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2009年 思ったこと(2歳)

 子どもを持つようになって感じたのは、世の中の人々の、他人との接し方が、評論家的になってきているんだなあということ。2歳というと、まだしつけをしなくていいほど小さくはなく、でも眠かったりすると収拾がつかなくて・・・そういう時期だからこそ、公衆で泣く子供への大人たちの目が痛くて、評論家的・視線をひしひしと感じた、そういうのもあったと思うけれど。
 むずがる子ども、公衆の場で騒ぐ親子。そういう場に出くわしたら、手を差し伸べる、声をかける、叱りつける、あるいはうるさいな〜と思いながらやりすごす、そういうことでいいはずなのに、腕を組んだまま横目で見ている。見ないふりをしつつ、眉をひそめる。そのワンシーンだけを見ておいて、その親子が退場すると隣の同じくらいの年頃の人と批判を始めたりする。家まで持ち帰る人もいる。「近頃の親はしつけを知らない」「こんなことだから子どもが・・・」「甘すぎる。ばちんと一発やればいいんだ」云々、どこかで聞いたような論評。そうじゃない人たちもちゃんといる。けれど、他のもう少し抑制のきいた年頃の子などには優しい顔ができても、そういう自分の常識、しつけ観に合わない親子には冷たい目をする人たちもとても多いということをひしひしと感じた2歳頃。

 いろんな事件があるから、ちょっと「普通」「正常」「常軌」「手本」から外れていると、そのまま「異常」になっていって、なにか大きな事件を起こすかもしれないという心配があるからかもしれないなあとは思います。最近はちょっとのことできれたりと、思いがけない反応が返ってくるから、面と向かっては接していられないというのもあるかもしれない。でもそれだけじゃないような・・・。
 思い起こせば、自分だってそれに類することをしていました。泣くのはしょうがないとして、公共の場で子供が騒いでいても平気でしゃべっている夫婦とかを、(全くどういう神経をしているのかな)と横目で見たり。座敷の焼肉屋で食事中、兄弟が追いかけっこをしてどたばた、こっちの席まで割り込んでくる勢い。でもその両親はおしゃべりをしていて、自分達のほうに倒れこんできた時だけ「静かにしてろ!」と怒る。そんなときには眉をひそめ、お店を出てから「どういう親!?」と論評したり。

 そんな頃、読んだのが「居場所のちから」(⇒育児書)でした。そこで語られていたのは、にぎやかな子供も元気な子供として容認できる、あるいは容認できなければ静かにして欲しいということを伝えたり、「うるさい!」と叱りつけたりする、そういう自由さ。そんな自由な人間が混在する自由な世界。その本を読んでから見回してみると、人間がどんなに画一的になっている世界に住んでいたことか、なんだか白黒の世界だったのがいきなりカラーつきになったみたいに見えてきました。
 皆、揃いも揃って見て見ぬふり。それで家や文章で論評。その場で一緒になって騒いだり、叱りつけたりすると、「ちょっと変な人」として、それも横目で見られたりする。ここはそういう世の中でした。「常識」という狭い狭い道が、でんと真ん中に通っていて、そこから少しでもはみ出してしまうと、たちまち白い目で見られる・・・。
 人々が暇になって「常識」を気にかける時間が十分すぎるほどでき、それと共に人間が狭く、余裕がなくなってきているんじゃないかなあと感じました。「常識」とか「普通」とかに縛られすぎて、窮屈に、本当に生きたい自分をではなく、人に変と言われないような道を歩んでいる。そんなこんなで自分の生きたい人生を送ることができなくなってきていて、そのせいでまた余計に暇になる。ますます「常識」を気にかける時間が増えて、人の「変」を指摘することで自分の正当性を確認して安心している。いつの間にか身に着けた処世術、本当に本来の自分のものかどうかも分からない自分の中の正当性を元に生きている。窮屈で、哀れで、怖ろしい・・・。

