先月、とある地誌の本を読んでおりますと、浄土真宗を開かれました親鸞上人が、分骨されて埋葬されております京都の東大谷さんの祖廟(そびょう)の石墳の上に、虎石という石が置かれているとのことでありました。よくよく調べてみますと、この虎石とは、親鸞上人がいたく愛されていた石であり、元々は、京都の柳馬場(やなぎのばば)押小路(おしこうじ)虎石町東側の法泉寺にあったそうで、それから場所を転々としまして、現在地に置かれることとなったということでした。まあ、虎石伝説は、他にもいくつかあるみたいなんですけど…。ですが、この柳馬場押小路といえば、そう、あの『帯屋』の虎石町なんですわ。浄瑠璃の『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』の、『帯屋』の段で、帯屋はんのあるのが、この柳馬場押小路虎石町の西側なんですよねえ。そこで、今月は、この『帯屋』にちなみまして、『どうらんの幸助』をお届けしたいと思います。しかし、虎石町のルーツが、あんなところにあったとは、ほんとにビックリ…。

 二人の男が出会うと話の始まり。“何してんねん?”“立ってんねん。”“一杯、飲ましたろか?向こうから酒樽がころこんできた。”と、まあ、『うなぎや』なんかにもよくあるやりとり。それから、“それ、あの八百屋の表、漬物屋の表…。大阪に住んでて、あの人知らなんだら、お城知らんのも一緒や。”という、これも『猿後家』なんかと同じやりとり。その歩いてきた主とは、どうらんの幸助というおやっさん。腰に大きな胴乱(胴籃)を下げているので、二つ名(あだ名)がついたということ。胴乱とは、皮や布で作ってある携帯用の物入れで、お金とか、薬とか、はんことかを入れて、腰に下げて歩くもんですな。植物採取のブリキとかトタンとかでできている、肩から下げる筒の容器ぐらいにしか、名前は残ってませんけど。そうですなあ、今でいうたら、ウェストポーチとか、若者がよう腰に付けてるボディバッグみたいなもんですかな。最近、ようはやってますボディバッグのルーツが、胴乱にあるとは…。

 このおやっさん、実は横町の割り木屋のおやっさん。まだ頭にちょんまげののってる時分、おうこ(天秤棒)の先に天保銭(天保通宝、百文ですな)二枚ぶら下げて(演者によっては、一枚・三枚の場合などがありますが…)、丹波の山奥から大阪へ出てきて、一生懸命働いて、表通りに丁稚の三・四人も使う割り木屋を開いたという苦労人。今では息子さんに店を譲って、楽隠居の身。しかし、そんなけ働いてきた人ゆえ、何の楽しみも、道楽もない。芝居や浄瑠璃はもちろん、お茶屋遊びなんかもってのほか。ま、これがさりげなくサゲにつながってくるんですけど…。ところが、一つだけ、道楽がある。これが喧嘩。というよりも、喧嘩の仲裁。って、けったいな道楽や。人が喧嘩してると、すぐに割って入って仲裁し、どこぞの料理やかなんぞで仲直りさせるということ。“俺を誰か知ってるか?”相手が、“割り木屋のおやっさんでんな。”なんか言うと、子供の喧嘩でも仲裁する。仲直りは饅頭屋かなんかでさせますわ。犬の喧嘩も仲裁する。この前なんか、煮売屋から生節(なまぶし)持ってきて、二匹に食べさせるが、食べ終わるとまた喧嘩するので、煮売屋へ行って生節を持ってくる。煮売屋と犬の喧嘩、十五回も往復してたて。ホンマかいな。

 そこで、二人の男、相対(あいたい)喧嘩をしようということになります。つまり、喧嘩しているふりをして、おやっさんに中に入ってもらって、その後で料理屋で一杯飲ましてもらおうという計画。ホンマに喧嘩するんやないんで、一応打ち合わせをして、どこそこにでんぼがあると言いながら、ついに喧嘩を始めます。ま、この場面も、『貧乏花見』の後半の件りにありますな。ウソの喧嘩のつもりが、ホンマの喧嘩になってしまうところで、おやっさんが中に入ってくれますわ。“俺を誰や知ってるか?”“割り木屋のおやっさんでんなあ。”“割り木屋のおやっさんでんなあと、言うことになってまんねん。”とか何とか、あやふやなことを言いながらも、おやっさんの後について、近所の小料理屋へ。この相対喧嘩の場面、ちょっと動きがあって、おもろいですわなあ。

