Ethical Experiment

困難な倫理

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鈍感力

 

 渡辺淳一氏が、『鈍感力』というエッセイを刊行した。さすがは、売れっ子作家。この発想には、感嘆してしまう。小泉前首相が、ここから引いて安部首相を励ましたという。さすがは、小泉劇場を演じた主役。キャッチフレーズに敏感だ。渡辺氏はブログで、こう書いている。

「たとえば会社で上司から叱られたり、なにかいやなことがあってもすぐ忘れて、前向きにすすんでいける人、肉体的にも、よく眠れて、目覚めもよく、なんでも好き嫌いなく食べて消化できる。こういう力こそ、本来の才能を育み、大きく花開かせる原動力になるのです。この鈍感力の最たるものは母親の子供への愛です。たとえウンチでも、子供のものなら色を見て匂いを嗅いで、さらに汚したご飯もつまんで食べることができます。たとえ子供が罪を犯しても、母親だけは許します。この大きな愛こそ、鈍感力以外のなにものでもありません。また、男と女の愛も見方を変えたら鈍感力で、愛する人のことなら、かなりのことでも許せます」(http://watanabe-junichi.net/archives/2007/02/post_49.html)

 ニーチェ的に云えば、鈍感力とは、刺激に対する自分の反応を待機・延期させる力、つまり反応を抑える力である。一般的に云う「鈍感さ」とは、刺激を感受できない感受性の鈍さを指す。しかし渡辺氏やニーチェが云う鈍感力とは、能動的な力であって、刺激を自覚的に無視する力、刺激に対する反応を抑える能動的な力のことである。ニーチェは鈍感力を、本性の強い人間に固有な性質であると云っている。

 自覚的に無視する力・鈍感力が試される場面は、日常生活に多々ある。たとえば、@カッとなりそうな時。「ケンカは怒った方が負け」というが、怒りをグッと飲み込むのも鈍感力。A自慢したくてたまらない時。「能ある鷹は爪を隠す」というが、これもまた難しい。B本心では乗り気でないのに、誘いや頼まれごとを断れない時。日本人としては、Bの場面で鈍感力を発揮するのが、躊躇されるのではないだろうか。

 「断れない弱さ」は、私たちの過敏さから生じる。そして、なぜ過敏になるかと問えば、ニーチェの云う「同情の視点」で他人を体験するからだ。ニーチェは、人間には2つの視点があると云う。1つ目は、まるで他人を眺めるように自分自身の体験を眺める視点。この視点は、緩和剤のように私たちの心をやわらげてくれる。私たちは、第三者の立場で他人を眺める時、より客観的に判断することができるが、それと同じ視点で自分の体験を反省すると、鈍感力が発揮できるようになる。

 2つ目の視点はこれに反して、他人の体験を、あたかもそれが私たちのものであるかのように眺める視点である。ここでは、お勘定は二重に足し算される。他人の苦痛を想像して味わい、それをさらに自分の苦痛として体験する。私たちの自我と他人の自我を同時に苦しまねばならず、自発的に二重の不合理にわずらわされることになる。「断れない弱さ」の原因は、このへんにあると思う。「断ったら、相手はこう感じるはずだ」と想像して苦しみ、本心に反して同意した自分の不甲斐なさをさらに苦しむ。ニーチェが同情を厳しく禁じたのは、同情が他人の苦しみを軽くしないどころか、自分自身の重荷も増してしまうからである。

 そういうわけで、鈍感力は、@他人を眺めるように自分自身を眺める、A他人として他人を眺める、と身につくかもしれない。しかし、ニーチェは、2つ目の視点の例外を認めている。それは、他人が喜んでいる場合である。他人の喜びを、あたかもそれが私たちのものであるかのように体験する。しかし、同情は容易だが、同喜共歓が難しいのはなぜだろうか?

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