人生を変える ミッション・ステートメント

 あなたは、わけもなくイライラしたり、不安を感じることはありませんか?
 生活に追われ、「本当にやりたいことができない」と感じてはいませんか?
 生きる目的が見つからずに、人生をムダに過ごしているとは思いませんか?

 この生き方で、あなたの人生は変わります!

※ このホームページは一切の宗教団体と無関係です。ご安心ください。(^.^)


はじめに

◆「人間関係に疲れ切り、何もかも投げ出してしまいたい」
◆「あの人が許せない、悪い人間を憎むのは当然だ」
◆「思い通りにならないと、腹が立つ」
◆「何のために生きているのか、わからない」
◆「今の自分は、本当の自分じゃない
 あなたは、ふと、そう感じることはありませんか?

 人は、さまざまな「生きづらさ」を心に抱きながら、人生を歩み続けています。そのため、心を病み、他人を傷つけたり、あるいは自らを自殺にまで追い込んだりもします。私たちは、この「生きづらさ」を、どうして心に背負い込んでしまうのでしょう。

「親子間の愛情が満たされた人は、人間関係もスムーズにゆき、他人と協力する喜びを知り、やたらに注目を集めたがったり『絶対の愛』を求めたりもしません。相手ができることしか相手に求めないから、皆から愛されるし、祝福された人生を送ることができるのです。親から愛されて育った人は、自然に人としての強さを身につけていくのです。逆に、親から愛されなかった人は、愛に飢え、やたらと人に愛を要求し、あげくのはてには、すぐにひがんだり、虚勢を張ったりと、ついつい他人に嫌われることになってしまいます」(『アメリカインディアンの教え』加藤諦三)

 心理学者ハーローは、生まれたばかりの子ザルを、愛情の通わない母ザルロボットで育てる実験を行いました。ところが、そうやって育てられた子ザルは、常に情緒不安定な行動を起こし、メスザルは成長しても母性愛が育たず、子どもができても子育てを放棄します。そりゃ、母性愛で育てられていない母親ザルに「子どもに母性愛を示せ!」なんていってもムリですよね。(ハーローの実験では、母親のスキンシップが子どもの発達にいかに大切なのかも明らかにしています)

 人間も、情緒不安定な子どもの親を調べると、同じく情緒不安定で母性愛が不足した親が多いんです。サルや人にとって、母性愛は母性本能ではないようです。もしかして、人間に近くなるほど遺伝子の情報量が多くなりすぎて、本能に近い部分の情報がカットされているのかもしれませんね。

「子どもを虐待する親をよく調べてみると、未熟児で生まれ、保育器に入れられて、母親が数ヶ月も接触できずにいた、というようなケースが多いことがわかってきた」(『愛とは何か』小林司)

 昔、ローマの皇帝が「赤ん坊に言葉を教えなければ、神の言葉を話すだろう」と、母親が赤ん坊に話しかけたり愛撫するのをやめさせたところ、赤ん坊は全員死んでしまったそうです。

 母親との情緒的なコミュニケーションが不足すると、子どもは精神的に不安定になりやすいことが明らかにされています。

「フランスの産婦人科医ミシェル・オダン博士はこう語っている。『もし母親が自然に分娩し、へその緒がついたままの赤ちゃんをすぐに胸に抱いて、自分の心音を聞かせてやり、母乳で愛情深く育てることができたら、そしてそれを世界中のすべての母親が実行できたら、おそらく、この地球から、戦争なんかなくなってしまう、と私は思いますよ』」(『宇宙の神秘・誕生の科学』天外伺朗)

 親子の愛情関係こそが、すべての人間関係の原点であり、わけもなくわき起こるイライラや不安、憎しみや怒り、いじめや犯罪などの根本原因なのではないでしょうか。だとすれば、その原点が満たされずに「生きづらさ」を感じている人が、安らいだ心で、生きがいのある人生を送るためにはどうすればいいのでしょう。

 このホームページでは、その答えを考えていきたいと思います。

あるがままに生きる

 人はなぜ、悩み苦しむのでしょうか?

 私たちは、きれいな花が咲いていると「わぁー、きれい!」と、その花だけが目に入り、周囲に何があったのか覚えていないことがあります。何かに気をとられてしまうと、それ以外のものがそこにあることさえ気づかなかったりします。

 すべてのものは、自分が「そこにある」と認識しているからこそ、存在しているとわかるわけで、五感がキャッチしても、それを認識しなければ、ないのと同じことで、それに対しては何の悩みも苦しみも生まれません

 ところが、きれいな<宝石>を見て(五感がキャッチし)、「<宝石>がそこにある」と認識し、<宝石>へのこだわり(執着)を持ったときから、「自分にはこの<宝石>がない」という喪失感、「この<宝石>が欲しい」という欲求(所有欲)、「持っている人がうらやましい」という羨望・嫉妬、手に入れようとする相手への競争心が生まれます。

