今月は五月、といってすぐに思い出すのが、野崎詣りではないでしょうか?もちろん、落語や芝居、浄瑠璃に歌と、様々に取り上げられていますが、野崎詣りは、五月一日から昔は七日(現在は、十日)の間、野崎村の観音さん(現在は、大東市野崎の観音さん)で、施餓鬼(せがき)が行われます。無縁経があげられ、生きとし生けるもの、あらゆる全ての物事に感謝をするという趣旨のもので、昔は大阪から歩いて、徳庵堤(とくあんづつみ)という堤の上を歩いて、また、その下の川を船に乗って、現在はJR学研都市線(前は、片町線といいましたな)の野崎駅下車で行くのが一般的であります。
さて、内容ですが、一言で言えば、二人の男が船に乗り、堤を歩いている人と口げんかをするという、まあ内容はそれほどでもありませんが、この野崎詣りの昔の風景をよく描いている、昔は、行ったことのある人なら、“ああそうそう”と共感できる話であったわけですね。
大阪のおなじみ、喜六・清八という二人連れ、大阪を東へ、大阪城・片町を過ぎて、前述の徳庵堤へ…。ここから話がスタートしますが、まず最初に下座で、“扇蝶(おうぎちょう) 菜種 菜の花 咲き乱れ…”とハメモノが入りますが、この風景、『愛宕山』にも出てきますが、昔の五月の、菜の花が咲いて、蝶が戯れる様子をよく表しています。特に、この辺一帯が、昔、菜の花畑が広がっていて、菜種油の産地だったこともよく分かります。ここで、様々な人物の描写をするのが普通で、おばあさん・芸妓さんに舞妓さん・みたらし団子を食べたりと、演者によってまちまちです。
拍子木の砧(きぬた)の音が入りながら、船に乗ろうとしますが、『兵庫船』でもそうですが、喜六はいたって船に乗るのが嫌い、しかも、普段は肥え取り船に使っているものを、この期間中だけ人を乗せる船に仕立てています。無理やりに乗せられますが、ここで、「あと一人乗ったら出る、あと一人乗ったら出る」と言いながら、なかなか出ない船を描いて、船頭に文句を言う型もありますし、すんなり出発となるやり方もあります。最後に乗った二人、船頭から「艫(とも)をはれ」と言われて、乗り合いの人のお供の人の頭をたたいたり、「杭を持ってきばれ」と言われて、杭にしがみついたりなどの応対があって、やっとのことで船が出ます。喜六は堤に忘れ物をしたと言いますが、その忘れ物は小便、竹の筒を持っていないので、船に落ちている竹の皮で巻いて、小便をするという件りがありますが、省かれる場合も結構ありますね。
船の中で黙っていると、口に虫がわくと言い出す喜六ですが、京都・祗園さんの白朮(をけら)詣り、讃岐・金刀比羅宮の鞘橋(さやばし)の行き違い、この野崎詣りは、堤の上と船を上で口げんかをするのが名物、言い勝つとその年の運勢が良いと清八に教えられ、堤の上を歩いている人と口げんかを始めます。最初が、傘をさして歩く夫婦、負けそうになるところを清八が交代して、嘘をつき、「馬の糞を踏んでるぞ」と言い、言われた相手が、「どこに?」と頭を下げたので、船の中の二人が勝ちとなります。今では、この感覚がちょっと分からないかもしれませんが、“頭を下げる”という行為が、今と昔では随分と意味の違うものだったようであります。次は最初から、「なんやら踏んでるぞ」と言うと、「踏んだらどないした」と怒られたり、また、頭をゴシゴシかいている人に、「襦袢(じゅばん)が見せたいのやろ」と言ったりとなりますが、この辺は、やはり演者によって違います。
ここで、話が変わって、どこからか現れた稽古屋の船と、堤を歩いて人とのけんかになる型もありますし、ここが全く出てこない型もあります。“海老の頭でかんざ一杯飲ましたろ”とか、“鯛が片身片側で、片一方しか身がついてへんのやろ”とかいうやりとりがあって、堤の上の人が“どこに?”と頭を下げたのがきっかけで、船の方が勝ち、去って行きます。この趣向は、『遊山船』とよく似ていますね。