 小料理屋へ上がった二人、おやっさんに喧嘩の理由を聞かれますが、別に訳ておまへんわなあ。しかも、友達同士やし。ごじゃごじゃとそこは適当に言い逃れますが、このちぐはぐさがまたおかしいですな。そんなこんなで、仲直りをしたということになって、おやっさんは帰りかけると、二人はもうちょっと飲みたいので、小鉢もんやら酒やら、土産やらを要求し、おやっさんも勘定はツケなので、そこはエエようにと、小料理屋を出て行きます。と、前半の話はここで一段落しますが、この二人、おそらくこの後アホほど飲んで帰ったんでしょうなあ。

 こんな喧嘩では物足りん、もっとドスの二・三本も飛び交う喧嘩の仲裁に入って、おでこに傷受けて、“向こう傷のおやっさん”とか“三日月のおやっさん”とか言われてみたいなあ〜。って、旗本退屈男やないねから。また、人が集まってんので、“金やって、喧嘩さしたらどや。”とか言うてくるような奴もいる。なんじゃかんじゃ考えながら、辻をぐるりと回ると、浄瑠璃の稽古屋はんの前へと出てまいります。ここからが後半ですな。

 昔は、町内にだいたい一軒ぐらいはあったそうですな。稽古屋はんて。いろんなもん教えたはりますわ。踊りやとか、唄でも小唄・端唄なんかの江戸唄や地唄・上方唄、浄瑠璃なんかねえ。今でいう、規模の小さい習い事の文化サロン・カルチャーセンターみたいなもんですかなあ。たいてい女のお師匠はんがいてはって、稽古事の一つでもしようと通うたはる人が、結構多かったんですな。で、『稽古屋』の稽古屋はんみたいに、いろんなもんを教えたはるところもあるんですが、ここでは浄瑠璃だけを教えたはる、浄瑠璃専門の稽古屋はんみたいです。大阪で浄瑠璃といえば、義太夫のこと。明治から大正なんかにかけては、これが大変に、はやったそうですなあ。その中で、一人の男がお師匠はんに稽古をつけてもらっております。『桂川連理柵』『帯屋』の段、お半長右衛門、お半長ですな。これがなかなかウマイこといかへん。始めの語り出しから文句を間違えたり、節が悪かったり…。この辺は、なかなかおもろいでんな。浄瑠璃知らんもんでも、結構楽しんで笑えます。男の人が言うには、ここは嫌いとのこと。しかし、これは、この人がやりたい、稽古したいと、お師匠はんの方へ頼んでお稽古してもらってるのに、なぜか?それは、この『帯屋』のずっと後のほうに出てくる嫁いじめの所、“親じゃわやい。”“ちぇ〜、あんまりじゃわいなあ。”というのが好きだということ。しかし、この人もけったいな人ですな。こんな、嫁いじめの箇所が好きやなんて。根性いがんでまっせ。まあまあ、この部分を口に出して大きな声で稽古をしてますわ。

 格子造りの稽古屋はん、大勢の人が、中のお稽古の様子を聞いていますので、口々にいろいろと言うてます。“『帯屋』ちゅうのは、ここでは珍しおまんなあ。”“しかし、この嫁いじめの所は、いつ聞いても憎たらしおまんなあ。”“ああ、憎たらしい婆だ。嫁いじめ。”としゃべってる所へ、最前のおやっさんが通りかかります。喧嘩を探してるおやっさんだけあって、この話を聞いては、いてもたってもいられませんわ。ここらの人に聞きますが、“お半長でっせ。”と言うばかりで何の応答もない。稽古屋はんの中へ上がり込んできて、仲裁しようとしますが、これは浄瑠璃のお半長で、ここの家のもめごとではないとのこと。