 さらに、<宝石>が手に入らなければ、手に入らない苦悩と敗北感、持っていない劣等感が生まれ、たとえ手に入れたとしても、持っていない者への軽蔑・優越感、見せびらかしたい自己顕示欲、自分だけのものにしておきたい独占欲、失ったり盗まれることへの不安感・猜疑心、他人の評価への期待と不安、与えられた評価や批判への不満・怒り・怨み、自分より高価な<宝石>の持ち主へのねたみ、もっと手に入れたい欲望が、次から次へと生まれ、いつまでたっても悩みや苦しみは尽きません。

 悩みや苦しみは、
<物、お金、人(異性、肉親、友だちなど)、地位や名誉、他人からの賞賛、(老いや病、死への不安からくる)生・健康・若さ>
 
といった様々な<宝石>への執着(こだわり、とらわれ、しがみつき、依存心)によって、自分の心が作り出しているものなのです。

 私たちは<宝石>への執着を持つことで、自分の心が<宝石>に価値を与え、悩みや苦しみを生み出しているのです。

「わたしたちの心が苦しい、辛いと感じるから、苦がある。心の働きが苦しみを作っているのですね」(『痛快!寂聴仏教塾』瀬戸内寂聴 )

「この世はけっしてけがれてもいないし、苦しみの海でもない。そうさせているのは、自分自身の心なのだ」(『新釈菜根譚』守屋洋)

 <宝石>自体に価値があるのではありません。<宝石>を見ても、それに執着せずに、<ただの石>としか思わない人には、何の苦悩も生まれません。

「さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない[法句経(ダンマパダ)・171]」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元・訳)
 ※ 耽溺(たんでき):一つのことに夢中になって、他を顧みないこと(大辞泉)

 世の中には、私たちの欲望を駆り立てる<宝石>に満ちあふれています。私たちは「あれが欲しい、これが欲しい、もっと欲しい」と、様々な<宝石>に執着し、思いどおりにしようとすることで、悩み苦しんでしまいます。

「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか[法句経(ダンマパダ)・62]」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元・訳)

自己が自分のものではない… 私たちは「若くありたい」と望んでも、いつしか歳をとります。「健康でいたい」と願っても、病気になります。「死にたくない」と叫んでも、事故や心臓発作などで明日死んでしまうかも知れません。悩みや苦しみから逃れられずに、心を病んだりもします。ということは、「自分自身でさえも思い通りにはならない」のです。

 自分の若さ・健康・生死、そして心をも自由にならない。ましてや、子も、夫(妻、恋人)も、地位も、財産も思い通りにならないということは、「自分のもの」というものは何もなく、すべては自らの「所有意識という思い込み」にすぎません。

「家庭という存在がむずかしいのは、その構成員がそれぞれ、相手を自分の所有物だと考えているところだ」(『「頭のいい人」はシンプルに生きる―「快適生活」の方法』ウエイン・W・ダイアー)

「自分のもの」を思い通りにしようとする「自己の執着=我執=エゴ」こそが、あらゆる苦悩と争いの原因なのです。

「われわれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう[法句経(ダンマパダ)・200]」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元・訳)

「『一切の事物は我ならざるものである【諸法非我(諸法無我)】』と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である[法句経(ダンマパダ)・279]」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元・訳)

 自分のものは何もないということは、私たちには失うものは何もないのです。「なくすものは何もない」ということを本心から悟ることができるならば、財産、他人からの評価(地位、名誉)、大切な人、自らの命への「執着、しがみつき、飽くなき欲望、失うことへの不安、失った悲しみ」からも解放されるのです。

「『一切の形成されたものは苦しみである【一切皆苦(いっさいかいく)】』と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である[法句経(ダンマパダ)・278]」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元・訳)

一切皆苦」は「すべては思いのままにならない苦しみ」を意味します。

 自分を「思い通りの自分」にしようとすると、「思い通りにならない自分、できない自分」を否定し自己嫌悪に陥ります。相手を自分の思い通りにしようとすると「やってくれない相手、できない相手」を否定し怨んだりして、思い通りにしようとする側も、される側も、お互いが傷つき、苦しんでしまいます

 不幸せな人は、すべてが思い通りにはならないのに、「思い通りにならない」と悩み苦しみ、自分をも自分以外をも思い通りにしようとして苦しめてしまうのです。

 たとえ、思い通りになり快感を得られても、しばらくすれば、その快感が忘れられずに、また違う何かを思い通りにしようと執着し、悩み苦しみます。

「私たちはひとつの満足を手に入れれば、次に『もっと、もっと』と欲しがる。だからいつまでたっても思いどおりにはならない構造になっているんだ。だれもが老いるのに老いたくないと思い、すべての人が病を免れることができないのに病気にはなりたくないと願い、みんなが死ぬのに死にたくないと思う。このように思いどおりにならないことを思いどおりにしたいと願う欲や執着が苦しみを生むんだ」(『釈迦の教えが面白いほどわかる本』田中治郎)