 私は少女時代、男の子達の中では居心地がよかったけれど、女の子達のことは怖かったのを覚えています。女の子達がどういう生き物なのか、よく分からなかった。今ならどうして怖かったか、なんとなく分かるのだけれど、女の子達はその頃から人の「普通と違う」に敏感で、そういうものを指摘するのに長けていて、それが私には怖くて居心地が悪かったのでした。すごく狭いその女の子達の「正常」の範疇にいなければ認められない。その点、男の子達はおおらかで、ちょっとくらい違っていても許されるごちゃごちゃ感がありました。今はどうなのか分からないけれど・・・。
 男の子と女の子の違いというよりも、親の有り様を女の子はそっくりそのままなぞる生き物(特に小学校中上級)で、その頃すでに大人たちの間に、異なるものへの不寛容がしっかり存在していたということでは?と思います。その女の子達の親は今、祖父母の世代。不寛容で、直には口を挟まない批評家。
 学校で皆を同じ枠にはめて育てようとしてきた結果なのか・・・なんだか皆が同じ型で同じサイズで生きているみたいな・・・。学校というところは多分そういうところ。皆と同じ時間に、同じことを、同じ速度でやることを求められる。求められるものから少しはみ出しているとダメ扱い。狭い許容範囲があって、そこからはみ出すと「問題児」。不寛容の極み・・・。

 それを引き継いできている今の世界・・・。すごく窮屈で、そんな世界観の中では自分の人生をきちんと生きることもできないのに、そのことにも気づかないでいるのかな?(まあ私は今まで気づかないでいた)
 自分の人生をきちんと生きていないから暇で、他の人の「自分の世界観から外れた」部分に目くじらをたてる。自分の世界にそれを容れないようにすることに神経を使う。批判という排除をして安心する。自分自身には、その小さな世界の中に暮らすことを課して、それが苦じゃない。その中に生きること、その中に生きる人だけを認めて手をつなぐことで満足している。
 今の日本って、そんな国になってしまっているのじゃないかな。私も普通じゃない感じの、どういう家庭で育ったらこうなるんだろう??というような子供を見て、こういう子が子供と同じクラスにいたりしたら嫌だな、とか思っていたクチでした。でも今は、いろんな子がいて、それを認められる、そういう世の中が一番いいんだと思えるようになりました。なんでもありだ、なんでもこい! そういう気概のある世の中こそ素敵。

※3歳になって先日、電車の中でおじいちゃんと孫らしき二人を見ました。男の子は10歳くらいだったけれど、おそらく知能が3歳くらいで止まっている障害をもつ子で、途中からワアアワアアと雄叫びのように泣いていました。お母さんからだんだん離れていくとか、慣れない車内が怖いとか、なにか原因があったろうに、おじいちゃんは叱り付けているのでした・・・。迷惑をかけてはいけないと思いすぎている日本の悲劇だと思いました。少しの迷惑は仕方がない、おじいちゃんは孫をただ思いやってあげればよい。人の目を気にしなすぎるのも問題かもしれないけれど、もっと寛容の世の中にかえていきたいものだ!!と思います。


