Ethical Experiment

実感する倫理

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欲望されたもの

 

 ニーチェは、「結局のところ、人間はおのれの欲望を愛して、欲望されたものを愛しているのではない」と書いている。のちに、フロイトも同じようなことを云っている。おのれの欲望を愛して、欲望されたものを愛さない場合、私たちはどうなるか? 答え、欲望の充足が、永遠に先延ばしになる。欲望されたものを愛した人は、その対象を手に入れた時に、欲望は満たされて満足して終わる。例えば、ある特定のレアな切手を愛した人は、その切手を手に入れた時に満足する。しかし、切手を求める自分の欲望自体を愛した人は、決して満足する地点がない。欲望は、無限だから。

 キルケゴールは、おのれの欲望を愛してしまった人物として、ローマの皇帝ネロとドンファンを描いてている。ネロは、権力への欲望を愛した人として、ドンファンは、恋愛欲を愛した代表として。両者はどちらも、どうしようもない空虚感に行き着いてしまう。欲望を愛した人は、満足が先延ばしになるので、ガソリンを補給せずに、目の前の蜃気楼を追いかけて走る車に似ている。満足感というガソリンが補給されないので、走れば走るほど、燃料タンクは空になる。空虚になる。ガソリンが底をついても、走りたい欲望だけはさらに増すので、苦しみだけが増す。解決法は唯一つ、走りたがっている自分を殺すことだ。フロイトの云う「死の本能」とは、満足が先延ばしされ、心の空虚に耐えられなくなった人が、苦しみの原因である「欲望を欲望する自分自身」を消し去ろうとする衝動であろう。

 宗教的には、おのれの欲望を愛することは、「貪欲」と呼ばれる。諸宗教で、貪欲が罪とされるのは、満足の先延ばしが、空虚感を生み、自己破壊の衝動が自分を壊してしまうからだと思われる。逆に、「欲望されたものを愛する」ことは、愛と呼ばれる。愛は、明確な対象を持つ。したがって、それを手に入れた時は、大いに満足する。恋愛の場合、「貪欲」は「恋に恋する」状態と呼ばれる。「愛」は特定の誰かを目標にする。成功の場合、「貪欲」は成功欲と呼ばれる。「愛」は夢やビジョンと呼ばれる(特定の地位と特定の成功の目安がハッキリしている)。食事の場合は、「貪欲」は過食と呼ばれ、「愛」は好物と呼ばれるだろう。貪欲は、制限がないので満足が先延ばしにされ、愛は、明確な制限をもつので満足にいたるのである。

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