 人間の快感を求める欲望には限りがないので、いったん欲望にとらわれてしまうと、欲望が満たされた瞬間に、また次の欲望が生まれ、どこまでいっても絶えざる「欠乏感」「むなしさ」にとらわれ続けます。このままではいつまでたっても心は満たされません

「自分の幸福を望み、それを追い求める人間は、結局どこまで行っても、それを手に入れることはできない。果てしない欲望のゲームの虜となって、絶えず『永遠の不満の状態』に置かれてしまう。果てしない欲望の循環から抜け出ることでしか真の幸福は得られない」(『「むなしさ」の心理学―なぜ満たされないのか』諸富祥彦)

 すべてが自分の思い通りになるはずはありません。不幸の本当の原因は、すべてが思い通りにならない(コントロールできない)からではなく「自分の心を思い通りにコントロールできない」からなのです。

 心が苦しいと感じたら、自分自身、家族、他人、お金、モノ、地位や名誉などを思い通りにしようとしてはいないか検証してみましょう。

「『一切の形成されたものは無常である【諸行無常(しょぎょうむじょう)】』と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である[法句経(ダンマパダ)・277]」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元・訳)

無常… 常は無い。世の中、同じ状態は一瞬たりとも続きません。すべては変化して止みません。

 人の細胞は絶えず入れ替わっていて、今の自分の容姿も、さっきの自分とは少しずつ変化しています。目に映るものだけではありません。心も、考え方も、いろんな人の意見や知識を受けて変わったりもします。

 今の姿は『仮の姿』であって、幼い頃の自分も「私」であり、今の自分も「私」であり、年をとって老人になった自分も「私」であり、いずれは死んでしまう自分も「私」であり、「私」という確たる実体はないのです。

「何ものにもとらわれない心を持ちなさい、真に自由な心になりなさいというのが『空』の教えです」(『痛快!寂聴仏教塾』瀬戸内寂聴 )

 仏教の経典「般若心経」にある言葉「色即是空(しきそくぜくう)」は、「色(しき)・即(すなわち)・是(これ)・空(くう)」で、「色」は「目に見える形あるものすべて」、「空」は「実体がないと解釈すれば、「色即是空」は「目に見える形あるものすべて(色)は、今の姿は一時的な姿であり、常に移り変わる実体がないもの(空)で、いずれは朽ち果て、宇宙と一体となるものであるから、実体がないものに執着しない」と理解できます。

 物理学でも、物質(色)を構成する素粒子は、「粒子」であると同時に、実体のない「波動」(空)であることが明らかにされています。

 地球もあと14億年すれば消滅すると言われています。人も、雲も、月も、太陽も、星も、どんなに美しいものでも、そしてこの自分自身でさえも、すべてのものは移り変わり、いずれは朽ち果て、宇宙と一体になるのが本来の姿であり運命(さだめ)なのです。万物は転変し、一切のものに永遠はなく、形あるものは必ず滅するのです。

「金や財を力にしている者は、金や財を失った時に顛倒(てんとう)する。名誉や地位を力にしている者は、それらをなくした時に失墜する。親や子供を力にしている者は、親や子を亡くした時に倒壊する。信念を力にしている者も、信念ゆらいだ時にまた崩壊する」(『なぜ生きる』高森顕徹・明橋大二・伊藤健太郎)

 すべては変化し移り変わるもの、実体のないものに執着しない生き方こそが心の安らぎをもたらします

「私が恐れているものは、ただ一つ。 お金です。お金への執着、金銭欲こそは、ユダをしてイエスを裏切らせる動機となったのです」(マザー・テレサ)

 お金の価値も、五十年前の一千万円は一生暮らせるほどの大金でしたが、今はそれほどの価値はありません。はたして、数十年後には今と同じ価値のままで有り得るのでしょうか。今の価値基準で将来設計をし「お金に執着」し、お金を心の安らぎの拠り所としていると、将来その時点になって失望することにもなりかねません。

「依存している者への執着。これが心の葛藤を生みだす。執着を別の言葉で言うと、失うかもしれないという不安である。そしてそれを失いたくないという強い気持ちである。まず執着の強い人は、いまの自分を守ろうとしている。いまのポストに執着する。所詮なくなってしまうポストに、なぜ執着をするのか」(『不安の心理 安心の心理』加藤諦三)

「自分の地位や役割に執着」すると、「社長」がいつまでも会社にしがみつき後継者を育てられずに会社をダメにしたり、退職して肩書きがなくなった「肩書きが自分であった会社人間」や、子どもが自立してしまった「親を卒業できない元親」が、生きがいを見失い、空虚感に襲われることにもなります。

「他人によく見られ愛されることに執着」すると、人の言われるままの「いい子」になって自分の人生を生きられなくなったり、自分に注意をむけさせようと心配させるような行動をわざとしたり、優越感に浸る快感が生きがいとなり、異常なまでに外見や世間体にこだわり、それこそ宝石やブランド、高級車、豪邸、自分や子どもの学歴や就職先などといった自分以外のものに執着し依存せずには生きていけなくなったりします。

