私、十一月四日が誕生日ですねん。めでたく、二十八歳に相成りました。ホンマですねんで。ご愛読の皆様方には、もっと年いって見られてるかも分かりませんけど。落語の中に、誕生日の出てくる話て、ほとんどありませんねん。それは、昔は、数え年でっさかいに、元旦を迎えたら、皆一つ年をとるわけで。誕生日の概念というもの自体が、そんなに重要視されていなかったんですね。しかし、しかし、このネタばかりは、そうはいきませんねやわ。『肝つぶし』。早速、幕を開けることといたしましょう。(って、芝居噺やないねやから…。)

 ある男、友達である由松が病気であるというので、由松が寝ている長屋へ。具合を聞くと、これが、あんまりエエことないねやて。医者や薬では、どないもならん。気病。つまり、恋患いやて。きょうびの話やおまへんけどね。由松っつぁん、呉服屋へ買い物に行た。番頭はんが、他の客と応対してたんで、しばらく待ってたが、なかなか用事が済まんので、“晒七尺おくなはれ”と言うたん。しかし、妙や。七尺て…。六尺ふんどしで、残りは、ふきんやて。けったいな取り合わせや。もう一ぺん言うと、“分かってまんがな。大きい買いもんしてもろてるのや。待ってなはれ。”横見たら、嫁入り仕度かなんかで、なかなか終わりそうにないん。往んだろか知らんと思うてたら、奥の暖簾から出てきはったんが、ここの娘はん。“なんちゅうこと言いなはんね”と、晒七尺、たっぷりと余計めに測ってくれはって、奥から反物二反持って出てきはったん。“お詫びの印に、おかみさんに縫うてもろとくれやす。”“そんなあほらしい。第一、独りもんですねん。お母はんもいやへんし、もう結構です。”“ほんなら寸法を。”と、体に物差し当てはって、測ってから、“こちらで仕立てさせていただきます。お所と、お名前を。”ちゅうさかいに、これこれの長屋で、便所とはきだめの間や。って、また色気のない…。

 すると、その日の夜中に、トントンと家の戸を叩く人がいる。“昼間の呉服屋のもんです”と言われるままに、戸を開けると、さいぜんのお嬢さん。実は、あの一件を根に持った番頭が、以前から話があるが、嫌だと思っている男と、今晩、仮祝言をさせると言い出した。父親は亡くなり、母親だけで、店は番頭が仕切っており、親類も皆、番頭についている。どうしても逃げたいが、行く所がなく、ここへやってきたと。こらまた、エライ一大事や。“貧乏所帯で、布団も一つしかおまへんけど。”となったところへ、今度は、ドンドンと、荒っぽく戸を叩く音。“ここ開けぇ〜”と、蹴破って入ってきた連中は、番頭一行。“帰ってもらわな、どもなりまへん。”“いやや”と押し問答の末に、お嬢さんを担ぎ出して、一行が行ってしまう。こうなったら、男として、やっぱり悔しい。何で、手一つ出さんかったんやろうと、情けのうなって、涙が出てきた。「チーン、チーンちゅう音で、目覚ましたら、二時やねん。」

 へぇ、何じゃ、“チーン、チーン”。はぁ?ここで目が覚めたて、つまり、こら夢かいな。で、その夢の中で、娘はんに恋患い。しかし、これも、どこの呉服屋か知ってたら、話にもなるんやが…。全くの夢やったんやて。これまた、長い夢見はってんなあ。そやさかいに、探しにも行けへん。そんな相手に惚れはったん。これで、御飯も喉に通らへん。医者に見てもろたら、もろこしの古い本に、夢の中の人に惚れて、死にそうになるもんは、年月揃うた女の生き肝を煎じて飲んだら、全快間違いないねやて。それでは、それを購入…。とは、簡単にいかへん。年月揃うたて、寅やったら、寅の年の、寅の月の、寅の日の、寅の刻に生まれたちゅうことやねんて。そんなもんが、どこにあるやも分からんし、あったとしても、生き肝やさかいに、一人助けようと思うたら、その肝持ってる人を殺さないかん。人間一人助けるのに、一人殺すようなことは、医者として、出来るはずがない。そら、もっともな言い分ですな。そやさかいに、お迎え待ってんと、こっちから行ったらわ…。て、んなアホな。