2歳という生き物

 2歳前半までは、まだ動物の赤ちゃんのようでした。うろちょろして、自分の気をひくものをひっぱりだして、飽きると放って、ちょっとしたことで全身でころんとこける。ちょっとしたことが嬉しくて、ちょっとしたことが悲しくて、それをストレートに表現する。泣いたりしていても、向こうから母が身をかがめて「おいで」と手を広げてくれたら、無条件で走り寄る。それが二歳半ばを過ぎたあたりから、にわかに人間らしくなり、いっぱしの家族の一員の位置に自ら座ったように思います。もう、一人前。まだまだ分かっていないことがごまんとあるけれども、感情や意識は大人と同じ。母が「おいで」と手を広げてくれたって、素直に走り寄れないこともある。
 その代わり、眠いからといっていつでもどこでもぐずったりはしなくなりました。眠いとだっこされたくて、抱かれるまでは外でも大泣きしたりしていたけれど、今では、眠くても自転車の子供乗せで居眠りしつつ、がんばっていられたりするようになりました。公衆の場面ではおとなしくしてもいられます。機嫌のいいとき、にこにこして親のいいなりになっていたのは卒業して、自分の中にある意思とかで行動し始めた感じ。自分の中に「大人みたいにしたい」みたいな意識があって、自分でがんばってみるかどうか決める。ちゃんと自分には到底な無理なこと、できそうなことのボーダーがあって、到底無理なことにはがんばらないけれど、できそうな「気がする」ことにはがんばってみたりもする。
 2歳ともなると、評判のいい私立幼稚園に入れて行儀をよくして・・・とか言う人も周りにはいて、私はそういうのを聞くと、ゾゾッとする口。子どもをそんな形式面からの働きかけで導いていってあげられると思っている、この母親達の間の風潮・・・。そういう人たちが、子供を飛行機に乗せて、海外にバカンスに連れて行ったりして満足しているのじゃないかな。子供なんて、毎日自由に遊ばせてもらう、それが全く特別じゃない、ということが一番だろうのに、普段は自由を奪っておいて(洋服が汚れるからそれもこれもダメ!とか)、たま〜に「特別な」日を過ごさせて「あげて」、それで親のほうが満足している。子どもは生まれたときが真ん丸な球形だとしたら、それをだんだん削いで、形を変えられていってしまうものだと思います。変えていかないと世の中、生きていけないから、親も削っていくのに手を貸すけれど、ごめんね、という気持ちくらいでちょうどいいのじゃないかなと思います。親がしつけて「あげる」、いい(楽な?)人生を送れるように手を貸して「あげる」、というものではないと思うのだけれど・・・。
 子は自分でしっかりと成長していっている。他の子たちと関われる場所で自由に遊ばせておいたら、親が意図しなくても、勝手にどんどんと。子は放っておいても(というか、放っておいたほうが?)、「自分にできそうなこと」のボーダーをちゃんと分かっていて、それが段々高くなっていっているということにも敏感で、ちゃんと自分を把握していっている気がします。着々と成長していき、それをちゃんと自分で一番に察知して、チャレンジすることのボーダーもあげていく。がんばることが増えていく。
 子どもは勝手に自分で育っていってくれるから、子供に任せておいたらそれでいいのだと思います。親が「あげる」の気持ちでいたら、そのことでかえって自分の成長を自分で察知できなくさせてしまったりするのじゃあないかな? それで自分ではちゃんと頑張れない人間になっていく。


2歳児を相手にしていて大事だと思うこと⇒

@外に連れ出す・・・うちも母の風邪とかで出かけないことがあると、夕方頃には子供の性格が極悪になっていて、手がつけられなくなります。エネルギーを発散できていないからだと思います。「うちの子、悪くて悪くて・・・」と言う人は、けっこう家にこもっていたりするようです。外に連れ出して、1時間以上は好きに遊ばせてさえいれば、一日困らせることの少ないうちの子だけれど、家にこもっていた日は、こっちがきーっとなるくらい悪くなるから・・・「うちの子悪くて」と言う前に、外で自由に遊ばせるのが一番です。

A許容範囲を広げる・・・だめ!と言っていても、急に耳が遠くなって、やってしまう2歳。やめさせようとすると泣かれて結局はやらせることになったり・・・私は、いくら泣き叫ぼうがだめ!ということ以外は、最初から許容してしまうことにしています。付き合う時間が長いので、そのほうがずっと楽。泣き叫ぼうが絶対だめ!じゃないけれど、だめ!と言いたいことって、たいてい片付けが大変とか、それをされるのが好きじゃないとか、親の側の都合によることが多くて、そんな勝手な言い分は不公平だと思うし、子どもは余分なことをどれだけするかで成長の度合いや幸福度が決まっていくものだと思っているし、だめと言うのにもエネルギーを使うから、許容してしまうほうがいいです。絶対にダメ!ということだけ禁止していたほうが、子供もコノヒトがダメと言うことはダメなんだ、と分かりそう。そうじゃなく安易に「だめ」と言って、泣き叫ばれるとOKしていたんじゃあ、子供も泣いたら許されるんだ、と思ってしまいそう。

B待つ・待たせる・・・自分でやりたがる2歳・・・手を出さずに、助けを求めるまで待つ。2歳前半はそれが大きな「待つ」だけれど、2歳後半になるとけっこうなんでも本人に任せきりにできるようになります。その代わりに、任せきりにしてると、1人でやってくれる途上、他のことに気を取られて、もう一歩のところで寄り道してしまったり・・・。早く!と言いたいところだけれど、2歳児の興味を逸らすのにはエネルギーがいります。せかしたり、待ったりしているとイライラするだけなので、こっちも他のことをして、余分なエネルギーを使わずに、待つのではなく、待たせる側になってしまう!