「子どもに執着」をして、無理をしてモノを与え贅沢をさせたり、世間体にこだわり子どもの結婚式を派手にしたりして、わがままを聞いてあげるのが子どものためだと思う親もいます。でも、親が子どもに執着し、無理をすればするほど、子どもは「親が自分のために無理をするのは当然だ」と思うようになり、おとなになって社会に出ても、周囲に依存し、やってもらえるのが当然だと感謝もできずに、やってもらえないと相手を怨み、責任を相手のせいにし、相手の気持ちを思いやることもできない不幸な人間になってしまいます。

「しつけとは、親の言うことを聞かせることでも、親の思ういい子にすることでもありません。人と一緒に幸せに生きていくためのあり方を教えることです。子どもの幸せの第一歩は、親自身が幸せな人生を生きること。そして、親自身の幸せは、自分自身でつくるものです。パラサイト・ペアレント(子どもに寄生する親)にならないために、次の事をしてみましょう。『自分の望むライフスタイルを思い描く。望むライフスタイルを実現するために、子どもが自立できるようサポートする』」(『子どもの心のコーチング』菅原裕子)

 子どもは親の愛情が満たされずに育つと、いつまでも満たされなかった愛に飢え、自立できずに何かに依存しなければ生きられない人間に育ってしまいます。子どもに愛情の代用品としてモノを与え、物欲を満たしてあげても、モノに依存(執着)し、物欲を肥大化させるだけで、本物の愛情には代えられません。

 子どもには惜しみなく愛を与え、「お父さん、お母さん、私のために、無理しないで!」と言える「親にも何者にも依存せずに自立し、相手の気持ちを理解し思いやり、やってもらったことに感謝できる愛に満ちた人間」に育てることこそが、親としての本来の役割ではないのでしょうか。

「失恋すると『あなたなしでは死んでしまう』と愛がなければ生きていけないと思ったりしますが、本当は恋愛関係になる前に戻っただけなのです」(『1分間で心がすっきり晴れる本』宝彩有菜)

 失恋をしたり、職を失ったり、親しい人を亡くしたりして、大切なものを失ったときに、それに対する執着心(依存度)が強ければ強いほど、苦しみや不安が大きくなります

 愛が満たされずに育てられた人は「愛されなければ生きていけない」という不安感を抱き、「愛していると言って!」「私をもっと愛して!」と相手に愛を要求します。でもそれは、自らの満たされなかった愛情欲求を相手に満たしてもらおうとする「相手への依存(執着)」なのです。思い通りにならない相手に期待し依存していても、満たされることは決してありません

 恋愛で「あなたなしでは生きていけない」と思ったりするのは「執着心」です。「執着心」と「愛」とは違うものです。「執着心」はひとつのことに心をとらわれて、そこから離れられなくなる“しがみつき”であり、「愛」は無条件に与えるもので、相手を思いやり、相手の幸せを願うものなのです。「私を幸せにして!」などと自分の幸せを相手に求めることは、決して「愛」ではありません。

「愛するっていうのは、その人の幸福を願うことだと思う。愛されることは幸せじゃないけど、愛することって、幸せだもんね。毎日うきうきするもんね」(『天国までの百マイル』浅田次郎)

 相手に愛を要求すればするほど、相手は負担を感じ、うっとうしく思い、嫌われることになりますし、思い通りにならなければ「裏切られた!」と相手に怒りと憎しみをつのらせるだけです。愛を要求することをやめ、愛を与えることで、相手も自分も心は安らぎに満たされ、相手からも受け入れられるのです。

「あなたは愛に飢えていますか? 夜も日も、孤独にのみこまれていますか? いいえ、これからはそうではありません。わたしが愛の秘密を教えましょう。愛を受け取るには、愛されることはもとめずに愛をあたえなければならないという秘密です。なにかの目的をはたすためや満足をうるために、また自分の誇りを守るために愛することは、愛ではありません。愛とはなんの見返りももとめない贈り物なのです。今やあなたは、利己心をもたない愛がそれ自体で報酬であることを知っています。たとえ、あなたが愛がかえってこなかったとしても、愛は失われません。報われない愛はあなたのもとに舞い戻り、あなたの心を和らげ、浄(きよ)めるからです。その恵みに感謝しなさい」(『この世で一番の奇跡』オグ・マンディーノ)

 あなたが「愛」と思いこんでいるものは、相手への依存(執着心、独占欲、しがみつき)であったりしてはいませんか?

