
私事ですが、昨年の十二月八日に、私の二番目の姉が二人目の子供を出産いたしました。男の子でございますが、実家であります私の家へ帰ってきて産みましたんで、一月中は、もうエライこと。一人目のほうの女の子が、お姉さんになったとはいえ、三歳のわんぱく盛り。家の中走り回ってますわ。ほんでまた、小憎たらしいこと言うしね。ということで、今月は、子供のお噂を一つ、『桃太郎』でご機嫌を伺います。
昔の子供というたら、もう、ほんあっさりとして、親の言うことなんか、よう聞いたもん。晩寝るのんでもそうですわ。『ぼん、早う寝よ。お化け出てくるで。さあ、寝床入って。お父さんがお話をしてあげよ。』と、お父さんが寝床へ付いて、ぼんに桃太郎の話なんかを聞かせますわ。『昔々、ある所におじいさんと、おばあさんがいてた。おじいさん山へ柴刈りに、おばあさん川へ洗濯に、すると、上のほうから大きな桃が流れてきて、持って帰って割ってみると、男の子が出てきた。この子、桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治に行くというので、おばあさん、きび団子作って持たしてやると、途中で、犬・猿・キジがお供をするというてついて来る。無事に鬼退治をした後は、宝物をもろて帰ってきて、おじいさん・おばあさんに親孝行したと。』そうそう、桃太郎のおとぎ話ですわ。『なあ、どうや。これ。あ〜、寝てしもたんかいな。子供というものは、罪がないなあ。』てなこと言うてたんは、そらもう、随分と前の話。きょうびの子供てなもん、こんなぐらいでは寝まへんわ。
『おい、早う寝や。』『なんで?』『なんでて、日が暮れたら、寝るのん当たり前や。』『そやかて、眠とないもん。』『眠となかっても、早う寝え。』『眠とないのに、早う寝えやて、そら君。』て、親を友達扱いしとおるわ。エライ子や。『早う寝な、お化けが出るぞ。』『エライかわいらしいこと言うてるなあ。』やて。『寝床へ入って、眼つぶったら寝てしまうわい。』『そんなことしてたら、余計、いらんこと考えるわ。』ませた子供や。何考えるちゅうねん。『とにかく横になり。お父さんが話をしたげるさかい。』『話聞くなら聞く、寝るなら寝るでなかったら、そんな器用なことでけへん。』『いらんこと言わんと、いっぺん話なと聞き。』『ほな、やってみい。』て、親を噺家みたいに思うとおる。
『昔々』『何年ほど前や?』『ず〜っと前や。』『年号は?』『年号みたいなもん、ない時分や。』『うわぁ〜、相当昔の話やなあ。』『ある所に』『どこや?』『どこでもええやないかい。』『国の名前ちゅうのがあるやろ。』『その名前も何にもない時分や。』『これまた、どエライ昔のことやなあ。』『おじいさんとおばあさんが…。』『名前は?』『名前もみな、ない時分や。』『よっぽど昔やなあ。で、年いくつや?』『もう年もない時分や。』『何ぼなんでも年ぐらい分かるやろ。』『最初あったけど、火事で焼けた。』て、親父、エエかげんなこと言うとおる。
『いらんこと言わんと、“ふ〜ん”とだけ言うといたらええのじゃ。おじいさん山へ柴刈りに、おばあさん川へ洗濯に。すると、上から桃が流れてきて…。』と、さいぜんのように桃太郎の話をしますわ。すると、子供のほうは、『あんまり間違うたこと言うさかいに、眼さえて、寝られへん。今のは、桃太郎の昔話やろ。あれは、世界的な名作で、ようでけた話や。あれをそんな風に語ったんでは、それでは作者が泣く。』て、また小生意気な。『“昔々、ある所に”というのはなあ、わざと時代や場所をごまかしたあんね。仮に、大阪の話にしたら、大阪の子にはなじみがあるか知れんけど、東京の子には興味がなくなる。田舎へ行ったら、また違うてくる。そやさかい、日本国中、どの時代にしても、どの子供が聞いても分かりやすいように、わざと、ぼやかしたあんね。おじいさん・おばあさん、これは本当は父・母としたいとこやねん。ぢぢとばばの仮名のにごりを取ったら、父と母になるやろ。しかし、昔から子供と年寄りのほうが、なじみが深いさかいに、おじいさん・おばあさんとしたあんね。山へ柴刈りに、海へ洗濯に…、ちゅうわけにいかんさかいに川にしてあるけど、あれは海と言いたいねん。つまり、父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深いちゅう、たとえやねん。』『ふ〜ん』と、今度は親父が納得。というよりも、私の方が納得…。
