Ethical Experiment

倫理と刑罰

Welcome to my column


立場を置き換えた死刑論

 

 死刑存続論者が死刑反対論者に突きつける反論の1つに、「あなたが被害者の遺族なら、同じことが言えるのか?」という質問がある。光市母子殺人事件の弁論を担当して、荒唐無稽な論述をした安田好弘弁護士に対する非難でも用いられた論法である。被害者の遺族の立場に自分を置き換えて再考することを求<める論法であり、とてもポピュラーだ。

 立場を置き換えて死刑制度を再考できるもう1つの視点があるが、それが識者から語られたことはほとんどない。それはこうだ:あなた自身が鬼畜の殺人を犯した場合、どういう刑に値すると考えるか?幸せに暮らす妊娠中の親友の妻を胎児もろとも殺害し、ついでに目撃者も殺したとしよう。さて、死刑存続論者に質問してみる。「あなたは、自分の犯した罪を省みて、終身刑と死刑のいずれの刑をもって罪を償うのがふさわしいと考えるか?」。まぁ、常識的な責任感が備わっている人なら、「自分は死刑によって罪を償うのがふさわしい」と答えるだろう。当然死刑は嫌だし、答えたあと感情的には後悔するかもしれないが、理性は正しい答えだと思うだろう。

 では、死刑反対論者はどう答えるだろうか?この質問のポイントは、被害者の遺族という立場ではなく、第三者的立場でもなく、自分が殺人犯であるという立場である。自分で、自分の犯した罪にふさわしい刑を選択するのだ。彼は終身刑をふさわしいと答えるだろうか、それとも死刑がふさわしいと答えるだろうか?

 死刑反対論者が、「死刑は国家の殺人だから、自分は終身刑がふさわしい」と答えたとしよう。すると彼は、こう言っていることになる:「国家の殺人に比べたら、おれの殺人は軽いもんだ」。彼がそう考える根拠も興味深いが、彼の友人・家族を含む、社会一般の反応はさらに興味深い。こういう発言を公けでするには、かなりの度胸が必要だし、マスコミを含む世間は決して容認しないだろう。ここで明らかになるのは、「死刑は国家の殺人である」という反対論は、第三者的立場にのみ容認されている反論であるということだ。殺人者の立場でこれを言うと、容赦のない非難が予想される。安田好弘弁護士は、「国家が人を殺すなんておこがましい(現代思想3月号)」と述べているが、これを加害者の立場で言ったとしたら、「お前が言うな!」と非難されるであろう。

 それでは、殺人を犯した死刑反対論者が、「死刑は遺族の感情を癒さない」という理由で、自分の死刑に反対したらどうなるだろう?終身刑でも、遺族の感情は癒されない。どちらにしても癒されない。そもそも刑罰とは、遺族の感情の回復を目的にはしていない。盗みを犯した犯人が、「私が刑務所に入っても、被害者の感情は癒されないから、刑務所に入れるべきではない」と主張したらバカげているのと同じである。したがって、遺族の感情を理由に死刑を免れようとするのは、いまいち弱い。

 殺人を犯した死刑反対論者が、「私を死刑にしても、被害者は生き返らない」と主張して、終身刑を選んだらどうだろう?すると彼は、こう言っていることになる:「どうせ被害者生き返らないんだから、おれの方を長生きさせろ!」。この発言にも、狂人な心臓の強さが要求される。自分が恥知らずだと思われても、生きながらえたいという信念がない限り、この発言は不可能だろう。第三者的立場では許容されても、当人が主張すれば非難される発言もあるということだ

 では、殺人を犯した死刑反対論者が、「刑務官の感情・人権に配慮して、終身刑を選ぶ」と主張したらどうだろう?「刑務官の感情・人権に配慮する常識があれば、なぜ自分は被害者の感情と人権に配慮しなかったのだろう?」という疑問が浮かばない類の人間以外、こういう発想は不可能だろう。おそらく刑務官は、死刑執行に伴う痛みが軽減されて、意地でも執行しようとするかもしれない。

 では、安田弁護士が死刑反対思想の根幹と自画自賛する共生の思想はどうだろう?殺人を犯した死刑反対論者が言う:「死刑は共生の思想に反するから、終身刑を選ぶ」。そもそも、共生の思想に反したから犯罪者になったわけで、共生の思想を理由に死刑を回避しようとする殺人者を世間は赦すだろうか?そのへんも興味深い。つまり彼は、こう主張していることになる。「どんな罪を犯そうが、私とだけは共生すべきである」。恐るべきエゴイズムの持ち主以外に、不可能な発言だとみなされるだろう。

 では、「報復はやめるべきだ!」という主張はどうだろう?この主張は、被害者の遺族の口から語られる場合のみ正しい。この発言が、加害者の口から発せられたと仮定してみよう。あなたが殴られた。殴り返そうとしたら、加害者が言う:「報復は止めるべきだ!」。この主張は、加害者が言っても、何の説得力もない

 ようするに、小生の言いたいことは、死刑の是非をめぐる主張は、語る主体の立場によって評価が変わるということだ。しかし、今まで、死刑の是非をめぐる主張は、被害者の遺族の立場と第三者的立場からのみ評価されてきた。死刑を宣告された殺人者の口からその主張が語られた場合を想定した評価がなかった。つまり、死刑制度の是非をめぐる議論は、被害者の遺族の立場と、第三者的立場、そして殺人者の立場、この3つの立場すべての口から語られても妥当な主張だけが真である

Copyright © 2007 現代倫理のパフォーマンス研究会 all Right Reserved.