「愛されている人は、相手に受け入れてもらおうとする努力はせず、自然体なのだ。他の人と親しくなるために、他人を無意識のうちに操(あやつ)る習慣から解放されている。他の人との関係は、愛を求める努力をやめ、他の人を操作する衝動から抜け出すことで好転していく」(『愛と癒しのコミュニオン』鈴木秀子)

 自分がどれほど相手のことが好きでも、相手を思い通りにできるはずはありません。もし、そうしようとすれば、あなたは「ストーカー」になってしまいます。

 恋愛、結婚生活においては、当初には相手のいいところだけしか見えなくなっているので、相手を「理想化」してしまいます。それが、理想と現実が違って見えてくると、相手の現実を理想に当てはめようとするようになり、相手が思い通りにならないと、「だまされた」「価値観が違う」と相手を否定し怨むことになってしまいます。

 人間は誰しも完璧ではないのですから、どこかに欠点があるものです。理想と違う相手の欠点を否定していたら、恋愛、夫婦生活はいつも破局を迎えます。

「理想の相手」とは「自分が創り出した自分の思い通りになる幻想像」であって、相手を理想に当てはめようとしていたのは自分自身なのです。

「求めない ― すると依頼心が消えるんだ。依頼心はイリュージョンだよ。ひとは幻に頼ろうとしてるんだよ。求めない ― すると頼らなくなる。これが『求めない』のいちばんすごいポイントかもしれない。共存とは、『求めあう』ことじゃなくて 互いに『与えあう』ことなんだ。片方だけが求めるとき 相手を傷める ― 奪うからだ」(『求めない』加島祥造)

 愛は求めるものではなく、互いに「与えあう」ものなのです。「与えあう」ことで、お互いが人間として成長していけるのです。

 あなたは「相手が自分の思い通りにしてくれない」という不満を持ってはいませんか? でも、あなたは人から思い通りに動かされるのを嫌がるでしょう? 人は自分の意思で行動したい動物です。他人も自分と同様、相手の思い通りに動かされるのを嫌がるものなのです。

「愛とは他者を自分の思い通りにコントロールすることだと錯覚しているのです。他者に対して『こうすべきだ』と押し付けることが愛だと思い込んでいるのです。みんな人を変えることばかり考えています。その人が、考え方を、言い方を、行動の仕方を変えさえすれば、自分の人生はもっとうまくいくのに、と思っているのです。そして自分は何も変えようとしません。でも注意してください。他の人の人生の中身はあなたとは何の関係もないのです。あなたが地上にいるのは、自分を成長させるためであって他者を成長させるためではありません。私たちはいつも他者の行動を分析し、判断しています。というのも他者に対して期待をしているからです。でもそれは<愛>ではなくて<所有>なのです。本当の愛というのは何の見返りも期待せずに、与え、そして導くことです」(『からだの声を聞きなさい』リズ・ブラボー)

 完璧に自分の思い通りになる人間など、この世には存在しません思い通りにしてくれないと相手を怨んでも、自分が不幸になるだけです。他人は自分への奉仕者ではないのです。相手が思い通りにしてくれなくても、相手が自分の意思で行動することを認めてあげましょう。そうすることで、お互いの気持ちが安らぐのです。

「愛するというのは、実は、素晴らしさを味わうことではない。嫌なところを受け入れることなのだ。いいところを好きになることは、誰にでもできる。でも、それは愛ではなく、単なる好き嫌いなのである。好き嫌いを超えて、もっとも醜く、もっとも嫌なところを受け入れるのが、本当の愛なのだ」(『愛と癒しのコミュニオン』鈴木秀子)

 人を愛するとは、欠点も含めてすべてを受け入れ、無条件に愛を与えることです。そのままの相手を否定せずに、認め受け入れましょう。


 人は「生」に執着すれば「死」の恐怖におびえ、「死」に執着することで自殺することもあります。

「どんなにお金を積んでも、逆立ちして頑張っても、自分の力ではどうすることもできないこと、それは『生まれてきた人間は誰でも必ずいつかは死ぬ』ということです」(『「プラス思考の習慣」で道は開ける』阿奈靖雄)

 死ぬのは自分だけではありません。生まれてきた者には、みな必ず死が訪れます。死はいつ訪れるかはわかりませんが、早いか遅いかの差だけで、いつかは必ずやってきます。これには例外はありません。

「ガンやSARSで騒ぐことはない。そもそも人間の死亡率は100%なのだから」(『死の壁』養老孟司)

 人は「いつかは死ぬ」という現実を忘れるために、自分がいつまでも存在し続けると思いたがります。そして、自らの欲望に執着し思い通りにはならずに、争い悩み苦しみます

「『われらは、ここにあって死ぬはずのものである』と覚悟をしよう。─ このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる[法句経(ダンマパダ)・6]」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元・訳)

「生まれたものに、死をまぬがれる道はない。人は老い、死んでいく。これが実に生まれたものの定めである[スッタニパータ・575]」

「死は自分自身に内在するものであって、それから逃れられないものである以上、それと向き合うほかはありません。私たちがこの世に生まれてきた以上、老いと死を前に見ながら、この有限な人生を精いっぱい生きていくほかはない、とブッダは語っているのです」(『釈迦の説話に耳を澄ませてみませんか』菅沼晃)