 京都は、柳馬場押小路、虎石町の西側にある帯屋はんの話。ここの主人が長右衛門さん、元々は養子さんで、ここの舅(しゅうと)が半斎さんというて、エエ人なんですが、この人の後妻に入った、元は女中のおとせという、つまり長右衛門さんの義理の母親が、悪い奴。別の人との間で生まれている、連れ子の儀兵衛というのがいるので、この儀兵衛に店を譲って、長右衛門さんを放り出そうと考えている。長右衛門さんには、日本一の貞女といわれる、お絹さんという奥さんがいる。しかし、この長右衛門さん、お伊勢参りの途中で、石部の宿の出羽屋という旅籠に泊まったところ、この帯屋はんの近所にある信濃屋のお半という娘も、この旅籠に泊まりあわせており、このお半さんが、前々から長右衛門さんのことが好きで、この夜にゴジャゴジャとややこしいことになってしもうた。いわゆる不倫ですわな。女房のお絹さんは、このこと、すべて承知で、亭主の恥を外に知れまいとしますが、これをネタにおとせが長右衛門さんを家から放り出そうとしてまんねやな。お半さんから長右衛門さんに、“長様まゐる”と書いた手紙が渡るのを知ったおとせが、ゆすりにかかりますが、この“長”は、丁稚の長吉の“長”でございますと、お絹さんがうまく切り抜けたり、集金して帰ってきた五十両の金の紛失の一件や、長右衛門さんが、ずっと以前に宮川町の芸妓はんと心中して、自分一人だけ助かったという一件なんかも出てきて、ま、最後には、この長右衛門さんとお半さんが、桂川に飛び込んで心中するという、一連の物語ですわなあ。今でも、桂川の傍らに、お半長の塚がありますし、新京極の誓願寺さんの墓地にも、お墓がありますな。

 で、この場面では、まだその手前で、お絹さんが、いろいろと気をもみながら、おとせにいじめられているという、そういう所ですわ。しかし、このお半長の物語、一応演者が説明をしては頂けるんですが、実際に知っていないと、このネタのおもしろみは、減るでしょうねえ。知らなくても、話としては十分に成り立つんですが、やはり知っているほうがねえ…。

 話は戻りまして、おやっさん、ここで紙と硯を借りまして、場所・関係者一同・年齢などを詳しく書きとめて、京都に、このもめごとの解決に向かいます。って、このお半長の物語、相当昔のことでっせ。実際にあったといわれていますが、このネタの時代設定であります明治初年よりも、はるかに前ですもん。このおやっさん、旧弊なお方で、この時分には、すでに京都と大阪の間に汽車が引けておりましたが、ごへだ(石炭)の臭いがかなんというので、三十石で京へ行くことにしたんですな。ま、これがサゲの説明になるんですが、京都・大阪間に汽車が出来たんは明治十年、それ以降も平行して、十年前後は三十石がまだ上り下りしてたようです。その名も、そのものズバリの『三十石』なんかで、上方落語では有名な三十石なんですが、淀川を三十石積みの船で、大阪の八軒屋と京都の伏見の浜とを行き来してたんです。浪曲の『石松代参』では、乗り合いの一人と森の石松が、“寿司喰いねえ”という、あのやりとりで有名ですな。

 おやっさん、夜船に乗りましたんで、京の伏見に着いたんは、明くる朝早く。伏見で、この虎石町の話を聞くと、この尋ねられた人も、よう知ってますわ。しかも、お半長のもめごとも。これはいかんと、やってまいりましたんが、例の柳馬場押小路虎石町の西側。この地名は、現在でもあるんですが、このおやっさんが訪れた時代、明治の始めごろに、帯屋はんが一軒あったんやそうですわ。この辺りは、今でも結構、呉服屋さん、繊維関係の会社がちらほらとありますので、この時分に帯屋はんがあったんも無理がおまへんな。ま、災難なんはこのお家ですわ。

