で、私の言っていた風呂屋へ入る件りがあって、なかなか現代の主流の型とは違った趣がありますな。また、この話が“さる御大家”のお話ではなく、最後に“鴻池”と、ハッキリと名前を特定しておられました。松鶴氏のものは、熊はんのテンポがよくて、なかなか聞きごたえがあり、また、料紙ではなく、お嬢さんが元から持っていた扇子になっており、サゲは“仁徳や”のサゲでした。文枝氏のものも、熊はんに勢いがあって、なんともいえんウマさがあります。やはり、文枝氏の声の特徴がよく出ているのでしょう。昔は、得意ネタで結構よくやったはったらしいですな。仁鶴氏のものも、羊羹ではなくカステラで、しゃべりの間が、なんともこの落語のテンポの早さに合っていて、私の大好きな、なかなか大爆笑のものでありました。ざこば氏のものでは、熊はんの慌てようがよく分かっておもしろく、サゲはつけないというものであります。大阪じゅうを探し回るところ、“グルグルグルグル…”なんか、おもろいとこですな。八方氏のものも、仁鶴氏と同様に、テンポが早くて、この落語によく合っていますな。“三百円。300リラと違いますな”なんていうギャグ、大笑いですな。雀三郎氏のものも、熊はんの落ち着きの無さなんか、おもろいもんですなあ。松喬氏のものも、最後の相手のお嬢さんが見つかった時の熊はんの慌てようなんか、目に浮かぶように想像できますわ。この方のものも、サゲはなしであります。吉朝氏のものは、床屋はんで将棋をさしている人の将棋盤の駒をグチャグチャにする演出なんか、『浮世床』の風景も思い浮かぶように独特で、なかなか聞きごたえのあるものですなあ。三喬氏のものも、これまた、現代的な感覚も折り込みましての、爆笑編でございましたよ。
まあ、とにかく、今晩あたり、風呂につかりながら、“瀬を〜はやみ〜”でも、歌うて下さい。
<13.10.1 記>
<18.5.1 最終加筆>
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