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松葉祥一氏によれば死刑否定論者とは、「殺すな」という倫理的命令を、無条件に正しいと考えるか否かにかかっているそうだ。死刑否定論は、「いかなる理由であれ、殺すな」を絶対的命題として主張する立場だそうだ。「殺すな」という命題は、動物には適用されないので、「人間である以上は、殺すな」という意味になる。すると、生存権は、人間に固有な絶対的に保障されるべき権利であり、人道主義の論理だということができる。
生存権が、人間にとっての絶対的人権と看做されるようになったのは、社会の世俗化が進んでからであった。カミュが言うように、神が死んだ社会においては、死刑は酷なのだ。人類史のつい最近まで、死を賭してでも、生存以上の価値を目指すことが、最上の生き方とされてきた。欧米でも、カントやヘーゲルは、この立場に立っていた。しかし度重なる戦乱で、死を賭してでも、生存以上の価値を目指すことは、あまりに大きな代償を払うので、西欧人はホトホト疲れてきた。30年戦争、フランス革命、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、「大義」の旗の下に莫大な数の命が犠牲になった。もはや、「人間」を超える価値の物語は、信憑性を失ってしまった。反動として、人間が命を賭けるような大義は、すべて疑いの目で見られるようになった。これが、世俗化の終着点であった。
ニーチェは、「人間の意志は、一つの目標を欲する。そして、それを欲しないよりは、まだしも無を欲する」と云ったが、人間を超える価値を失った西欧人も(戦後の日本人も)、価値の不在には耐えれないので、人間の中だけで見出せそうな価値を探した。箱の中に残っていたのは、生存権という価値だった・・・。そういうわけで、人類史上初めて、「生きている」こと自体が、最上の価値とされる時代がやってきた。どんな生き方かは、とりあえず問わない。生きていること、死なないことこそが、無条件の倫理命題とされたのである。生にとって障害になるものなら、どんな小さなことでも排除されるようになった。生存権が、絶対の価値だから。これに文句をつけることは、決して赦されない。嫌煙権運動、健康ブーム、生にとって危険なことは、すべて禁止。死刑廃止運動や禁煙運動は、世俗化が最も進んだヨーロッパから生まれ、西欧に支配された国連を通して、普遍的価値として布教されている。現在は、世俗化に反抗する勢力、つまりイスラム社会、日本、中国、ロシア、そして最後のキリスト教国家アメリカ(右派)などが、生存権を持って最高とする価値観を拒否している。国連から多大な援助を受けているアフリカ諸国は別として、死刑制度の存続の是非は、世俗化を肯定するか否定するかに関係しているのであって、文化の残虐さや後進性とは、全く関係ない。
人間を超えたいかなる聖なる価値も否定して(そのためには、人命を犠牲にしてもいい価値)、生存権を最高の価値とする世俗社会の人道主義には、死刑廃止運動に関連して、奇妙なねじれの構図が存在する。それは、一方で死刑廃止を訴えながら、中絶には大賛成という矛盾である。リベラルな人ほど、死刑には反対だが、中絶には賛成という人が多い。、「いかなる理由であれ、殺すな」という命題が、どうやって中絶と両立するのか、私には不思議でならない。
現在の自由主義的生命倫理学では、
@生物としての人間の生命と、人格の生命とは異なる。
A人格とは、道徳的対応能力を持つものに限られる。
B可能的にのみ人格である胎児は、現実的な人格としての生存権は持たない。
C母親は、大人なので自己決定権をもつが、胎児は自己決定権を持たない。
D胎児は、生存権を持つ人格ではない。
(加藤尚武氏・『現代倫理学入門』)
ようするに、人格としての対応能力のある者だけが、生存権を有するわけである。しかし、この考え方は危険である。この論では、対応能力の欠如している人間、例えば、重度の精神障害者やボケ老人は、人格ではないことになり、したがって生存権を持たず、「いかなる理由であれ、殺すな」という命令の範囲外にいることになる。人格概念が恣意的に決められるならば、犯罪者を正当な人格から外すことも可能である。絶対的基準がないのだから。
「殺すな」という倫理的命令を、無条件に正しいと考えるとは、人間として生を受けた者は、胎児や障害者に関わらず、人間としての生存権を認めるということにならざるを得ない。胎児は殺しても良いが、極悪犯罪者は殺してはいけないというのでは、生存権を無条件に認めるという崇高な理念に矛盾がないだろうか? 人道主義を掲げながら、なぜ死刑廃止論者は中絶を認めるのか? もし中絶を認めるなら、ある条件によっては、人命を犠牲にしなければならないことを認めることになり、したがって死刑制度の妥当性も原理的には認めざるを得ない。。「殺すな!」についての首尾一貫した立場とは、死刑にも中絶にも反対するという立場だが、現実にそれを条件にしたら、アムネスティなどの西欧の人権団体は、瞬時に消滅するだろう。一方、アメリカの宗教右派は、中絶には生命の尊厳に訴えて反対するが、死刑制度には賛成しているのも、一貫性に乏しいように思われる。
この世には、無条件に正しい倫理的命令などあるのだろうか? 「殺すな!」という命令にしても、ある条件と環境によっては、殺すことが認められるケースがあるのではないだろうか? 死刑制度廃止と女性の中絶権は、リベラリズムの看板だが、不自然な人格概念をこしらえないと一貫性を維持できないようでは、進歩的死刑廃止論も説得力に欠けるのである。はたして、本当に生存権は、絶対的に妥当する普遍的な価値なのだろうか? しかし、生きることそれ自体が、最高の価値だとは、少し寂しい気もするが。
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