 おやっさん、入るなり、腰をかけまして、煙草を吸いながら、出て来た番頭はん相手に聞き始めます。“ここの家がゴジャゴジャともめてるそうな。”と言いますが、“何ぞのお間違いで。”と言うばかりの番頭はん。おやっさんも、“主人の恥を出すまいとしてんねやな。それやったら、先に信濃屋のお半さんのほうへ行くが…。”と、関係者一同の名前を聞いていた番頭はん、事情がわかったとみえ、“そら、お半長と違いますか?それやったら、お半も長右衛門も、とうに桂川で心中しましたがな。”“エエッ、死んでもたか。やっぱり、汽車で来たらよかった。”とこれがサゲになりますわ。先ほども言いましたが、三十石よりも汽車で来た方が、早くここに着けたので、三十石で来たおやっさんが、“汽車で来てたら、間に合うたかも知れんわ。”という意味で言った言葉がサゲになっているんですな。このサゲは、話の途中で、仕込んで説明しておかないと本当に何の意味か分からないんですが、しかし、そんなに無理のあるサゲだとも思われません。すんなりと入り込めますよねえ。ま、だいたいは、ちょっと特殊な場面設定が多い話なので、別になんともないと思います。他にサゲとしては、“しもた、急行で来たらよかった。”というのもあります。この場合には、別に三十石の説明をしなくても済むのですが、汽車の中での普通と急行の違いを示しているだけで、やはり汽車と三十石という根本的な乗り物の違いがなく、やや風情に欠けるような感じもしないではありませんので、単なる私の意見としては、三十石のサゲのほうが好きなんですよ。東京では、東京から京都に行くことになっていますので、三十石が無理で、急行のサゲになっています。

 上演時間は、三十分前後から四十分ぐらい、結構やりがいのある、また聞きごたえのあるネタだと思います。内容からいくと、前半と後半に大きく分けられるのですが、前半は、始めから笑いが多く、何の考えがなくても大いに楽しめます。二人の男がおやっさんの喧嘩の仲裁好きの話を語る場面や、相対喧嘩、小料理屋へ上がってからの喧嘩の理由を話す所、どれをとっても、にぎやかでおもしろく、特に相対喧嘩の所などは動きも多くて、見ていて笑える場面ですよねえ。ところが一変して、後半は笑いが少ない。しかも、聞く側にとっても、ちょっと頭が要りますよ。『帯屋』の関係者一同が分かっていないと、おもしろさが半減してしまいます。ま、昔は子供でも知っているぐらいの一般常識やったんで、何の違和感もなく、大いに笑えたんでしょうが、現代では、やはり笑いが乏しくなりますよねえ。始めから知ってる人は、イイんですがねえ…。それと、場面も大きく変わりますよねえ。演者としては、難しい所かも分かりません。『帯屋』の最初の箇所も実際に女のお師匠はんとして、語って見せなければなりませんし、大阪と京都の人の言葉の違い、稽古屋はんでの会話と、帯屋はんでの番頭はんとの会話の中での言葉使いの違いなんかも注意の要るところなんでしょう。聞いていて、一番頭に残るのは、おやっさんが三十石を降りた伏見で、見ず知らずの人に、帯屋はんの場所を尋ねたとき、尋ねられた人が、“おっせ”と京言葉で答える部分なんですよ。“ある”という意味なんですが、この一言が京都に来たことを感じさせる重要なポイントではないでしょうか。厳密にいうと、本当の京と伏見とは、ちょっと違うんですが、それでも、どちらかというと、伏見は京の中へ入りますわな。その後の、帯屋はんでのキセルで煙草を吸いながらのおやっさんと番頭はんとのやりとりも、間を取りながら、表情を変えていくという、なかなか難しい場面なんでしょう。『立ち切れ』や『京の茶漬』なんかでも、重要なところで、煙草を吸う場面が出てきます。現在でも、映画やドラマなんかで、間を持たせる時の演出法として、紙の巻きタバコを吸う場面がよく出てきますが、昔からあったんですよねえ。ま、これも厳密にいうと、キセルと紙の煙草の違いは、あるんでしょうけども…。