 世の中に確実なものなど何ひとつありません。どんなに財産を貯め込んで「俺のモンだ!」としがみついても、気も狂わんばかりにもだえ苦しみ、人を憎んだりしても、人生には限りがあり、死んでしまえばすべては消え去ってしまうのです

「(生死の境をさまよう大病を経験し)『自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと』、これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんどすべて … 外部からの期待、己のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖 … こういったものはすべて、我々が死んだ瞬間に、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ、そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何ひとつない」(アップル・コンピューター創始者スティーブ・ジョブズ「スタンフォード大学卒業祝賀スピーチ」より)

「今日、私は死ぬ」などと誰も考えてもみませんが、そんな人が毎日たくさん、事故や心臓発作などで命を失っています。

「そもそも、明日の太陽を見られることを保証されている人間など、この世には一人もいないのだ」(『あなたに成功をもたらす人生の選択』オグ・マンディーノ)

 私たち自身も、いつ、交通事故で死ぬかもしれませんし、不治の病に冒されるかもしれないのです。

「どっちみち 百年たてば誰もいない あたしもあなたも あのひとも」(『すみれの花の砂糖づけ―江國香織詩集』江国香織)

 生きとし生けるものすべて、この身ひとつでこの世に生まれ、この世からいなくなる存在であることを自覚するならば、つまらないことで争い悩む意味はなくなります

「もっと金を稼げばよかったと、死の床で後悔した者がいるだろうか」(『なぜ生きる』高森顕徹・明橋大二・伊藤健太郎)

「どうせ最後はお金を持って死ねるわけではない。だからいまを楽しむことを考えればいい。毎日楽しいことをする。イヤなことはイヤと言う。『それはできない』と言う。それで切れる人間関係はどんどん切る。形あるものは、いつかは『なくなる』。ある物は、いつか消える」(『不安の心理 安心の心理』加藤諦三)

「人は必ず死ぬ」ということは、すでに死を告知されているようなものです。あなたがもし明日死ぬ運命だとしたら、今日一日をどう生きるか、一度考えてみたらいかがでしょう。

「自分自身の死を自覚することほど、心や精神を集中させ、ほんとうに大切なことを先送りするのをやめるのに有効な手段はありません。明日はないものと思えば、毎日が大切な一日となり、一瞬一瞬が特別な時間になります。当たり前に思えることは何ひとつなくなり、無駄なことに時間を使わなくなるのです。時間に限りがあるからこそ、人生は貴重なのです」(『「人生の残り時間」の思考法 ―“明日はない”と思うと、生き方が変わる』ガリー・バフォン)

 いつか自分が死ぬときが、必ずやってきます。自分の「死」を直視することで、自分の「生」を真摯に考え、一日一日を大切に生きられることができ、自分の「生」の尊さを感じることで、他人の「生」の尊さをも思いやることができるのです。

「残された自分の『時』をいかに意義あるように過ごそうかと考えます。死があるからこそ、たった今の自分の生命が輝いてくるのです」(『寂聴生きる知恵―法句経を読む』瀬戸内寂聴)

 般若心経の「空即是色(くうそくぜしき)」は「すべては移り変わり消えゆく存在(「空」)であるからこそ、目に映る今の姿(「色」)をいとおしむ」と解釈できます。

「舎利子 見よ、空即是色 花ざかり」(小笠原長生)

 満開に咲き誇る桜の花も散りゆき、どんなに愛している人でも、どんなに憎んでいる人でも、死ぬときには、別れなければなりません。

「生まれてきたものは、今向きあっているものは、すべて別れなければならないのだ。そういう気持ちをきちんと持つことがじつは大事なのですね。そこから結局、それを惜しむ気持ちが生まれ、惜しむ気持ちから悲しむ気持ちが生まれ、悲しむ気持ちから、いとおしむ気持ちが生まれ、そこから愛がうまれてくる」(『人生案内』五木寛之

 すべてのものに「死」は訪れ、そして次々と新しい「生」が生じます。人間自体も細胞が絶えず生と死を繰り返す「小宇宙」であり、この世界は「生死」の無限の繰り返しにより営まれています。これこそが自然の摂理であり、宇宙全体の生命エネルギー活動なのです。

 その流れの中、宇宙の永い歴史の流れの中では、人間の一生はシャボン玉のような、ほんの一瞬のできごとで、いつ死が訪れても不思議のないものです。

 自己の欲望や悩みが取るに足らないものであることを知り、宇宙のようなとらわれのない広い大きな心で、老いや死、怒りや憎しみ、欲望、すべてのものへのこだわり(執着)から解放され、今あるすべてに愛おしみと思いやりの気持ちを深め、生きているこの瞬間を大切にすれば、心は愛と安らぎと幸せで満たされます

「病むときは病むがよくござ候 死ぬときは死ぬがよくござ候 これ病死よりすくわるる妙薬にてござ候」(良寛)

「心の自由を満喫しつつ、人々に愛され慕われ惜しまれながら一生を終えた良寛のような人生」「自己の欲望と執着と怒りに心をむしばまれ、最終章を迎える人生」か、あなたならどちらを望みますか?

