Ethical Experiment

実感する倫理

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寂しさと孤高@

 

 ティリッヒによれば、精神的成長の尺度は、孤独にどれだけ耐えられるかによって決まるそうだ。「生きている」ということは、身体として生きているということだ。身体は、誰にとっても一個だけ。しかも、身体は、他の身体から離れて生きている(シャム双生児は例外だけど)。1人で生まれて、1人で死ぬし、離れて生まれて、離れて死んでいく。生きとし生きるすべての生物は、「生きている」ので、みんな一人。身体は、独立しているから。

 すべての生物は、一人・一匹・1頭だが、人間だけが、自分が一人であることを反省的に「知っている」。だから人間だけが、「自分は何で一人なのか?」、「どうすれば、孤独にならずに済むのか?」と考えてしまう。この孤独さ、寂しさに、私たちは耐えることができないし、しかも逃げることもできない。身体として独立していることが、生物としての最低条件だから、生物であることをやめない限り、「私は一人」からは決して解放されない。

 あまたの生物の中で、人間がおそらく一番寂しがり屋だろうと思う。そうなってしまう理由は、人間だけが、世界と自分の両方を眺めることができるからだろう。動物は、自分の視点からだけ世界を眺めるが、人間は、世界と自分の両方の視点を同時に意識することができる。人間だけが、「世界 vs 自分」、「自分 vs 世界」という構図で眺めることができるので、自分自身を、自分以外のすべて(それこそ全て)から分離した構図で見ることができる。自分自身を、自分以外のすべてから分離した構図で見るということは、世界を眺めながら、「私は、たった一人だ!」ということに気づく生物であるということだ。

 人間は、「自分の持ち物」からさえ、自分を切り離して自分を眺める。「自分でないもの」を1枚1枚、脇に置いていくと、裸の自分だけが残る。裸の自分がここにいて、それ以外の残り全部が「世界」となって、あそこにある。この状況が、私たちに「自分の貧しさ」を意識させる。「自分に所属するものは、身体しかない」という意識が、人間を豊かさの獲得に駆り立てる。自分以外の全てが、獲得の対象になる。どうして人間は、動物が欲しがらないものを大金を叩いて欲しがるのか? 世の収集家たちを見れば、人類が欲しがらなかった物は、この地球にもはや存在しないではないかと思うほど、実にくだらないものまで欲しがる。食物、ペット、富、知識、地位、名誉、価値、無限に広がる。その理由の1つは、この貧しさの意識であり、つまるところ、寂しさの意識であろう。「私は、たった一人だ!」・・。

 人類のこの貧しさの意識こそが、人間が大地の主である原動力であろう。人類の文明、富、あくなき進歩は、世界と自己を同時に眺め、自己の寂しさを意識した人間においてこそ可能だったと思う。これは、皮肉ではない。貧しさの意識は、同時に愛の原動力でもある。愛は、他者と結ばれる豊かさの追求に基づく。無機物から(宝石とか)、ペットと呼ばれる動物、最近は、環境問題に絡んでクジラ、森林にまで及ぶ人類の愛。地球上で、人間の愛の対象が最も幅広いのは、自己の貧しさをもっとも鋭くに意識するからであり、獲得の対象が自己以外の全世界を含むからだろう。

 私たちが、寂しさを実感するのは、私たちに「私は、たった一人だ!」という現実を忘れさせてくれた誰かがいなくなった時であろう。悪態ばかりついて、いつも喧嘩していた妻・夫・親が突然死去すると、私たちはハッと気づく。「私は、たった一人だ!」。喧嘩ばかりしていたとしても、私たちの「寂しさ」をやわらげてくれた、貴重な人生の同伴者だったのである。

 幅広い交友関係を誇る人も多いだろう。しかし、辛い寂しさを、1人ボッチの時ではなく、むしろ大勢の友人・知人に囲まれている時に感じることも少なくない。私たちに「寂しさ」を感じさせるのは、赤の他人ではなく、むしろ最も親しい友人たちの場合が多い。

 多くの人たちは、愛する努力、愛される努力に励むにもかかわらず、寂しさを感じてしまう。1つの原因は、プレゼントとして与えられるものを、権利として要求してしまうからである。褒められる、愛される、理解されるという好意は、ラッキーなプレゼントであって、受け取る権利ではない。当然、他人は、過剰な要求を拒絶する。拒絶された人は、裏切られたと感じ、孤独にこもることによって、復讐しようとする。

 本物の愛でさえ、拒絶されることもある。本当の愛なら、必ず報われるというわけでもないのだ。愛はリスクを賭けるから愛であって、時には、拒絶の失望も引き受けなければいけないこともある。ある意味、愛でさえ、私たちの寂しさを癒してはくれない。私たちは、それぞれ1つの体として生きている限り、寂しさからの根本的解決はない。

 罪責感の孤独もある。自分の過失に苦しむ意識を、誰にも転嫁することはできない。責任を感じるという意識は、どうやっても自分以外に背負う他人はいない。死の寂しさもある。ネットで募集する共同自殺が、後を絶たないのも、少しでも寂しさを緩和したい必死の努力だろう。

 寂しい人は、私たちの明日の姿である。1つの身体で生きている限り、みんな寂しいのだから。病気でどこか痛い時に、私たちは、1つの身体で生きる本質的孤独を意識する。どんなに同情されても、この痛みを感じているのは、私しかいないのだから。

 多くの犯罪や罪が寂しさから生まれるのだろう。でも、他方で、私たちは、自分から寂しさを求めることもある。寂しさの中に引きこもることも、私たちの健康な徴でもあるのだ。それはまた次回。

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