Ethical Experiment

実感する倫理

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      否定はそれが否定するものに依存する

 

 欧米人が大好きな、「平等」、「人権」、「自由」、「民主主義」は、すぐれて防御的な理念である。防御的な理念という意味は、「平等」、「人権」、「自由」、「民主主義」は、幸せの実現を目指した理念ではなく、不幸を最小限に防ぐことを目的とした理念であるということだ。ボクシングで云えば、クリンチ、ガード、ディフェンスであって、フック、アッパー、ジャブではない。したがって、「平等」、「人権」、「自由」、「民主主義」が実現したからといって、社会は幸せになるわけではない。ある特殊な不幸の種を取り除くだけである。人間は不幸の種を取り除いたからといって、幸せになるわけではない。

 さて、この点が欧米をして、世界史上稀にユニークな社会にしている。欧米は、社会が目指すべき価値目標を、内容の積極性においてではなく、形式の否定性において設定したのだ。つまり、平等とは、不平等に反対する理念であり、人権とは国家の抑圧に反対する理念であり、自由とは国家の制限に反対する理念であり、民主主義とは王政・独裁制に反対する理念である。現代欧米社会の理念とは、「○○に反対する」という形式でしか表現できない理念なのだ。

 否定は、それが否定するものに依存する。ガン細胞と同じである。ガン細胞は、人体を破壊するが、人体を破壊し尽くしたら自分も消滅してしまう。欧米の諸理念は、否定の否定である。否定するものを破壊すれば、自分も消滅する。したがって、平等とは、不平等がある限り価値がある理念なので、不平等が消滅すれば、平等は積極的な存在理由を失う。民主主義は、独裁制がなくなれば積極的存在理由がなくなる。理念の完全な実現は、その意義消失と同時なのだ。欧米の諸理念は、反対運動の産物である。

 欧米の理念には、幸福の具体的内容というべき積極的価値がないので、ある程度理念が実現してしまえば、やることがなくて困ってしまう。したがって、常に反対すべき敵を必要とする。完全に人権が実現したと認めてしまっては、人権は不要になってしまう。だから、どんな些細な人権抑圧でもいいから捏造してでも、反人権を探さなければならない。自由は実現してはいけない。つねに、少し不完全な状態でなければいけない。なぜなら自由を実現するために戦う敵を失うから。

 欧米社会が、自分たちの圏内である程度理念を実現したあとで、こんどは他の文化圏にも人権や民主主義を布教しなければいけない理由がここにある。彼らの理念は、「○○に反対する」という形式でしか推進できないので、反対する何かが不可欠なのだ。イスラム社会は、本質的に自己満足的社会なので、自己の文化的存在意義を持続させるために、欧米社会を必要としない。日本も、自己の文化的存在意義を持続させるために、欧米を必要としない。鎖国でもして、寿司食って、サクラ眺めて、自分たちの文化の中だけで楽しく暮らせる。ところが、欧米はそうはいかないのだ。欧米には、アルカイダが絶対不可欠である。

 中国や韓国を例に挙げるとわかりやすいだろう。否定は、それが否定するものに依存する。日本がいなくなったら、中国と韓国は、自己の国家理念を同時に失ってしまう。中国共産党と韓国は、反日を自己の正当性としてスタートした国だから。日本は、中国と韓国が明日消滅してくれても、何事もなかったとように、今までどおり楽しくやっていくだろう。日本文化は、否定の否定によって成立しているわけではないから。サヨクは別だ。サヨクとは、本質的にいって、否定の否定によって成り立っているので、否定が消滅した途端、否定の否定である自己も消滅する。これがサヨクの、本質的限界である。

 そういう意味で、世界の諸文化を、自己充足型と他者依存型の2つのタイプに分けてもいい。日本は、典型的に自己充足型である。鎖国できる国は、自己充足的文化である。自己の存在理由のために、外部のを必要としない文化だ。

 さて、欧米のように、敵を必要とする他者依存型文化の特徴は、その文化の根幹が抑圧からの解放というネガティブな物語に規定されている点である。彼らは、解放され続けなければならない。なんとしんどいことか・・。どこかに抑圧する悪がなければならない。

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