『流れてきた桃の中から子供が生まれたら、八百屋やかましいて寝てられへん。』て、人生幸路はんの、ぼやき漫才やがな。『人間の腹から出た子供が鬼退治すんのは、不自然なさかい、神さんから授かったとしたあんねん。鬼ヶ島てなとこないけども、渡る世間を鬼ヶ島にたとえてある。人間としての世の中の苦労を表現したあんねやな。ほんで、犬・猿・キジも、でたらめ集めたあんのと違うねん。犬は三日飼うたら三年も恩を忘れんというぐらい、仁義に厚い。猿は、猿知恵てなこと言うけど、人間どけたら一番賢い知恵がある。キジは、卵を温めてるときに、ヘビが来たら、体を巻くだけ巻かしといて、最後にパチンと切ってしまうという、勇気あるもんや。この三つで、仁・智・勇を表したあんね。』『おい、カカ。いっぺんここへ座って、この話一緒に聞け。それから、それから…。』て、どっちが聞いてんのか分からへん。
『ほんでな、その三匹にやる、きび団子。これは別においしいもんでもないねん。きびいうたら、五穀の中でも、一番粗末なもん。ぜいたくしたらいかんというのが、この教えや。そやさかい、人間と生まれたからには、この世の中の苦労をせないかん。その時に、ぜいたくをせず、智・仁・勇を身につけて、宝物、地位とか名誉とか財産を備える、立派な人間となって、親に孝行するということや。こういうことを、昔の人は、子供に分かるように、おとぎ話にして教えようとしたんや。お父っつぁん、僕の前やさかいエエけど、よそ行て、あんなこと言うたらアカンで。恥かくで。親の恥は子の恥や。僕までつらい。ええ、分かったんかいな。』『…』『お父っつぁん。』『…』『お〜お〜、きょうびの大人は罪がないなあ。』と、これがサゲになりますわ。さいぜんに、『子供は罪がないなあ〜。』と言うてたんで、もう分かりますわな。ま、『初天神』も、この手のようなサゲですが、全然、一緒とは感じられませんね。
上演時間は、十分から十五分前後、笑いが多いですし、寄席向きのネタですな。“話に詰まりゃ、子供を使え”てなこと言われるぐらいですが、子たちの出てくる、なかなかおもろいもんですわ。今日でも皆様よくご存知の、おとぎ話であります桃太郎を、うまく解釈してありますねえ。登場人物は、お父さんとぼんの二人で、多いこともありませんし、場所が変わるわけでもないので、やはり前座ネタ的に扱われておりますな。しかし、子供の小憎たらしさと、可愛さがないまぜになる所に要領がいりますか。特に、後半の桃太郎の謎解きの所なんか、あんまり生意気になりすぎてもねえ。で、ちょっと、慌てもんというような雰囲気で、お父さんを描くとか。ま、それぞれに工夫されますわな。ところで、この聞かしどころの桃太郎の解釈、よくでけてますよねえ。あれ、ホンマにそうした意図があって、作者が作ったんちゃうかいなあと思わせられます。誰もが知ってるおとぎ話だけに、余計に、そんな解釈の仕方もあったのかと。実際は、どうなんか分かりませんけどねえ。おそらく、このネタを考えはった人が、作らはったんでしょうが、それに段々段々と、噺家さんの手が加えられつつあって、今のようになってきたんでしょうか。
東京でも、同じ題、同じ内容で演じられております。こちらのほうは、もっと軽いネタとして扱われているように思いますが。ちなみに、小憎たらしい子供が出てくる、前の、すぐ寝てしまう子供の所は、本来、マクラであるみたいですね。私は、本ネタとセットになってると思うてたんですが、きっちりと分けようとすると、あれはマクラなんですと。しかし、あの部分を聞いてへんと、おもろないわな。
所有音源は、桂ざこば氏、笑福亭松喬氏のものがあります。ざこば氏のものは、やはり、お父っつぁんに勢いがあって、それだけに憎そい子供との対比がおもろいですなあ。割り合い、好きです。松喬氏のものは、もうおなじみ、憎たらしい中にも可愛さあふれる子たちが出てきて、おもろおまんなあ。たしか、お二方とも、正月の初席の模様を聞かせてもらったと思います。他に、桂春團治氏も、おなじみの『いかけや』のマクラで、短い目に、この『桃太郎』を小噺として語っておられます。前出する、すぐ寝る子供が、なんとも可愛らしいですなあ。たしか、春團治氏の『いかけや』は、故・四代目桂文團治氏からのものと聞いておりますので、この『桃太郎』も、文團治氏からのものでしょうか?文團治という方、この『桃太郎』を得意にしてはったみたいですが、私はもちろん、聞いたことございません。
しかし、まあひょっと、将来、子供できて、子供にこんなこと言われたら、どうしょう?ウロがくるわ。
<16.2.1 記>
<以降加筆修正>
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