 しかし、この男と、その妹、由松の三人は、子供の頃から、実の兄弟同様にして育った間柄。そないにあっさり死んでもろても困るわけで、とにかく、出来るだけのことはしてやると。御飯は、近所のおばはんが、お粥さん炊いて持って来てくれんねやて。そんなこんなでも、気をしっかりと持って、あきらめんと、死んだらアカンで。てなことで、由松をなぐさめて、この男、自分の家へと帰りかけます。しかし、よくよく考えてみると、不思議な話。夢の中の女に恋患い。しかも、これを治すのに、年月揃うた女の生き肝が要る。いや、エライこっちゃ!この男の妹のお花さん、死んだ母者人(ははじゃひと)が、“うちのお花の生まれは、人に言うことならんで。年月が揃うたあるさかいに。”と言うてたんを思い出した。今までなんのこっちゃと思うてたが、このことか。これも前世からの因縁。由松の親父には、大恩を受けたことのある、この男。さて、この後、どないなんねやろ?

 家へ帰ると、妹のお花と二人暮し。御飯は食べたんでと、酒の用意をさせる。めったに酒なんか飲まん、この男、燗もせず、徳利も入れずに、ひやのままで湯呑みに入れて、ちびちびと。「ほんに思えば、昨日今日じゃなあ。」と、下座から『夕顔』の手がしんみりと入ります。この人が十三で、お花さんが九つ。両親が次々と死んでしもうて、由松の親父っさんが我が子同様に育ててくれた。てなこと言いながら、よう飲まんお花さんにも、酒を飲ませる。由松は病気やけども、人間、年いったもんが先に死ぬとは限らん。お花さんが、お兄さんより先に死ぬこともあるかも知れん。そういう時には、先に死んだ両親に、あんじょう言うといてくれて。こら、いよいよ…。ま、冗談やと言いながらも、こんなこと言うてると、飲み慣れんもん飲んだと見えて、お花さんが、床延べて、先に寝てしまいます。

 残った酒を飲んでしまいますと、この男、台所から、水をはった小盥(たらい)に、出刃包丁と砥石を持ってきて、包丁を研ぎ始める。包丁を片手に見込み上げると、“ボーン”という時の鐘。ここで、ものすごい凄味が増してまいります。寝ているお花さんの布団をめくりますというと、「お花、寝耳ながらに、よう聞けよ。」と、芝居がかりになって、下座から、これまた『四つの袖』。由松に義理はないけども、由松の親には大恩がある。貧の盗みで、罪を犯した時に、若いもんに傷つけるわけにはいかんと、身に変えて懲役にまで行ってくれた。その恩返しは、こんなことでなかったらでけん。由松が元気になった暁には、この男も、じきに死んであの世へ行くと。「こんな生まれ合わせになった、身の因果じゃとあきらめてくれ。南無阿弥陀仏。」と、包丁を振り下ろそうとしますが、そこは兄弟、どうして妹が殺せましょう。思わず流した涙が、寝ているお花の顔へ。「まあ、兄さん、何をしなはんね。」「大きな声出しな。今度な、仲間内の芝居があって、寝てる女を出刃包丁で殺すのが、わしの役や。芝居の稽古してたんや。」「まあ、それやったらエエけど、私、目覚ましたら、あんたが包丁持ってるさかいに、わて、ホンマに肝がつぶれたわ。」「何、肝がつぶれた。薬にならんがな。」と、これがサゲになります。つまり、さいぜんから欲しがっていた、年月揃うた女の行き肝が、ビックリして“肝をつぶす”ことになったので、薬にはならんと。まあ、よう出来ておりまして、分かりやすいですな。演題に先に出てしまうのが、難といえば難ですが、なかなか乙なもんです。

