Ethical Experiment

実感する倫理

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喜びの消失

 

 ティリッヒによれば、喜びの法則とは、次の通りである。ある小説家がいるとして、その人が、自分の作品を通して得られる世評や賛辞を求めて仕事をした場合、世間からの賛辞を大いに味わう喜びを手に入れるが、小説を書くという仕事そのものから得られる喜びは失ってしまう。宗教家が、神仏と深い交流をしているという評判を求めて仕事をした場合、信者が与える評判を楽しむことができるが、神仏との交流そのものから得られる喜びを失ってしまう。慈善家が、ボランティアをしている「自分自身」を喜ぶと、ボランティアそのものから得られる喜びを失ってしまう。恋人が、交際することで得られる自慢、セックス、楽しさを喜ぶと、恋人一緒にいること自体から得られる喜びを失ってしまう。ラーメン好きが、有名店を訪れた数を喜ぶと、ラーメンそのものから得られる喜びを失ってしまう。営業マンが会社で売り上げナンバーワンになったことで得られる賛辞を求め喜ぶと、仕事そのものから得られるはずの喜びを失ってしまう。

 世評や、賛辞や、自慢や、数が与える喜びは、あることに携わることで、「派生的」に生まれてくる喜びである。ティリッヒが言わんとするのは、「派生物から生まれる喜びを求めると、本体そのものが与えてくれるはずの喜びを失ってしまいますよ」という警告であろう。しかし、世評や、賛辞や、自負心を喜んではいけないという意味ではないだろう。まず最初に、それらを求める人は、それを手に入れて喜ぶことができるが、本体そのものが与える喜ぶを失ってしまうということだ。逆に、小説を書くこと、神仏を追及すること、ボランティアをすること、恋人、ラーメン、仕事すること自体を目的に楽しめば、そこから得られる喜びと、プラス、運がよければその「派生物」が与える喜びも得ることができる。運が悪ければ、派生物の喜びはないが、それは本来求めていなかったものだから、なくても気にならないだろう。あれば儲け、なくてもないでよし。仕事そのものを愛している人は、その派生物を誉められても、あまり気にしないので、「謙虚な人」という更なる賛辞を頂く。

 私たちは、多くの場合、仕事から得られる賛辞を受ける「自分」、希少な満足を味わう「自分」、崇高な仕事に携わる「自分」、つまり「喜んでいる自分」を喜んでいるのかもしれない。「喜んでいる自分」を喜ぶと、自分の仕事そのものが与える喜びを味わえなくなってしまうのではないだろうか? 成績、世評、賛辞などの派生物は、時世の運によって左右されるが、仕事に熱中することから得られる仕事そのものの喜びは、いつも変わらないだろう。

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