Welcome to my column
私たちの中には、さまざま可能性がある。しかし、万人に同じだけの可能性が、平等に与えられているわけではない。誰もが、プロ野球選手になれるわけではないし、オリンピックの金メダル選手になれるわけではない。格差社会といわれているが、現代の日本でも、私たちがおおよそ開花できる可能性は、家庭環境や経済力に大きく影響を受けることが知られている。とはいっても、発展途上国と比較すれば、日本の格差社会など、あちらの格差とは比べ物にならない。一般的に、発展途上国とは、お金持ちがいない国ではなく、富む者と貧しい者の格差が絶望的に大きい国といわれる。発展途上国で暮らす人たちと比べれば、日本の中流は、自分の可能性を開花させる大きな可能性を持っている。可能性の豊かさは、選択肢の可能性に比例するだろう。平均的アフリカ人の選択肢の数と、平均的日本人の選択肢の数の差は、不幸なことだが絶望的に大きい。
しかし、同時に選択肢がいくら多くても、すべてを選ぶことはできない。私たちは、現実的な可能性を実現するために、リスクのある可能性を犠牲にすることがあるし、リスクのある可能性に挑戦するために、現実的な可能性を犠牲にする。生活の安定を求めるために、夢をあきらめることがあるし、夢を追い求めるために、生活の安定をあきらめることがある。現実の結婚生活を維持するために、魅力的な異性との出会いをあきらめることがあるし、その逆もありえる。一般的には、私たちは、現実性の高い選択肢を好むことが多い。現実的に手に入れる可能性が高い方を犠牲にしてまで、未知の可能性に賭ける人は少ないだろう。
選択肢が多ければよいかといえば、それもまた微妙な問題だ。選択肢が豊かな社会とは、それだけ『犠牲』の大きさも意識する社会である。貧しく、しかも選択肢がない家庭は、ケーキが食べれれば、それだけで大きな可能性を実現した実感を味わえるが、選択肢が豊かな家庭では、どのケーキを選び、どのケーキを捨てるかについて大いに迷う。その家庭は、1つのケーキを選んだ背後に、もしかしたらそれと同じか、それ以上に美味しいかもしれない無数のケーキを犠牲にしたことが意識に昇る。貧困しか選択肢がない人は、貧しくなくもあれたかもしれないけど現実には貧しい人と比べると、いくらか幸せかもしれない。現在の私たち日本人は、可能性の情報が溢れまくっているので、自分が最良の選択をしたかどうかについて、常に不安を持つ可哀相な状況に生きているのかもしれない。雑誌やテレビが、自分の現実の選択よりも、豊かに見える可能性を常に提示するからだ。
私たちは、貧しさを選択することで、より豊かな結果を得ようとすることもあるし、豊かさを選択して貧しくなることもある。交友関係の幅広さを犠牲にして、唯一無二の親友を得ることもあれば、顔は広いのに親友のいない人もいる。食事を厳しく制限して、走ることだけに自分を「貧しく」し、金メダルという豊かさを得る人もいれば、グルメで多趣味の限りを尽くしながら、何1つ、一生心に残る達成感を味あわない人もいる。また、狭い道徳観にこだわって、生が提供する豊かな可能性を知らずに終わる人もいるし、1つの夢に賭けてみたけど、無駄に終わった人もいる。
私たちの生活は、犠牲の連続である。可能性のために現実性を犠牲にするか、現実性のために可能性を犠牲にするか。運がよければ、より豊かな可能性を実現して、小さな現実性を超えることもあるし、無茶な可能性を見極めて、確実な現実性を地道に手堅く実現する。運が悪ければ、可能性に賭けてみたけど、失って初めて小さな現実性の幸せを実感することもあるし、大樹の陰を選ぶことで、自分の真の可能性を永遠に墓に葬ることもある。
倫理的な選択も犠牲である。社会が要求する道徳を選んだために、もっと豊かな人生の一瞬を捨ててしまったかもしれない。会社の常識に服従したので、大きなチャンスを逃した、既成の価値観に屈服したので、パイオニアになれなかった、自分の直感を信じていたら成功していたというケースもあるだろう。慣習的倫理が与えてくれる豊かさより、非倫理が与えるものがより豊かな選択であるかもしれない。逆に、道徳ルールが与える確実性を捨ててまでは得るに値しない、瑣末な欲望の結果を得ることもある。そのとき、刈り取る社会的損失は、一生ものの後悔になるかもしれない。どんなに立派に見える道徳的選択も、必ず犠牲を伴う。可能性を犠牲にしない道徳的選択はない。慣習的道徳ルールは、長い歴史の中で、得るものが失うものより多いと証明された『知恵』なので、それに従うことが無難であろう。しかし、失うものが大きい場合もあるのであって、常にリスクが伴う。
ニーチェは私たちに、「最もはなはだしく後悔されているものは何か?」と質問している。彼の答えは、「おのれの最も固有な欲求に、耳を貸さなかったこと」だそうだ。「おのれの最も固有な欲求」を見極めること、これこそ私が思う、道徳ルールの1つである。これは難しい・・。フロイトが云うような「合理化」という機制があって、私たちは、ある瞬間の安易な欲望を、最も固有な欲求と取り違えてしまう傾向があるからだ。「おのれの最も固有な欲求」というと、利他的な宗教人から反発を買いそうだが、「神の御心」が見出せるは、「おのれの最も固有な欲求」以外にはないと思う。自分が心底、「こうすべきである」と思える地点以外に、神の御心など存在しない。問題は、それを見つけることができるほどの、宗教的修練をしてきたかどうかだろう。倫理的判断には、いつも犠牲が伴う。大切なのは、どんな犠牲を払ってでも、後悔しない選択をできるかどうかだろう。多くの場合、後悔がつきものだ。後悔した選択が、次のステップを教えてくれる。
Copyright © 2007 現代倫理のパフォーマンス研究会 all Right Reserved.