Ethical Experiment

困難な倫理

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迷惑な道徳家A

 

 次のタイプは、倫理的迷惑をかけないと自分が壊れそうになってしまうタイプ。このタイプの倫理的迷惑は、自分が不道徳な行為をして、他人に迷惑をかけるわけではない。自分が倫理的であることで、他人に迷惑をかけるタイプである。前回のタイプは、悪気なく「オススメ」してしまい、結果として他人を弱くしてしまう。今回ご紹介するタイプは、

@自分が壊れないために、他人を狂気に追い込む。
A自分が壊れないために、周囲を不道徳にする。

 ニーチェとティリッヒの線における「不道徳」とは、道徳のルールに違反することではない。この2人にとって不道徳とは何か? それは「魂の不健康」のことだ。では、「魂の不健康」とは何か? それは、衝動・欲望の間に体系が欠如していて、人格が内的矛盾と軋轢に苦しんでいる状態のことらしい。岸田秀氏の卓越した譬えを拝借させてもらえば、絶対多数を占めていない政党が政権を握っているようなものである。政権を安定させるために、他の政党をできるだけ抱え込み連合政権を作れば、絶対多数派政権になって安定する。しかし、内部では意見が違う参加政党との不一致に耐えなければならない。これが正常人の状態である。他方、意見が異なる者たちを切り捨てれば、与党は少数派となり、政権内部に限ればすぐ意見がまとまり安定するが、政権そのものは多数野党との間の軋轢で不安定になるだろう。これが、ニーチェ・ティリッヒの云う、人格の「不道徳」な状態だ。

 「不道徳」な人は、極めて狭い土台の上に「自己」を築いている。したがって、極めて不寛容なのだ。テロリストのように・・。スピノザは、「自己保存の努力は、徳の第一かつ唯一の基礎である」と云い、ティリッヒは、スピノザの自己保存を「自己肯定」と解釈した。狭い自己は、自己内部の矛盾と対立によって壊れそうになる自分を必死に保存しようとする。最善の策は、「敵を作れ!」である。彼は、自己の内的矛盾と軋轢を、他者に投影する。彼は他者を攻撃する。非難する。しかし、彼の非難は、人格内部の「与党」に向けられた「多数派野党」の非難を、そのまま他者に転換した非難である。自分が壊れないために、自己の矛盾を他者に向ける。攻撃の対象になった他者は、その非難に沿って自己を形成したら現実に適応できない。なぜなら、攻撃者の現実に適応できない部分が、他者に投影されているわけで、他者がそれに沿って自分を形成したら、犯罪者になるか、発狂するか、拒絶するか、いずれにしても不幸な選択になるだろう。

 自分の中に、現実には「不道徳」な欲望があるにもかかわらず、世間体を気にして、それを抑圧する親は、その「不道徳」な欲望を子どもに投影するだろう。その「不道徳」な要素を創造的に統合することが可能なのにもかかわらず・・・。「不道徳」を投影された子どもは、その不道徳を実践することによって、親に復讐しようとするだろう。親は、子どもの不道徳を受容できない。なぜなら、親自身が受容できないから、子どもに投影した「不道徳」だからだ。

 スピノザは、「自己保存の努力は、徳の第一かつ唯一の基礎である」と言った。ある少数の親は、自己を保存するという「第一かつ唯一の徳」のために、自己の矛盾を子どもに転換する。そうしないと、自己が崩壊する。倫理的であろうとする努力は、自分が倫理的であることによって、自己の負の部分を他者に投影して、それを攻撃することによって、「自己を肯定する」努力である場合もある。。自己の正常を保つためには、自己の矛盾を他者に投影して攻撃しない限り、壊れてしまう人もいるかもしれない。もちろん、大多数の家庭にあっては、そういう悲劇は起きないだろう。しかし、自己の狂気を他者に転換することで、ようやく正気を保つ人がいるように 「善人」になることで、自己の悪を他者に転換して、その他者を攻撃することで正気を保つ人もいるかもしれない。なかなか、人生、難しい。

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