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「彼の道徳こそは、彼が何者であるかを示す。換言すれば、彼の本性のもっとも内的なるもろもろの衝動が、いかなる順序を持って配列されているか、を示す(ニーチェ)」
安部内閣では、教育再生を最優先課題として取り組んでいるが、なかでも道徳教育には、特に重点を置くらしい。お金はあるのに、子どもの給食費を払わないバカな大人にならないように、しっかり公教育の再生に取り組んで欲しい。テレビによると、最近は、親バカも度を越しているようで、「担任の先生は、私が指名する」とか、40人クラスなのに、「私の子どもに合ったカリキュラムを組んでほしい」と、先生に当然の権利として、命令する親もいるようで、教師受難の時代のようだ。
子どもに道徳を教えるのに、道徳ルールの正当性や妥当性を、議論させるとか、考えさせるとか、いう手法は、あまり賢い方法ではない。「命を大切にする理由は、何ですか?」などというお題を与えて、それについて真剣に考えさせれば、子供がいじめや自殺をしなくなるだろうという期待は、ほぼ無駄に終わる可能性が高い。もちろん、やらないよりはマシだろうが・・。そもそも、経験に乏しい小学生が、大人が考えても、論理的にハッキリ答えが出ないような問題に知恵を絞っても、大きな効果は期待できない。さらに、子どもに限らず、大人にとっても、道徳ルールの正当性の理由を議論したり、考えたりすることで、道徳的向上を目指す手法は、あまり効果を挙げないものだ。
さて、道徳性を人格の統合、つまり生命の組織化の力として考えてきたが、この視点からだと、道徳教育をどのように考えることができるだろうか? 『現代倫理のパフォーマンス』の提言は、
@ヒーローを持つことと
A「あの人なら、ここで、どうするか?」と自問することである。
最近の宗教の傾向では、戒律を信者に教えるのに、経典に書かれた言葉の意味を解説するのが、主流になっている。特に顕著なのは、キリスト教プロテスタント(新教)である。背景として、西欧では、18世紀以来、文献批評(歴史批評)の手法が、急速に発達したことがあげられる。神学者たちは、それを経典・聖書に応用したのである。福音書に記されたイエス・キリストの言葉は、当時の(2千年前!)、文法、歴史的背景、文化的環境を分析すると、当時、こういう意味だったはずだ、という文献学的意味を確定することが、キリスト教倫理の主な作業になってしまった。福音書の道徳の、正しい意味を知ること、それに基づいて、正しく生活に応用すること、これをもって、宗教倫理の教育になってしまったのである。
仏教徒にせよ、キリスト教徒にせよ、イスラム教徒にせよ、最も効果的な倫理的手法は、「仏陀なら、ここで、どう決断するだろうか?」、「キリストなら、ここで、どう振舞うだろうか?」、「ムハンマドなら、ここで、どういう態度でいるだろう?」と自問して、教祖のように、自分も行為することである。経典に記された教祖の言葉は、彼らが命じたルールではない。 「彼の道徳こそは、彼が何者であるかを示す。換言すれば、彼の本性のもっとも内的なるもろもろの衝動が、いかなる順序を持って配列されているか、を示す(ニーチェ)」。つまり、教祖の言葉は、彼らが、何者であるかを示す鏡でしかないのである。その鏡に写っているのは、教祖の人格、生命の組織力であって、信者に期待されているのは、その人格、生命と一致することである。新約聖書の、「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい」というキリストの言葉は、道徳的ルールではなくて、この言葉に反映されている、キリストの本性の最も内的なるもろもろの衝動が、いかなる順序で配列されているかを示す暗号なのである。この暗号を字義通り理解して、必死に実行する人も、非現実的だと嘲笑する人も、そもそも前提が間違っている。
宗教に限らず、亡き親を尊敬する人、先輩を敬愛する人、ヒーローを崇めている人は、道徳的に迷った時、「あの人なら、ここで、どう決断し、何を行うだろうか?」と自問した経験があるだろう。その人の人格が、ありありと心に宿っている人ならば、想像するのは容易い。「どの道徳が、妥当だろうか?」なんて考える必要はない。「あの人なら、ここでどうするか?」を想像すれば、すぐ答えは出る。
道徳教育には、ヒーローが必要だと思う。「あの人なら、ここでどうするだろうか?」と問える、模範が必要である。しかし、アイドルは歓迎するが、ヒーローの存在を嫌う現代においては、それが最も難しい。ヒーローは、現代人の平等願望を傷つけるのだ。私たちの「スキャンダル好き」は、ここに起因するのではないだろうか? 「どんな偉業を成し遂げた人でも、せめて、性に関しては、万人が平等だろう」と、私たちは信じたい。飛びぬけた個人に対して、私たち現代人は、嫉妬に狂うのである。パパラッチたちは、それを無意識に見抜いている。そういうわけで、多くのスキャンダルは、性に関するものだ。欧米で、『ダビンチ・コード』がベストセラーになったのも、キリストとマリヤの関係をスキャンダラスに扱ったからであろう。性でスキャンダルが見つからなくても、他を探すだろう。「1つでも共通点が、欲しい!」、これが私たちの、切なる秘めた願望だ。
ルネ・ジラールが云うように、ヒーローのいない時代は、隣人の欲望を模倣する時代でもある。生徒が騒ぐので、廊下に出した教師に、親が抗議して、自分の主張を通すために、子どもを学校に登校させず、その教師と校長まで退職させたという例があったそうだが、国会でも野党が同じようなことをやっているような・・・。「野党のように、あの子が退校するまで、みんなで出席拒否すればいいんだ・・」、それを見る子供たちが、新しいイジメの方法を発見しないことを願うばかりである。道徳教育の再生・・・・。なかなか前途は厳しそうだ・・。
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