 上演時間は、十五分から二十分前後。やはり、長々と引き延ばしてやるネタとはいえませんかな。昔の寄席やったら、やりやすいネタだったでしょうね。こういうのが番組の中に一つ入ってると、席が引き締まりますもんね。笑い所は、やはり、前半部分の夢の話でしょうなあ。由松っつぁんの語りもそうですが、聞き手の“ふん、ふん”という相の手一つで、おもろいもんになります。まあ、患うてる人の、ゆっくりとした間のしゃべりと、興味のある方との対比でね。この夢の部分、よく現代のテレビなんかで、ありそうなシーンですよねえ。カップルがチンピラにからまれるとか。昔から、こんなん、話として、あったんやねえ。由松と別れて帰りがけに思い出す、年月揃うた女の生き肝。年月揃うて、これは有名なもんで、『摂州合邦辻』の玉手御前ですな。合邦庵室の場(合邦住家の段)で、合邦が玉手を殺し、毒で顔がただれた、俊徳丸の身を救うという設定。昔のお客さんなら、誰もが頭の中に入ってるわけですから、もっと共感があったかと思います。でも、そんなことは知らなくっても、十分、この話の中ではご理解いただけるはずです。現代でいうなれば、これもドラマなんかでよくある、RH−AB型の血液とか、白血病なんかでしょうかねえ。そういうと、身近なもんと思えてきますな。家へ帰って、お花を諭しながら、ついには犯行に及ぼうとする。この、出刃包丁を持って、見込むところなんか、一つの芝居の型で、ようでけてます。述懐のセリフなんかもねえ。

 ただし、上記に述べましたのは、桂米朝氏の口演を元にいたしましたが、お古い型ですと、この由松っつぁんの親父さんの大恩というのは、野崎詣りの帰りがけ、人を殺してしまい、裏から手回してもろうて、懲役を免れるなんてものもありますよ。現代には、ちょっと、つらい言い草かもわかりませんが。それに、ふんどしは、六尺五寸を、一丈五尺ほどに測ってもらって、御召一反もらうとか。最初から心惹かれていたのか、乳母に後をつけさしておいて、夜中に訪れる。主人公は、割り合いに、酒飲みであったり、ちょっと、ヤクザっぽい感じがあって、出刃包丁でもなく、九寸五分の短刀。芝居の稽古ではなく、“今、見てきた芝居を思い出して…”なんかいうのも。結局は、土台からして、無理がある話ではあるんですが、それでもまだ、昔の型ですと、もう少し無理が多いように思われます。ちょっと、ドロくさいというか。ドロくさいのも、私は、結構好きなんですが、それでも、不自然さが出ないように、まとめ直されている、米朝氏は、やはり、タダもんやおまへんな。

 このネタ、私、大好きなんです。それは、このわずか、十五分か二十分、下手すると十分そこそこの間に、人間の喜怒哀楽が出てきて、起承転結がハッキリしているような気がするからなんですわ。何か、一昔前の、藤山寛美さんの松竹新喜劇を見ているようで。どないなんのんかいなあと思うて、張り詰めた緊張が、分かりやすいサゲで、一気に終わってしまうという。ネタとしては、大作の名作のというものではないと思いますが、よくまとまっておりますので、ぜひとも残っていって欲しいですね。演者としては、大爆笑は取れない割りに、いささか難しいもののようですが…。

 所有音源は、故・四代目桂文團治氏、桂米朝氏、桂ざこば氏のものがあります。文團治氏は、実際にやったはったらしいですが、講談調の語り口調で、誠に話の持って行きよう、進行の仕方がうまいですな。特に、病人である由松っつぁんの、あまり力の入らないしゃべりなんか、何となしに笑いが込み上げてまいります。文團治氏のお弟子さんである、故・桂文紅氏も、得意ネタで、ようやったはるらしいんですが、残念ながら、私は聞いたことがありません。米朝氏のものも、由松っつぁんの気づつないようでいて、明るいしゃべり、何ともおもろいですな。芝居調になる所も、きっちりと型が決まっているだけに、サゲが、何となくおもしろくて。ざこば氏のものは、以上お二方のものとは、全く雰囲気が異なっているといってもイイと思います。下座も入りませんし、芝居がかりにもなりません。ただ、由松っつぁん・妹さん・主人公と、それぞれの人間の内面が非常に良く分かるというか、情というものが全面に押し出されてるというか。

 私は男ですが、まさか、年月揃うてしまへんと思いまっせ…。

<16.11.1 記>
<17.6.1 最終加筆>


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