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2月17日の社説で、朝日新聞は、オーストラリアのラッド首相が先住民アボリジニーに公式謝罪したことを高く評価した。オーストラリアが過去の過ちを認めた勇気を称え、日本の慰安婦問題への対応を批判する内容だった。
この社説を読んで、岸田秀氏が書いた「セルフイメージの構造(ものぐさ精神分析・中公文庫)」を想い出し苦笑してしまった。岸田氏は、この優れた小論において、こんなテーゼを主張している。曰く、「主観と客観は逆比例する」。つまり、主観的なセルフイメージと、客観的姿は逆比例するという主旨である。
岸田氏のテーゼを解説するとこうなる。傲慢な人間ほど、自分を謙遜だと信じている。謙遜な人間ほど、自分を傲慢だと信じている。なぜ、こういう逆比例が起きるかといえば、傲慢な人間は、セルフイメージの一般的基準を、かなり低く設定しているからである。自分が謙遜だと自己イメージするためには、謙遜の一般的基準と比較して、そうイメージするわけである。しかし、傲慢な者は、謙遜の一般的基準をかなり低く設定して、その基準で自分を計るから、自分を謙遜と勘違いしてしまうわけだ。
例えば、ある傲慢な人間は、謙遜と傲慢を分ける線を、「自分を天才だと公言しない」という点に設定する。すると、天才だと公言しない自分は謙遜だという結論になる。かくして、彼は、自分を謙遜だと信じる。しかし、問題は、彼の基準が低すぎることだ。世間では、誰も、「自分を天才だと公言しない」ぐらいで、謙遜だとは思っていない。したがって、世間から見れば、彼は『勘違い男』である。
逆に、真に謙遜な人間は、謙遜さのハードルを高く設定している。したがって、高い謙遜さの基準に、自分は達していないと思ってしまう。彼は、常に「自分は傲慢な人間だ」と信じてしまう。しかし世間は、そういう彼を謙遜だと認知するのだ。
朝日新聞が、自分を過去の過ちを反省する陣営の代表格だと信じているのは、朝日新聞が設定している反省の基準が極めて低いからである。したがって、世間からすれば、反省の範疇に入らないような当然な常識をクリアした自分を自賛する。しかし、世間が当然反省すべき本来の基準で、朝日新聞を非難すると、朝日新聞は、過剰な非難だと逆切れしてしまうのである。朝日的基準からすれば、2万人の集会を11万人と捏造したことの反省を求められるのは、心外なことだろう。なぜなら、それはあまりにも法外に高い要求だからである。朝日の一般的基準に照らして法外に高いだけで、世間的には極めて自然である。というより、朝日新聞の基準が、法外に低いのである。
岸田氏の法則からすれば、朝日新聞の自己イメージは、その客観的姿に反比例する。欧米諸国も同じである。欧米人は、自分たちが過去の過ちを認め謝罪したゆえに、他の国にも過去の過ちを認め謝罪するように要求する。驚くべきことに、議会で決議案まで議決してである。彼らは、自分たちに他国へ謝罪を要求する資格があると信じている。その理由は、自分たちがまず模範を見せて、謝罪したからだ。
ところが問題は、欧米の謝罪の基準が、世界的に見て低すぎることである。オーストラリアが、先住民に謝罪した。アメリカが、奴隷制度に謝罪した。欧米人の低すぎる基準からすれば、彼らの謝罪は立派だと自賛している。しかし、他民族からすれば、その程度は謝罪して当然のことであり、立派でもなんでもないのだ。問題は、彼らの謝罪がその程度にとどまっている点である。アボリジニーに土地を返還し、金銭的保証をして、自分たちが旧大陸に帰ることこそ、真の謝罪であるはずだが、欧米人の反省の基準が低いので、彼らはそんな要求を過大な要求だと跳ねつける。いかにも心外だという、様子である。インディアンにアメリカ全土の土地の賃貸料を、コロンブスの時代まで遡って支払うのが、真の反省だろう。しかし、アメリカ人にはそれが法外な要求に感じられるのである。彼らは、その謝罪がいかに困難であったかを強調するが、彼ら以外の誰にとっても簡単なことである。
自分たちが非道な虐待をしてきた国ほど、他国にまで謝罪を要求する傾向がある。理由は、自分たちの謝罪のハードルが低すぎるからだ。真に謝罪すべきことを法外な要求と感じ、バカでも誰でも謝罪するだろうことを、自画自賛して謝罪しているので、「私の模範に従え!」というような態度で、他国に謝罪を要求する。しかし、主観と客観は逆比例する。岸田氏の法則は卓見である。
岸田氏によれば、正しいセルフイメージを持つためには、その主観的解釈の要素を拭い取って、事実だけを抽出すると良いそうだ。アメリカやオランダ、カナダやオーストラリアが、植民地に対して、原住民に対して、戦争において、差別政策においてなした非道の客観的事実だけから、セルフイメージを再構築するのである。朝日新聞も、また然り。アサヒッた捏造の事実だけをもとにして、セルフイメージを再構築する。そのとき彼らは、自分たちの反省の基準があまりにも低すぎたこと、自分の謙遜さのイメージが、客観的事実とかけ離れていること、この世の誰にも反省と謝罪を要求する権利もないことを知ることになるだろう。お前が言うな!
しかし、そんなことが現実に起こるだろうか?問題は、なぜ彼らが、そこまで低く自己反省のハードルを低くできるほど、バカなのかという点である。つける薬がないような気がする。
この法則からすれば、日本はその逆のパターンである。日本人は、自分たちが謝罪が足りないと信じている。しかし、真実は、私たちは、謝罪しなくても良いことまで、謝罪し続けてきたのだ。日本人は、反省のハードルを高く設定しすぎているので、すべてが反省の対象になってしまう。真に謙遜な人間には、自分のすべてが傲慢に感じるかのようである。日本人の主観と客観も逆比例する。問題は、基準の設定が低い民族ほど正義の味方になり、基準の設定が高い民族ほど悪役になってしまう、世界全体の民度の低さだろう。
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