Cあれこれ言わない!・・・これは0歳児の頃からのことだけれど、他のお母さんで、今何を言うか、何を見るかまで指図する人がいて、幼い頃同じようにされていた私としては絶対にやめて欲しく・・・私はやらないです。「おはよう」「ありがとう」とかの挨拶くらいは誘導したり、是非見て欲しい、滅多に見えない物には注意を喚起して、そっちを見てもらったりするけれど、そこまで。他の子に物を取られそうになるとお母さんが「はい、どうぞ、って」とか台詞まで指図して、子はそれをまねたり、子が他のものを見ているかどうかなんてお構いなしに「ほらあれ見て」とか・・・。いい子ちゃんになるかもしれないけれど、本当に自分で考えて、自分の意思でしっかり行動できる子になるのかどうかは疑問。取られそうなおもちゃを譲るかどうかも、今何を見るかも、子供に決めさせればいい。過多気味に、なんでも先走ってあれこれ言われ続けていた私は、ぼーっとした、自分で気を回して行動したりは到底できない人間になっちゃいました・・・。

D失敗したら慰める・・・大人でも、家庭の中で失敗したとき、家族に叱咤されるとへこんでしまう・・・。子どもも同じでした。子どもは大人のようには上手にできなくて、よく失敗してしまいます。本人も失敗してしまったということはよく分かっています。大人がやるべきは叱咤することではなく、その失敗を自分でフォローする方法を伝授しつつ、慰めること。失敗して叱られたとき、子どもが覚えるのは、失敗しないことではなくて(分かっているのに失敗するんだから、叱咤されようがされまいが一緒)、失敗した人を叱るということ・・・。私が物をこぼしてしまったとき、一度だけ子に「なにしてんのよう!」と叱られて、「失敗しちゃった人には、そんなに怒らずに慰めてよ」と言いかけて気づいたんですが・・・(失敗しちゃった子どもだって同じだな、と)。よく言われることだけれど、子どもが学ぶのは「親の言葉から」じゃなくて、「言動そのものを」なのでした。

 2歳半になって動物であることをやめた我が子、2歳9ヶ月になると、独創的な行動が多くなってきました。ところが母がそれに追いついていなくて、今までどおりの「赤ちゃん対応型」でいました。でもおもちゃの対応年齢と同じで、母親も「赤ちゃん向け」「動物向け」はそろそろ卒業しないといけなかったのでした。
 最初の頃、まだ「赤ちゃん向け」の母親のままでいて、もう赤ちゃんじゃなくなった子どもの独創性に慣れていませんでした。「2歳児を相手に大事なことA許容範囲を広げる」も、赤ちゃん対応。まだ子供対応型に切り替えられていませんでした。それで子供の独創的で大人には思い切り無駄に思える思い付きについついNOと言い・・・。
 ある日、公園に三輪車で行くと言い出し、三輪車を自分でごそごそ出しました。そんなに近くでもない公園ですが、三輪車で出かけて行きたいというのは毎度のこと。しかしその日は娘は、ぬいぐるみやら買い物袋やら大量に載せた人形バギー(子供もどうにか乗れるサイズ)も絶対一緒に! と言い出しました・・・。いつも遊びつかれて帰る頃には、自分で三輪車をこいでくれないし、そしたら子を乗せた三輪車に人形バギー(しかもたらふくいろんなもののせている)に、大変なことは目に見えていて・・・。
 帰りに買い物に寄りたいのに、そんなのでは寄れそうにもないし・・・。でも子は譲らず、「自分1人でなんとかできるなら行ってもいいよ」と言ったら、本当にどうにかして三輪車に人形バギーを連結。いつもより巨大化した三輪車を漕ぎ、電柱やら何やらにひっかかったりしては、三輪車を降りてがんばって自分で方向転換させます。そして公園までたどり着きました。ぬいぐるみなんてずりずり引きずられて黒くなって・・・。でも、やっぱりさんざん遊んで帰るときには、三輪車にまたがって、「後はよろしく」モード。ぐちぐち言ってしまい、そこではたと気づきました。私はいきいきとした、毎日の中に楽しみを見つける子どもになって欲しいと思っていたのでした・・・。こういうせっかくの子の楽しみにぐちぐち言っておいて、いきいきした子どもになって欲しいって!? 
 今までの対応型ではもう古い。「子ども対応型」になって、これからどんどん増えるだろう子どもらしい「ええっ!?」な行動に付き合ってみようかと思いました。


⇒2009年思ったこと(3歳) ⇒以降続く

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