 やはり、このネタ、まず最初に浄瑠璃の『帯屋』がありきで、そこから作られたネタでありますので、サゲも先に出来ていて、そのサゲに向かって、どのような紆余曲折(うよきょくせつ)があるかをお笑いにしている感じがしてなりません。そのために、ネタ自体の場面設定・時代設定が、かなり限られています。無理がないかといえば、それはウソになりますが、なるべく無理を感じさせないように、後半の部分をしっかりと演じなければいけないのでしょう。前半に笑いを取るだけ取っておいて、後半できっちりと演じるという型のほうが、イイのでしょうなあ。

 所有音源としては、桂米朝氏、故・桂小南氏、故・三代目桂文我氏、故・桂枝雀氏、林家染丸氏、桂文珍氏、故・桂吉朝氏、笑福亭鶴志氏のものがあります。米朝氏によりますと、このネタの中で、胴乱の説明はされていませんが、これは、故・橘ノ圓都氏によるお稽古の折に、たまたま抜けていただけの話だそうで、別に大意はなく、必ず説明しなければいけないこともないようです。ちなみに、他の方はといいますと、小南氏・文我氏は、ネタの中の最初の二人の男の会話の中でされていますし、枝雀氏もここで説明されていますが、単なる胴乱を下げているというだけの説明ではなく、喧嘩の仲裁のときに、一杯飲ますのにお金が要るので、どうらんの幸助という名になったと説明されています。また、染丸氏は、マクラの部分で、丁寧に説明されています。話は戻りますが、米朝氏のものは、やはり全編通して端正な、うまいものですね。前半は、適度に笑いも多く、後半は、稽古屋のお師匠はんや、帯屋の番頭はんなどの雰囲気がよくて、上品なものですな。小南氏は、おやっさんの頑固さが非常によく表現されていて、おもしろいものでしたな。おやっさんと、他の人との対比という意味で。内容では、稽古屋はんは、浄瑠璃専門ではなく、五目の稽古屋はんのようで、また、私が聞いたものは、時間の関係で、京都へ行く手前で切っておられました。文我氏のものは、お笑い本位ではなく、筋を引き立てておられるような話の運びで、全編通して品があってよく、特に稽古屋のお師匠はんの浄瑠璃、色気ありますなあ。サゲは、急行のサゲでありました。枝雀氏のものは、やはり大爆笑でしたわ。しかも、ABC・朝日放送の『枝雀寄席』で見たやつは、五十分を越える大作で、全編通して笑いの連続でした。“立ってんねん”の入りはありませんでしたが、前半の両手を広げて、おやっさんが喧嘩を仲裁するふりや、相対喧嘩の計画の所で、小便たんごに入れて、竹棹でつく所なんか、思い出しただけでも、腹抱えて、のたうち回りますわ。後半の部分では、稽古屋には上がらずに、たかっている人にお半長の詳細を聞くという型で、浄瑠璃の稽古をしている男の描写なんかがおもしろく、笑いが乏しいなんか、みじんも感じさせませんでした。伏見に着いた所の、“おす”で、“別に、押さいでもエエねん”という言葉、忘れられませんわ。染丸氏のものも、稽古屋のお師匠はんに品がありますわ。やはり、染丸氏、三味線のお師匠はんだけありますな。それだけではなくて、おやっさんの強情さも、非常にうまく表現されていますね。文珍氏のものは、おやっさんが稽古屋へ上がり込んできて、お師匠はんとやりとりするところなんか、おもろいですねえ。何というか、ボタンのかけ違いというか、多少のズレというかの勘違いの部分が、非常に楽しめますよ。吉朝氏のものも、稽古屋の雰囲気がよろしいわなあ。浄瑠璃をじっくりと聞かしてもらえるところなんかねえ。鶴志氏のものは、ちょっと色合いが変わっていまして、本当におやっさんが中心人物として描かれておりまして、勢いがあって素晴らしい。同じネタでも、演じ方によって、こうも違うものかと、感心させられますよ。時間の関係やったんか、最後は、問題の帯屋はんまで行かずに、伏見で往来の人に死んだことを聞いて、サゲにしておられました。

 私、京都に住んでおりますが、久しく、“おっせ”という言葉、使いませんなあ。聞くのも、あんまり聞かんようになりましたし。時代の流れでしょうねえ。

<14.10.1 記>
<17.12.1 最終加筆>


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