それから、また先述の主人公である二人が、堤の上から、「背が低い」と言われて、口げんかを始めます。その文句で、江戸浅草の観音さんを、“どさくさ”・“深草”と言い間違い、「深草やったら、少将の違いや」というのが出てくる型もありますが、これは、小野小町のもとへ、深草の少将が百夜通ったという話に基づいたギャグなのですが、おそらく分かって笑っている方は、今ではごく少ないと思いますね。喜六が、「山椒はヒリリと辛いわ〜い」と、“小粒”と言うのを忘れて、堤の上から、「小粒が落ちてるわ」「どこに?」と、何も落ちていないのに、喜六が頭を下げて、これが“負けた”という意味でサゲにしたり、また、その後、「うつ向いて、何を探してんねん」「落ちた小粒を探してまんねん」と、サゲにしたりします。この小粒とは、山椒の“小粒”と、江戸時代のお金、小粒形の一分銀を“小粒”と言ったことによって、お金が落ちているのかと思って、下を向いたということによる、“小粒”と“小粒”をかけてあるという意味で、サゲになっています。元来は、このサゲだったのでしょうが、単に頭を下げて“どこに?”でもサゲになるので、この方でもサゲにされるようになったのでしょう。
上演時間は二十分ぐらいから、長くて三十分ぐらいかと思いますが、やはりあまり長すぎずに、ニ十分ぐらいから二十五分ぐらいにするのが普通みたいです。内容はあまり無いかもしれませんが、非常に笑いが多いネタかと思います。口げんかの文句が一番の笑わし所なのでしょうが、時代の移り変わりが激しい昨今、この文句の内容の意味が、だんだん分かりづらくなっているようにも思えます。なかなか型を崩すのは難しいネタかとは思いますが、未来に残すには、この文句を少しづつ変えなければ、笑いが取れなくなるかもしれません。
所有音源としては、故・初代桂春團治氏、故・桂小南氏、笑福亭松之助氏、三代目春團治氏、桂雀三郎氏などのものがあり、他にもたくさんの方のものを聞いたことがありますが、やはり、野崎詣りは春團治氏でしょう。初代・二代目・当代春團治氏、それぞれがこのネタを十八番にしておられまして、レコードやCDになっていますが、またそれぞれが違った味わいで人気を博しておられます。当代・三代目春團治氏のものは、きっちりとした、洗練されたネタのように思えます。あの船頭さんが船を出すところ、また、船が出たところの、後ろに手をつくあたりなんか、本当に自分も一緒に船に乗っているかのように、すばらしい演出ですな。松之助氏のものは、NHK『上方落語の会』で収録された、あの有名な野崎詣りしか見たことがありませんが、あの時のものは、マクラで東海林(しょうじ)太郎の有名な“野崎小唄”を下座で唄ってもらって、おまけに下座からツッコミが入るわ、徳庵堤の説明や茶店で小粒の前振りがあるわで、一風変わっていましたが、これはこれでものすごく良かったです。小南氏のものは、東京で上演されることがほとんどだったので、けんかの文句がやや分かりやすくなっていましたし、雀三郎氏のものは、自分なりにその文句が少しアレンジしてあって、現代でも通じる、よく笑われる型となっていました。
しかし、やはり、このネタは、出囃子が『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)・野崎村の段』の段切れ、お染と久松が、船に乗ってと堤の上を歩いてでラストになる、浄瑠璃の太棹(ふとざお)の連れ弾き、“野崎”が出囃子になっている、桂春團治という方の“持ち物”と言っても良いぐらいのネタではないかと思います。
<12.5.1 記>
<以降加筆修正>
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