 私たちは幼い頃から「自分の欲望を満足させることこそが生きがいであり、唯一の喜びなのだ」というソフトウェア(価値観)を何の疑いもなくインストール(信じ込ま)され、“パブロフの犬”の如くそのプログラムに従って「あれもこれも欲しい、もっと欲しい、愛も欲しい、人から好かれたい、立派に見られたい、人に勝ちたい、優越感に浸りたい」などと欲望の肥大化を繰り返し、欲望が満たされないと悩み苦しみ、憎み怒り、満たされない責任を他人や社会のせいにして、相手を怨む苛立ちの日々を送ってきました。

「感覚的な刺激を求めるために物質やお金がほしいという欲望=神経症的欲求ではないでしょうか。基本的には物がほしいというより、物による刺激がほしいのです。なぜ刺激がほしいかというと、むなしいからほしいのです。むなしくなくなるようにすればいいのに、むなしさを紛らわせるものがほしいのです。人生に生きがいがないといっても、金があっていろいろと遊んでいればむなしさをだいたい忘れていられるわけです。基本的欲求が順次満たされ、自己実現まで到達できれば、物資的な富はそこそこ必要なだけあればいいというふうに人間の心は変わるはずです」(『自然成長型文明に向けて』岡野守也)

 お金に執着し「お金を稼ぐのが生きがい」の人は、「何が生きがいなのか分からない。だけど、お金をたくさん持っていれば、生活への不安はなくなり、他人に“ちやほや”されて優越感に浸れる」と、「むなしさ」から気を紛らわせるための刺激を求め、「お金」への依存と「他人の目」による評価に振り回され、「金の亡者」となり、自分が本当は何を求めているのかを深く考えない「思考停止」に陥っている状態なのです。

 お金・物・人・世間体などに執着し、その奴隷となって生きる人生はむなしいものです。物資的な富はそこそこ必要なだけあればいい」という「足るを知る」生き方で、自らの我欲(エゴ)を解き放ちましょう。

「抑圧は欲望からの自由を保証するどころか、逆に欲望を助長して欲求不満をつのらせるだけにしかならない」(『心はどこに向かうのか―トランスパーソナルの視点』菅靖彦)

「足るを知る」生き方は、決して「禁欲」によって身につけるものではありません。それは、深い「自己探求」の結果、自然に身についてくる生き方なのです。

「私たちは、縛られているわけではなく、捕らわれているわけでもないのに、実は自らが何かをつかんで離そうとしていない、それがゆえに捕らわれているように思えるのではないかということです。離しさえすればよいのです。離せば私たちは自由になれる、その執着から離れることができるのです」(『この世の悩みがゼロになる』小林正観)

 財産や名誉、物質的な自己の欲望、ギャンブルなどの“気晴らし”に価値を見い出し、それを追い求めているだけの人生ならば、「満たされない心のむなしさから、気をまぎらわすだけの人生」で終わってしまいます

「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学びなさい」(マハトマ・ガンディー

 何ものにもとらわれずに、一切の苦悩から離れ、精神的に自由となって、自己を高め成長させていくことこそが、究極の喜びであり安らぎです。ブッダ(釈尊)、イエス・キリストなどの偉大な思想家たちは、それを自ら実践することで証明し、多くの人々に伝えようとしました。

「木は何かになろうとは思っていない。ただ、一生懸命に、精一杯に成長していこうとしている。光を浴び、喜びに満ちて成長していこうとしている。生命の続く限り、どこまでも成長していこうとしている。そして、どこまでも成長していこうとするその姿が光り輝いている。一本の木の生命が、光り輝いてそこに在る。それは、生命の本源的な姿です。そして、この自分もまた、生命力に満ちて、ここに在る。成長を求めて、ここに在る。光り輝いて、ここに在る。そのことに気がつくとき、我々の中に一つの思いが生まれてきます。必ず終わりがやってくるこの生命。ただ一度限り与えられたこの生命。いつ終わりがやってくるか分からないこの生命。このかけがえのない生命を精一杯に生き切ろう。そして、このかけがえのない一日一日を、精一杯に成長していこう。その思いが生まれてくるのです」(『人生の成功とは何か 最期の一瞬に問われるもの』田坂広志)

 人は何かに執着し「人に勝ちたい、一番になりたい、(人より)金持ちになりたい、成功したい、・・・」と望んだりします。でも、それらはみんな、他人と比較し、他人に勝つことで達成される願望であって、自分の願望に他人との関係が入ると、挫折し、暗く、そして苦しい人生を歩むことにもなりかねません。それに対して、自分自身を成長させることは、自分自身で完結し、自分だけでできるので、ストレスもたまりません

「成長動機で動いている人は、他人に頼ることがないので、不安や敵意もない」(『不安の心理 安心の心理』加藤諦三)

 あなたを悩み苦しめているのは、おとなに成長し自立することができずに、何かに依存(執着)せずにはいられない「子供としての心」なのです。

 他人との比較や依存(執着)から離れ、あるがままの姿をあるがままに受け入れ、心にとらわれをなくし、自らが成長することによって、人は悩みや苦しみの束縛から解放されるのです。

「宇宙には、すべてをよくしていこう、進化発展させていこうという力の流れが存在しています。それは、宇宙の意志といってもよいものです。この宇宙の意志が生み出す流れにうまく乗れれば、人生に成功と繁栄をもたらすことができる。この流れからはずれてしまうと没落と衰退が待っているのです。ですから、すべてに対して『よかれかし』という利他の心、愛の心をもち、努力を重ねていけば、宇宙の流れに乗って、すばらしい人生を送ることができる。それに対して、人を恨んだり憎んだり、自分だけが得をしようといった私利私欲の心をもつと、人生はどんどん悪くなっていくのです」(『生き方―人間として一番大切なこと』稲盛和夫)

 欲求とは成長しようとするエネルギーです。人は、他人と比較し自己の優越に執着してしまうと、「(人より自分が)幸せになりたい、金持ちになりたい、成功したい、・・・」と、欲求が自らのエゴに向かい、エゴは肥大化し、自分のことしか考えられなくなり、我欲が満たされず、他を怨んだり責任を他のせいにして成長が止まり、心を病んでしまいます。

「最近、誰と接する時でもうまくいくおまじないを知りました。『目の前の人が、幸せになりますように・・・』そう心の中で念じるのです。それだけで、自分の心が落ち着いてきて、自然と表情がおだやかになります。相手の幸せを祈ることで、一歩ひいて見ることができるのでしょう。ゆとりができるので、心理的な距離感もよく見えてくるような気がします。それに、自分がどう思われるかも気にならなくなり、相手の立場で話を聞くことができるのです」(『PHP[2006年7月号]』山下景子)

 欲求がエゴという狭い枠を超えて、すべての人々の幸せに向かうならば、ストレスはなくなり、心は安らぎと喜びと幸せに満たされ、心の温かい寛大な人間として成長していけるのです。

「人間は本来、宇宙の摂理の中で生命を与えられ、調和の中で生きていくしかない存在なのです。調和の世界を生きるとは、単によい行いをしたり、他人に親切にすることではありません。人間として真に成長していくことなのです。真の成長とは、自分の弱点に気づきながら、しかし弱点に流されることなく、調和の方向へ歩み出すことです。人と人とのつながりを大切にし、心と体、人と自然との調和を取り戻し、自由に楽しく、喜びに満ちて生きる。そういう生き方ができて初めて、真に成長した証しとなるのです」(『ありがとう、あなたが私の子でいてくれて』鈴木秀子)

 人を幸せにすることを楽しんでやることで、人は幸せを感じ、自らを高め成長することができるのです。

 私たちは、今、ここに生きていることが当然のように思ったりします。でも、今まで数知れない「命」が失われてきた宇宙の永い歴史の中で、人間として、今、ここに生きているこの瞬間ほど、奇跡的なことはありません生きているだけで幸せなことなのです。

「自己の欲望を満足させることこそが最上の快感であり、人生の目的なんだ」といった考え方を、幼い頃から価値観(マインド・コントロール)として心にしみついている人は、自己の欲望の満足による快感から容易には解放されません。自己の欲望がすべて自分の思い通りになることなど、決してあり得ないのですから、自己の欲望を満足させることができずに悩み苦しんでしまいます。

「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰(いん)の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ!』と」(『赤塚不二夫告別式での弔辞』タモリ)

 受け入れるということは、決して受け身になりあきらめてしまうということではなく、「すでに起きてしまったことをしっかりと受け止める」ということです。起きてしまったことに執着し、愚痴を言ったり他人を非難してみても、決して元には戻りません。そればかりか、怨み、憎しみの感情で心を病み、自分自身の成長を止めてしまうのです。起きてしまったことを、人生の現実を『これでいいのだ!』と、あるがままに受け入れましょう

「私にはこんな欲望があるんだ」でも「すべての欲望が自分の思い通りになることはないんだ」と自らの欲望、自己の不完全さ、今の自分をすべて認め受け入れ、「欲望の満足は一瞬の喜びであり、それが満たされればまた次の欲望が生じ、すべてが思い通りになることはなく、自らの欲望、完璧さを追い求めることでは永遠に心は満たされない」ことを自覚しましょう。そして、今、ここに生きていることの幸せに感謝し、自らの欲望を他への思いやりに向けることで、心は至上の幸福感で満たされ、真に人間として成長していけるのです。

 一度だけの人生、どうせ死ぬなら「死」を避けられないものとしてしっかりと受けとめ、いつ死んでも悔いのないよう、毎日毎日を自らの欲望や他人の言動に執着せず、すべてをあるがままに受け入れ、苦しみよりは喜びに満ちた「今」を心豊かに、とらわれのない人生を自分らしく生きぬいて「私の人生は楽しかった」と最後は笑って死にたいですね。

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